彼が謝ることは何もなかったのに、カナミさんは同情するような視線を寄越し、どこか寂しげに笑った。

 ああ、彼は心底いい人なんだ、と僕はそれだけで分かってしまった。心が無いなんて寂しいし、悲しいよ――彼はそう言って、はかなげに微笑んだのだ。

「人としての心が何処にあるのか、知ってる?」
「こころ、ですか? ……多分、きっと、僕には分からないと思います」

 僕が、考えてすぐに肩を落としてそう答えたら、カナミさんは「ははっ」と笑って、指を向けてこう教えてきた。

「心ってのは、時には頭だったり、胸だったり、足だったり、手にあったりするんだ」

 いい加減なこと言ってませんか、と僕が疑ってまじまじと見つめながら尋ねると、彼は一瞬きょとんとして、それから子供みたいな気取らない顔で笑った。

「俺はね、今の質問には、もうちょっとリアクションがあってもいいと思うんだよね。そうだなあ、お前ってさ、実はとんでもなく真面目かもしれない。きっと大人として歪んでしまいたくないから、奥底に心をすっかり隠してしまったのじゃあないかなぁ」

 でもね、とカナミさんは別の日に、唐突にこうも言った。

「知らない振りをして隠しておくことも、生きるためには必要だと思うよ。きっと俺達は、優しさや愛と一緒に、心の中にたくさんの悪意だって育て続けているんだ。きっとそいつは、人間として、いつか俺達を耐えられなくするんだろうね」

 先輩は善人過ぎて、そして優しかった。辛さを堪えるような笑みを見せ始めてから、しばらくもしないうちに、彼は自分が担当する八階建てのビルから飛び降りた。耐えられるうちに、とだけ書かれた遺言が、僕のロッカーに残されていた。