軍が追っているマルクという科学者の命令で、この世界のセキュリティーの一部が動いているとしたのなら、鼠男が見も知らぬエルへ執着しないのは肯ける。

「……でも俺、詳しくは知らないから、大まかな予想しか立てられないんだけど」

 エルは目を閉じたまま、乱れた呼吸を整え、弱々しく工場内に吹きこむ風に身体の熱が冷まってくれるのを待った。

 目を閉じていると、思考が勝手に回り始めた。仮想空間に入ってからの時間が、エルの中で走馬燈のように過ぎていく。


 エリスの支配は完全ではないのから、まだ大丈夫だろう。各エリアには、それぞれ『宿主』が存在している。

 彼らの世界を完全に支配する事など、現状の『エリス・プログラム』には無理だろう。その身一つで突破するには、あまりに難しいが、でも、やらねばならない。約束された、結末を迎える為に……


 不意に、エルは目を見開いた。

 一体何の話だろう。俺は、今、何を考えていた?

 思考していたはずの事が、途端におぼろげになった。鈍い眩暈を覚え、一瞬、目の奥を刺すような頭痛に顔を顰める。

 エルの脳裏に、見覚えのない記憶がフラッシュバックした。セピア色の映像が、色彩を鮮明に蘇らせ、エルの目の奥でちらついた。

 蘇った記憶の中で、懐かしい古い家の戸が見えた。戸の前には、見知らぬ小さな革靴を履いた子共の足がある。子共は、左足に包帯を巻いていた。開いた戸には、サンダルを履いた大きな男の足がある。

 それは、見慣れたオジサンの足だとは分かった。視点は下に向けられたままで、動かない子共の前に一歩、サンダルを履いた男の足が踏み寄った。


 チリン、と鈴の音が木霊した。

 小さな子共の足元を、毛並みの良い若々しい一匹の美しい黒猫が通り過ぎる。傍らに白衣の裾が覗き、脇から飛び出して来たらしい犬が、目の前を走り去る……
 

 映像は、そこでプツリと途切れてしまった。五感が急速に元の時間軸へと引き戻され、エルは強い吐き気を覚えた。