弾かれた右手の痛みをよく憶えている。拓実からの、初めての明確な拒絶だった。

 拓実の家の前で別れてから、どうも彼女のことが気になっていた。座卓にノートと教科書を広げてみても、たまにはとか少しだけとか、誰にともなくいい訳して文庫本を開いてみても、拓実のことばかりが頭に浮かんできた。

疲れたのだといっていたけれど、俺の気づけなかったところになにかあったのではないか、あるのではないかと、確信ともいえそうに強く思えて、少しも集中できなかった。

 様子がいつもと違った。自転車置き場にきたときからだ。トイレでなにかあったか。けれど拓実に仲の悪い人なんていたか。少ない人と深い関係を築く拓実に、そのような人は思い当たらない。もちろん、俺が知らないだけといってしまえばそれまでだけれど。

 俺は拓実のことをなにも知らない。だからこそ、こんなに落ち着かないのだと思う。拓実がなにをどのように感じるか、拓実がどんなふうに一日を過ごす人なのか、わからないから、すべて想像に頼るしかない。

もしかしたらこうなったのかもしれない、もしかしたらこんなふうに感じたのかも知れない。想像という曖昧な情報が、さらに不安を煽る。

 電話があれば、と思う。自宅にほとんど鳴らない固定電話はあるけれど、携帯電話は持っていなかった。それが必要なほど友達もいなかった。拓実とは常に実際に会って話したりした。内容なんてほとんどないような、なんでもない会話。

電波を通じてそんな話をしていれば、通話料金が半端じゃないなどと叱られることだろう。

そうならずに済んでいるのは、拓実の家に固定電話がないからだ。もう何年も前に解約したらしい。記憶にある限り、連絡網の番号は、拓実の家は携帯電話の番号になっていた。当時はどうしてこんなに長い番号なのだろうと思ったけれど、今思えばあれは携帯電話の番号だ。

 落ち着かない。集中できない。読書というのは思いの外、集中力を必要とするものらしい。

 早々に文庫本を閉じると、俺は腰をあげた。座布団がずれたのを直すこともせず部屋を出る。そのまま階段をおりて廊下を通って玄関におりた。履き慣れ薄汚れたスニーカーに足を突っ込み、何度か爪先を足元に叩きつけて踵をしまい込み、玄関を出る。

 細いパイプをアーチ状にして地面へ差し込んだところをブルーシートで覆っただけの自転車置き場から、通学用の一台を引っ張り出して飛び乗った。歩いて十分ほどのところだけれど、その時間も惜しかった。一分でも数秒でも早く拓実に会いたかった。

 拓実を完璧主義で臆病な人だといった桜井さんの声が蘇る。それゆえに、拓実は助けてがいえないのだと。

 少し疲れたのだといわれてそうなんだねと頷いているようでは、拓実のそばにはいられない。もっと粘るべきだった。俺が馬鹿みたいに笑って頷いて帰ったあと、拓実はなにを思っただろう。

鈍感な男だと俺を嘲笑っただろうか、結局誰も助けてはくれないのだと広いところに絶望しただろうか。世の中には嘘しかないといったように、悲しい答えを導き出しただろうか。

 疲れたというのは、拓実の精一杯の救難信号だったに違いない。俺はそれを見過ごした。いつもそうだ。近くにいながら、なにも見えていない。近くにいるものだから見えている気になって、表面しか見ない。

そんなことだから、助けてといった人にゆっくり休んでなどといえるのだ。あなたが見ているのは悪夢だから、少し休めば覚めると。一時的に視野が狭くなっているだけだから、少し冷静になれば新しい可能性が見えてくると。

 「馬鹿」と声が出た。掻き分けて進む空気の音に消えてしまうような、頼りない声だった。