そういえば、彼はカナミさんのことを知らないのだ。誰よりも慈愛に溢れた微笑みを浮かべたカナミさんを見たら、きっとツエマチ君も一目で好きになっていただろう。僕と同じようにその背を追いかけて、今のぼくを慕ってくれているように、愛想よく「先輩」と声をかけて他愛のない話を持ち掛けたりして……。

 当時、僕は何も知らなかったんだ。結局は、カナミさんの背負っている一つさえも、一緒に背負ってやれなかった。

 カナミ先輩は、いつでも微笑んでいた。弟を見つめるような温かさは優しさだったり、少し寂しげだったり、心配するようだったり。そのどれもが柔らかで、人間らしい感情に満ちていた。

 二十歳のあの日、僕は、何か理由があって予定外のタイミングで会社に戻った。その前後にどんな行動理由があったのか、数年経ってしまった今はもう覚えていない。ただ上司に叱られたくないことばかりを憂鬱に考え、どうか彼がいませんように、と二十歳になりたての子供心でそぉっと扉を開けたのだ。

 曇った窓ガラスはブラインドが下ろされていて、室内は薄暗くなっていたのを覚えている。けれど冷房がよく効いていて、外の熱気が一気に拭われ、ぞっとするほど冷たくも感じた。

 ぶぅーん、と耳障りな冷房機の稼働音の中で、二つのくぐもった物音が低く響いていた。それが一体何なのか、僕はしばらく分からなかった。

 苦痛と快楽の間で揺れるカナミさんの押し殺した泣き声と、彼を愉しげに罵りながら上機嫌に喘ぐ上司の声。そこから僕の記憶は更に曖昧になるが、外の熱気で浮かんだ汗の粒が頬を伝う中、積み上げられた段ボール箱の向こうに、カナミさんの悲痛な顔がちらりと覗いていたのだ。

 それを目に留めた瞬間、胸の中で得体の知れない感情が爆発して、同時に足がすくんで動けなくなった。けれど熱くなった股間の痛みは膨張し、僕は耐えられずそこから逃げ出したのだ。走って、走って、走り続けても熱は収まらず、気付けば僕は、泣きながら町の建物の影を一人で歩いていた。