その時、ネズミが短い両前足に一度顔を押し付けた。

 ああ、まるで人間みたいだ――そんな感想を僕は抱いた。

 すると不意にネズミが顔を上げ、十数センチはある不安定な足場から飛び降りた。着地に失敗して転がり、それでもぐいと四肢を踏ん張って体勢を整える。

 再び動き出したネズミは、半径一メートル範囲の滅茶苦茶になった床の上を、右へ左へと細かく移動しながら食べ物を捜し始めた。踏まれて汚れた衣服の山に辿り着くと、そこにぐいぐいと鼻先を押し付けて、がむしゃらに突き進もうとする。

 そこで僕は、静かに手を伸ばしていた。

「もう、いいよ」

 そんな囁きが、僕の唇からこぼれ落ちた。

 いつもキレイにされていたネズミの身体が、短い間にすっかり汚れ果ててしまった意味が、なんとなく僕には分かったような気がした。

 もしかしたら彼は、本当のところは僕を覚えていたのかもしれない。知らない人間がやってくるたび、他の小動物と同じように必死で身を隠して息を殺して、そうして今日、僕がやってきから、わざと物音を立てて自分から進み出て来た――。

 いいや、でも結局のところは、どっちだって構いやしないのだ。必死に生きようとする小さな生き物を、無視するなんてもう僕には出来なかった。

 僕はこのネズミの様子を見て、親を亡くしたばかりの幼い頃、自分が必死に生きようとしていたことを思い出した。小さな手足を懸命に動かしている間に、一年が過ぎ、二年が過ぎて。

「僕もちょうど、食べる物をもらいにいくところなんだ。一緒に来るかい?」

 僕は、伸ばした手で彼の背にそっと触れた。痩せてはいるけれど、温かくて柔らかくて、確かな命の温もりをそこに感じた。

 ネズミが動きを止めて、そろりと僕を振り返る。様子を窺って戻すことも出来ない僕の手の指の間から、こちらをじっと見つめてきたかと思うと、

「きゅっ」

 そんな小さな震えが、ネズミの鼻先で起こった。彼は後ろ足で懸命に立ち上がると、短い手を精一杯持ち上げて、濡れた鼻先ごと僕の掌に押し当ててきた。

「そうか。一緒に来るか」

 僕は、彼をそっと手に乗せて、今度は一緒になってその部屋を出た。