いや、それはいな、とエルは後者の可能性を捨てた。仮想空間に入っている者の数は、外で把握済みだとスウェンは言っていた。つまり、エルの他に、そういった人間の存在はないという事だ。

 鼠男達は、この世界のセキュリティーだ。侵入者を始末する為に動いている彼らが、この少年を追っているというのであれば、何か意味があるのだろう。
そうだとすれば、エルは、この少年を守らなければならない。

 水筒を戻した老人の手が震え始めた事に気付いて、エルは目を止めた。老人の身体から発せられる強い違和感を察して、ああ、来るぞ、と彼女は身構えた。

 エルが見守る中、次第に老人の震えは全身へと行き渡り、身体の骨格に変化が生じ始めた。

 弱々しい老人の身体は、大きく逞しい肉体へと変貌を遂げ、服やサンダルが白い軍服へと転じ、頭部は大きな鼠へとすり替わった。

 新しく生まれた鼠男が立ち上がり、エル達が隠れている場所を振り返った。

 少年が短い悲鳴を上げ、立ち上がり様に腰を抜かして倒れ込んだ。

「に、ににに、逃げなきゃッ」

 少年は腰がすっかり抜けており、地面の上に手と膝をついた状態で、工場の奥へ逃げようともがいた。

 エルは「やれやれ」と立ち上がると、そのまま工場から外へと進み出た。「お前の標的はここだぜ」と挑発の声を掛けて、鼠男を真っ直ぐ見つめ返した。

 工場内にいた少年が、「無茶だ」と情けない囁きでエルに忠告した。

「君も早く逃げるんだ! あいつら、俺以外の人間を、へ、平気な顔で、こ、ここ、殺しちゃうんだからッ」
「俺は逃げないし、殺されない。あいつをぶっ飛ばしてやるから、お前は、クロエと一緒にそこで待っていて」

 立ち向かわない姿勢は気にくわないが、エルは、その苛立ちを敵で発散する事にした。