仮想空間に巻き込まれた男装少女は、軍人達と、愛猫との最期の旅をする

 ハイソンは、夢の中の出来事を思い出した。胃痛と腹痛で忘れかけていたが、そういえば自分もラボを出てから眠気に襲われていたのだ、と思い起こした。

 何か関係があるのだろうかと、ハイソンは、眠りに引きずり込まれそうになる頭で考えた。

 考えようとするほど、睡魔が強くなる。思わず頭を抱えてよろめくと、クロシマがハイソンの腕をしっかりと掴んだ。

「頼むから、寝ちまわないで下さいよ。あんたが一番の頼りなんですから。不思議と、うちのラボに近いほど眠気も弱くなるみたいですし、そこまでは頑張って持ち堪えて下さい」

 クロシマは、半ば強引にハイソンを引っ張り、歩き出した。

 ハイソンは、先程「一服してくる」と休憩の為に席を立った同僚を思い出し、ひどい胸騒ぎを覚えた。

「おい、ジン達は、どうしたんだ?」
「ああ、あの口髭の奴っすか? 確か、ハンソンさんの元同僚でしたっけ――まだ戻って来ていませんよ。そもそも、喫煙所と食堂のある扉は、今は全部内側からロックされちまっていて、こっちから東の棟にも渡れなくなっているんですよ」
「おいおい、それは大事じゃないかッ」

 内側からロックなど、これまで一度も作動された試しがない。あれは元より、検体やウイルスを外へ出さない為に昔設置されていた緊急用の自動反応システムなのだ。
 ハイソンは、叫んだ拍子に急激な胃の痛みを覚えて呻いた。ひどい緊張と責任感から来るストレスだ。彼を連れたクロシマが、肩越しにハイソンを眺めてニヤリとした。

「良かったじゃないっすか。持ち前の胃痛が、あんたを起こしてくれてるんですよ」
「お前、それは上司に対する慰めのつもりか? いつかクビにしてくれる……ぐぅッ、腹が痛い」
「クビにするのにも、書類上の手続きが大変っすもんねぇ」

 クロシマは力なく笑い、それからハイソンの腕を自分の肩に回させた。

「歩けそうっすか?」
「ぐぅぅ……胃痛と格闘中だよ、見たら分かるだろ。全く、たまったもんじゃない」
「あはは、ミルクティーは拾っておきましたよ。胃薬もちゃんと用意してますんで、もうちょっと辛抱していて下さい」

 ハイソンは、自分をほとんど背負うように歩くクロシマを見た。しっかりとしたクロシマの首の後ろには、薄らと汗が滲んでいた。

「そういうお前は、大丈夫なのか」

 思わず声を掛けると、クロシマが弱り切ったハイソンを見て、小馬鹿にするような顔をした。

「さぁてね。俺、実は極度の不眠症なんすよ。人が沢山賑わっている中じゃなきゃあ、ぐっすり眠れない性質なんです」

 ハイソンは眠気を頭から振り払いつつ、どうにか足に力を入れて歩く事に専念した。「そっか、なるほどな」ハイソンが強がって苦笑して見せると、クロシマも空元気を返した。

「だからと言って、勤務中の居眠りは許可しないからな」
「ありゃりゃ、手厳しいなぁ」

 自分よりも重いハイソンを支えるクロイマの首筋や額には、粒の汗が滲み始めていた。
 エルは、体は疲れているはずなのだが、不思議と眠気は覚えていなかった。

 風呂に入ったせいだろうか。体調は絶好調のようで、しばらく訓練から離れていた身体が、あの時の感覚を思い出しているような怖さを少しだけ覚えた。

 セイジとログが入れ替わり風呂に入っている間、エルは、クロエと一緒にテラスから町を眺めていた。先程とは違う、強過ぎない夏風が吹いていて、心地が良い。

 濡れたままだった髪も、いつの間にか乾いてしまった。念の為、クロエに関してはドライヤーで体毛を乾かしたのだが、ドライヤーを嫌がっていた彼女もまた、先の嫌な事など忘れて、活き活きとした眼差しで眼下の景色を眺めている。


 エルが風呂を上がってから、部屋は妙に静まり返っていた。エルが風呂から上がった際、テーブルにはパックの牛乳が置かれていて、けれどエルとクロエが水分補給する間も、誰も言葉を発しなかった。


 エルが風呂から上がった頃には、出入り口の扉がきちんと閉められていたせいか、室内の風の通りも穏やかになっている。時間が、とてもゆっくり流れているように思えた。

 近いうちに、何かを成し遂げなければならないのだろう。

 エルは、テラスから眼下に広がる景色を眺めながら、そんな焦燥感を胸の奥に感じていた。理由は分からないが、虫食いだらけの記憶がエルの心を突き動かしている。クロエに打ち明けられない悩みは、初めてだった。

 ログが浴室に向かってしばらくが経った後、ようやく口を開いたのは、スウェンだった。

「……この僕が、女の子を、男と間違えるなんて」

 スウェンは、ひどく落ち込んでいる様子だった。隣にいたセイジは、申し訳なさそうに肩身を狭めている。

「――あり得ない、あっちゃならない事だよ、これはッ」

 スウェンがそう言い、悔しそうに拳で膝を叩いた。
「そんなに重要な事でもないんじゃ……?」

 これまでの沈黙の理由を知って、エルは途端に呆れてしまい、馬鹿を見るような眼差しを向けた。ログは普通に気付いていたようだし、そもそも、生きる上で特に必要な感覚とも思えない。

 エルの視線の先で、スウェンが両手で顔を覆い、深い溜息をもらした。

「どうしよう。知っても尚、今の君が少年にしか見えないなんて……あの時は、きちんと女の子に見えていたはずなのに」
「そんな事より、この後どうするの?」
「そんなことって――」

 スウェンが絶句し、項垂れた。

「……そうだね、とりあえず本題に戻ろうか。さっき確認した限りでは、支柱との距離はそんなになかったはずだから」

 彼はそう続けると、後ろポケットから探査機を取り出した。しかし電源を入れるなり、スウェンは、手元のブラウザを見据えて眉間に皺を刻んだ。

 エルは、テラスで腕を伸ばした拍子にセイジと目が合い、「なに?」と、半ば条件反射のように問い掛けた。
「疲れはないか?」
「ないよ」

 エルは答え、クロエを抱き上げて室内に戻った。テラスで冷えた身体を温めるべく、一旦クロエを下ろして、準備運動をするように身体を伸ばし始める。

 風呂から上がったログが、濡れた髪を手でかき上げつつエルを見て、怪訝そうにぼやいた。

「なんだ。やる気満々って感じだな?」
「俺は、邪魔にならない程度にお前らに付き合うつもりだったから、いいんだよ。ただ、ここからは本気出さなきゃなって、そう思ったんだ」

 ログは冷蔵庫の中をあさりながら「ふうん」と気のない返事をした。瓶に入った珈琲牛乳を取り出し、一気に飲み干す。

「そういうのを、心境の変化っていうんだろ」
「お前、俺に喧嘩売ってんの?」

 その様子を眺めていたセイジが、控えめにログの名を呼んだ。しかし、スウェンのようにスマートに仲裁に入れる性格ではなく、途端に首をすぼめて「その」と言葉を詰まらせる。

「ログは、身体は平気なのか?」
「ああ、問題ない」

 ログは空瓶をカウンターの上に置き、チラリとセイジを見やった。

「俺は問題なく動ける」

 その時、スウェンが「やっぱり変だ」と立ち上がった。ログが「何が変なんだ」と短く尋ねると、彼は探査機のブラウザに目を落としたまま口を開いた。
「信じられないけれど……この支柱、移動しているんだよ。さっき僕がチェックした位置にいないんだ。画面の表示角度が変化しているのかなと思ったんだけど、まさに今移動しているみたいで」

 その時、スウェンが不意に顔を上げた。その瞳が、宙を見つめたまま大きく見開かれる。


「――何かが来る」


 穏やかな海風に乗って、遠くから人々の賑やかさがぼんやりと伝わって来るが、来襲の足音はまるで聞こえない。しかし一同は、スウェンから数秒遅れて、強い敵意を覚えて身構えた。

 エルは、首の後ろが焼けるような殺気を察知していた。自分に対して危害を加えようとする者の気配に五感を研ぎ澄ませながら、ちらりとクロエへ目配せすると、クロエが一つ肯き、ボストンバックを隅まで引っ張ってベッドの下に潜り込んだ。

 唐突に風が止んだ。

 遠くから聞こえていた喧騒も耳から遠のき始め、セイジが辺りを警戒しつつ、遠慮がちに声を発した。

「――妙な噂があったが、もしやそれが、この世界の『設定』なのだろうか」
「君が、さっき報告してくれたやつだね?」

 ナイフをズボンに仕込みながら、スウェンが確認するように尋ね返した。

 エルが思わず問うように視線を向ければ、セイジが「実は」と説明した。

「この島には、秩序に反した者を狩る、正しい人間の目には映らない『島神の遣い』がいるらしい」
「それ、俺初耳なんだけど。この島に神様が祭られているって事?」

 エルは、コートの裾が邪魔にならないよう、前ボタンと紐をしっかりと締めた。ログが呆れた眼差しを寄越し、「お前、風呂に入ってただろ」と突っ込みつつ先を続けた。

「言い伝えらしいぜ、その『島神』とやらは。ただ、セキュリティーとして駒にするなら、ちょうどいい配役だろ」
「なるほど」

 エルは肯いたが、ふと前回の怪物を思い出して、本音が口からこぼれ落ちた。

「前回みたいな化け物だったら、嫌だな……」

 エルとしては、あまり体格差があり過ぎる敵は勘弁したかった。そして、あまりホラーな外見をしていない方を希望している。恐怖物の映画に結びついてしまうようなものは、本当に苦手だった。

 ログは、「来てのお楽しみだろ」と面白くもなさそうに応えた。彼にとっても、前回のエリアで登場した、ラスボス級の化け物は対峙したくない相手だった。

 その時、エルの耳が微かな音を拾った。


 それは、紐が滑るような音だった。第一の来襲はエルの背後にあるテラスからで、音の発生源がテラスに降り立つのと、エルが振り返り様に地面を蹴り上げ、背後に降り立ったその人物の太い首を両足で挟みこむのは、ほぼ同時だった。

 
 エルは来襲者の首を両足で抱え込むと、全体重を掛けて身体を捻り、掴まえた頭部を勢いのまま床へと叩きつけた。

 重い響きが床を震わせ、脊髄か首の骨が折れたらしい敵が、抗う術もないまま一瞬で床の上に伸びた。刺客が手に持っていた鉄製の槍が、ガランと音を立てて床の上を滑り落ち、スウェンの足元まで転がる。

 エルは体制を整えて初めて、敵の姿を確認した。

 飾り気のない真っ白い軍服を着た身体は、東洋人ぐらいかと思われる男のものだったが、その首は灰色の大きな鼠の顔をしていた。
 これが島神の遣いなのだろうか? それにしては、身体能力としてはそこまで強化されていないキャラクターだなぁ、とエルは他人事のように考えた。

「ヒュー、エル君やるねぇ。想像以上で、ちょっと困っちゃうね」

 口笛を吹いたスウェンが、含むような物言いをしたが、既に彼の視線は、倒された鼠男に向けられていた。

 鼠男を覗きこむスウェンの後ろで、ログが、出入り口の方を見やりつつ頭をかいた。

「――お前、その技、いちよう一般人にやったらアウトな代物だからな。覚えとけよ」
「実践で使った事はないよ」

 エルが記憶している限りでは、使った事はないはずだった。それなのに身体は、考えるよりも先に、まるで使い慣れた事のように動けたのだ。

 過ぎった疑問を、エルは胸の奥へとしまう事にした。きっとそれも、忘れてしまっている記憶に関わる事なのだろう。近いうちに、それを知る時が来る予感もしていた。

 すると、ログがセイジに目配せした。

「セイジ、扉の向こうに何人いると思う?」
「ざっと二十、だろうか」
「下は、もっと多い可能性があるね」

 スウェンが補足した。彼は鼠男をしばらく見つめた後、顎に手をやり「ふむ」と肯いた。

「なかなか、原始的なエキストラといったところかな。先程の様子を視る限りでは、身体の構造は恐らく普通の人間と変わりないだろうね。化け物退治ほどの難しさはないと思うけど、彼らがどこから湧き出ているのかは、少し興味あるね。扉の向こうに感じていたエキストラの気配が減っている事に関係がありそうだ」

 スウェンは「セキュリティの駒にも、法則性はあるのかな」と、ニヤリとした。

 鍵がかけられていた扉のドアノブが、乱暴に回され始めた。荒々しく叩かれたかと思えば、途端に雄叫びのような複数の声が、扉の隙間から室内に響き出した。

「とにかく、僕らは移動している支柱を見付けないといけない訳だね。僕ら三人は、元々チームとして動いていたから行動パターンは把握しているけれど、……エル君は違うからなぁ」

 スウェンはエルを振り返ると、半ば腰を屈めるようにして、彼女と視線を合わせた。