将来の夢は優しいお姫様だった。なにかを与えられるような、それがなんであれ相手がどんな人であれ、自分の持っているものを惜しみなく差し出せるような、そんな人になりたかった。
優しさこそが人の美しさだと思った。そればかりは今も変わっていない。優しい人は美しい。欲に塗れ他者を顧みる余裕もないような人は、美しいとはとても思えない。もっとも、この激しい嫌悪感には自責や自己嫌悪といった念が深く強く絡んでいるように思うけれど。
初めて絵本を読んでから、ずっとその主人公のような人になると決めていた。心優しいうさぎの女の子だった。お洒落と冒険が好きな女の子。
好奇心が旺盛だからあちこちへ遊びに行って、いろいろな動物に出会う。みんななにかしら悩みを抱えている。女の子は考える。なんとかこの人の悩みを軽くできないかな。
時に、家族へのお土産にと持っていた木の実を差し出し、時に、次には一番に家族と見に行こうと思っていた綺麗なお花畑に誘う。女の子は困っている人にはなんでも差し出した。
雪の降る中、手袋さえも差し出した。きょうだいとお揃いのお気に入りの手袋。女の子はそれを差し出すのに悩みも迷いもしなかった。ごく当たり前に手を引き抜き、差し出した。
悪いよという相手に一言、いいんだよと笑いかける。そしてふと寂しさを感じる。けれども相手が手袋をはめ、暖かいと嬉しそうに笑うと、途端に相手がもう寒い思いをすることはないという安心感に胸を満たす。
お気に入りを手放す寂しさなど初めからなかったのだと思うこともない。そう思うほど寂しさに執心していないのだ。
ある日、女の子は森の長老に、パーティに招待される。パーティは明日の開催です、ぜひ大切な人とお越しくださいといわれて、女の子は森の中を走り出す。
それまで忘れていた動物たちのことを途端に思い出したのだ。パーティ会場ではきっと、お腹いっぱいごはんが食べられる、きっとお花畑のように華やかに飾られる、温かいごはんがあるから、きっと寒い思いをしなくていい。なにより、楽しい時の間では、つらいことも忘れられる。
女の子は今までの出会いを辿るうちに、新しい出会いにも遭遇する。結局、森に住む動物のみんなでパーティに向かう。やってきたのが森に住む全員であるのを見て、長老は満足そうに微笑む。
幼稚園の年少の頃だった。「うさぎさんはどこにいるの?」と母に尋ねた。「幼稚園にいなかった?」というので、絵本のうさぎさんだといった。母はふわりと優しく微笑むと、「御本の中にいるわ」といった。
「違うよ」と私はいった。「御本に書かれたうさぎさんはどこにいるの?」と。
その問いをしたことが、私の人生の最大の後悔だ。
「あのうさぎさんは、あの御本の中にしかいないの」
母の、悪意のかけらもない短くまっすぐな言葉が、私を深い闇の奥へ突き落とした。嘘だよ、あのうさぎさんはどこかにいるはず。
ではあの御本を書いたのは誰? うさぎさんでしょう? だって御本は、遠く遠くからここまで届く特別なお手紙なんだから。
私は自分の書棚から絵本を片端から引き出し、抱え切れる限りの絵本を母の前に並べた。じゃあ、このかえるさんは? このくまさんは? このあひるのおかあさんは? この女の子は? この女の子は幼稚園に通う女の子でしょう? 私と同じ年少さんだよ。妖精さんとの不思議な出会いをお手紙にしてくれたんだよ。
母はなにもいわなかった。それが怖くて悲しくてならなかった。気がついたら泣いていた。どうしてなにもいってくれないの? 年少さんならお手紙だって書けるでしょう?
みんなが御本の中にしかいないなら、御本ってなに? 書いた人のいないお手紙ってなに? そんなものがあるはずないじゃない。
母にそっと抱きしめられた。なにも、わからなくなった。ただ、どうしようもないほどの恐怖が、体の内にも外にもあった。嘘だ、嘘だ、嘘だ。ママは嘘をついている。嘘つきだ。母の胸で声をあげて泣きながら、必死に自分にいい聞かせた。
尊藤敬人と出会ったのは幼稚園の年長にあがってからだった。ほかの幼稚園から入ってくる人がいたのだ。幼い私に事情の把握はできなかった。ただ一緒に過ごす人が増えたということが五感で感じられた。
敬人はとても大人しい男の子だった。なんだかかわいらしい、とすぐに思った。泣いているわけでもないのに目が潤んでいるようだった。それがとてもかわいらしく思えた。
彼はいつも教室の隅にいた。よく先生がそばにいた。お友達と遊びましょ、とでもいわれていたのだろう。私はここぞとばかりに彼に近づいた。
「お名前は?」と尋ねると、彼は先生の横であわあわした。「けいと、って」と、先生が彼に優しくいった。先生に訊いてるんじゃないんだけど、と少し嫌な気分になったのを憶えている。
彼はやがて小さく「けいと」と答えた。
「わたし、たくみ」というと、彼は「うん」と小さく頷いた。
なんとなく先生が張りついているのが嫌だったので「一緒に遊ぼ」と誘った。もじもじあわあわしている彼に、「お絵かきしようよ」と提案すると、彼はまた小さく頷いた。
拓実は明るく活発な女の子だった。髪の毛は今よりも少し短く、先が肩につくかつかないかといった長さで、当時はカチューシャを着けていた。とてもかわいらしい女の子だった。
拓実と打ち解けるのは早かった。家も近く、休みのたびに遊ぶようになった。拓実はいろいろな姿を見せてくれた。清楚なワンピースを着ていることがあれば、和服を着ていることもあった。
洋装も和装も、彼女自身が芸術作品であるように魅力的だった。どこまでもかわいらしく、美しかった。和装のときの菊の髪飾りがよく似合っていた。
俺が家にいくと、拓実の方から駆け寄ってきてくれた。俺は拓実の手を掴んだ。拓実の手はいつも温かかった。安心できる温度だった。
親が挨拶を交わしている間に、拓実は俺の手を引いた。からんころん、と繰り返される軽やかな音が心地よかった。初めて家で遊んだときにその足音を聞いたものだから、拓実といえば下駄の音、という印象が染みついた。
和室に通すと、拓実は俺の手を離した。いつも、それが少し寂しかった。
「障子開けようか」という拓実に、「嫌だ」と答えたのは反射的なものだった。「でもちょっと暗いよ」と拓実はいったけれど、俺は「開けないで」と答えた。
「暗い……方が、好き」
「ええ、そうなの?」
お陽様の光が入ってきた方が気持ちいいのに、と拓実はちょっと不満げにいう。
部屋には質素な木製の棚があった。それは本の背で満たされていた。
「本、好きなの?」と尋ねると、拓実は悲しい顔をして首を振った。
「ほかのことして遊ぼうよ」
当時の俺には、拓実が本を好きではないということだけが受け取れた。ではどうしてあんなにたくさんの本が棚にあるのか、などと考える頭はなかった。
「お外は好きじゃない?」といわれ、「あんまり」と答えた。
拓実はしばらく考えるように黙り込むと、「そうだ」と声を発した。「お手玉しよ」と。
彼女は部屋の隅に置いてあった木箱の前に駆け寄ると、中から小花柄の小さな玉を取り出した。彼女がぽんぽんと投げあげて手のひらに落とすたび、ちゃかちゃかと独特な音がする。
「お手玉、やったことある?」
「ない……」
「こうやって……」と拓実はやって見せてくれたけれど、なにが行われているのかさっぱりわからなかった。ただ、三つの玉が彼女の両手の間を綺麗に舞っているだけだった。
「はいっ」と投げられたのを慌てて両手で取った。続いてもう一つ飛んでくる。初めの一つを片手に入れて、飛んできたのを両手で挟むように取った。拓実がふふっと笑うのにつられて笑った。
「こうやって……両手でぽんぽんって、上に落としてごらん」
いいながら、拓実はなんでもないように左右の手のひらへ玉を落とす。手元の玉を見てみると、まんまるというよりは少し細長い形をしていた。
「こう……弾ませるみたいに」
なんとなく勇気が出ずにいると、拓実は「落としたっていいんだから」と笑った。
「上に投げて、落ちてきたらまたすぐに上に投げるの」
いわれるまま、右手に載っているのを投げあげた。左手にある方を投げる前に落ちてきた。
「そうそう」と拓実は楽しそうに声を弾ませる。左右の手で小気味よく玉を投げあげながら、彼女はその手元を見ていなかった。
「ぽんぽんって両手でできれば、もう簡単だよ」
右手で少し高く投げあげ、落ちてくる前に左手でも投げあげた。少し時間差があって、両手に玉が落ちてくる。
「そうそう」と拓実の声が弾む。
「それをずっとやって、今度は斜めに投げるの。右手と左手でキャッチボールするの」
拓実の手元で踊っていた玉の動きが変わる。複雑に飛び交い、手つきの軽やかさが増す。
しばらく、両手の上で弾ませるように玉を投げあげた。次第にその難しさに鈍感になってくる。
調子に乗って、左手の玉を右手の方へ、右手の玉を左手の方へ投げてみた。途端に形が崩れ、玉があらぬ方へ飛んでいった。
「ふふふ」とあがる拓実の笑い声に、「どっかいった」と呟く。拓実は自分の投げていた玉を畳へ置き、「どこいった?」と畳に手をついてきょろきょろする。
俺も同じようにして探す。「ああ、あった」と声があがり、「どこ?」と返すと「一個、あっち」と壁の方を指さされ、俺はそちらへ向かった。「ああもう一個もあった」と声があがり、俺が戻るのと一緒に二つの玉がそこへ戻ってきた。
拓実の助言を受けながら加減するうち、それっぽい動きができるようになった。
満足した頃にはかなり疲れていた。体の変なところに力が入っていたような感じだった。ごろんと寝転んだ拓実の横に同じ体勢で着くと、お腹が鳴った。「お腹空いたね」と拓実がのんびりと笑う。
彼女は身軽に上体を起こすと、「おもち食べる?」と俺を見た。「おもち?」と聞き返すと、「おやつにしよう」といって、拓実はさっと立ちあがり、部屋を出ていった。
薄暗くしんとした部屋は心地よかった。遠くで鳥が鳴いているのが聞こえるけれど、それほど大きくは聞こえない。目を閉じれば眠れてしまえそうだった。
拓実がお盆に載せて持ってきたのは、桃色のかまぼこのようなものだった。小さく切り分けられていて、半月型の飴玉のようでもあった。
「すあまだよ」と拓実はいった。
「すあま?」
「甘いおもちだよ。ママが作ったの。おいしいよ」
机にお盆を置くと、拓実は透明な液体の入ったグラスをこちらへ置き、すあま、なるものをぱくりと口に入れた。
俺もその一つを指につまんで、「いただきます」といってからかじってみた。確かにおもちのような食感だった。いや、拓実のいう通り、甘いおもちだった。
「どう?」と期待と不安の混じったような目で見られ、「おいしい」と答えると「よかったあ」と拓実は表情をやわらげた。
飲んでみたグラスの中身はレモン水だった。ほんわかした甘味を持ったまったりしたやわらかなおもちの後味がすっきりとした。
むしろ当時の俺には少し酸っぱいくらいで、手に残ったすあまをさらにかじった。「酸っぱかった?」と笑う拓実に「ううん」と首を振った。
一緒に遊ぶたび、拓実は外へ出たがった。「お花を見に行こうよ」とか、「お空が綺麗だよ」とか、「お散歩しに行こうよ」と。
けれども、俺にはいつもそれを引き受ける勇気がなかった。お手玉、あやとり、折り紙、拓実の教えてくれた遊びを引き出して、なんとか障子の中に留まった。
思えば、あまり外に出ることのない幼少期だった。体が弱かったわけではない。どちらかといえば、気が弱かったのだ。
外で駆け回るより、部屋の中で本を読んでいる方が好きだった。トランプやボードゲームで遊んでいる方が好きだった。きょうだいはいないので、ゲームの相手はいつも母か父だった。
母は子供を相手に加減をするような人ではなく、いつもぼろぼろに負かされた。幼稚園に通っているような俺に圧勝して、いつも大喜びしていた。
俺もまた変に負けず嫌いなところがあるものだから、負けるたびに再戦を申し出た。ある日、ふっとなんでもないように勝てた瞬間があり、とても嬉しかったのを憶えている。
夜が好きだった。真っ黒な空にぽっかり咲いた月の花灯りが、障子の向こうの縁廊下をぼんやりと濡らす。障子越しに月を見るのが好きだった。
直接見たくて障子を開けることもあったけれど、結局は決まって黄色を帯びた白い光の延びる畳に向き合って、立ったままの自分の影をぼうっと眺めることになった。見たくて障子を開いたのに、途端に怖くなるのだ。
月の灯りがとても眩しいもの思えてしまう。背中に受けて、畳に浮かぶ自分の影にその眩ゆさを感じるくらいがちょうどよく思える。
三日月、特に新月の夜は心地よかった。真っ暗な部屋は重力を無くして、じんわりと眠りの奥へ連れ出してくれた。
夜闇は俺にとって、部屋の中に現れる幻想だった。目を閉じても開いても、なにも見えない。方向も重力も無くなったその部屋は、あまりに心地がよかった。
なにも見えない、なにも聞こえない。そのうっとりするような夜の奥深さに溶け込むような錯覚に浸るのが幸せだった。ただ、心が安らいだ。
ある日、拓実に「どうしてお外に出ないの?」と訊かれたことがある。そのときも拓実は和装だった。
「……外は好きじゃない」
「そうなの? まあ、暑いし寒いもんね」
かわいらしく笑って、拓実はすっと立ちあがった。座ったままの俺を見る。
「ねえ、廊下に行こうよ。ひなたぼっこしよ」
こうもまっすぐに誘われてしまえば断るにも断れない。恐る恐る腰をあげると、彼女の手が右手を掴んだ。
引かれるままに歩いていくと、拓実は障子を開け放った。目の奥が痛むような眩しさに、俺は目を細めて顔を背ける。
「どうしたの?」と拓実の声が優しく響く。
「なんでもない」と答えるけれど、前は向けない。まぶたも開けない。
「嘘だよ」と拓実はいった。悲しそうな声だった。「敬人君は嘘ついてる」と。
拓実の声の悲しさにつられてこちらまで悲しくなった。
時間をかけてようやく、「怖い」と声を出した。「なにが?」と拓実の声が優しくなる。俺は思わず、右手に繋がった彼女の左手を握った。
「……明るいの、怖い……」
間があって、「明るいのが?」と返ってきた声は驚いているようだった。それもそうだろう。暗いのが怖いという人はいるけれど、明るいのが怖いというのは俺も自分のほかには知らない。当時も、今も。
「……いっぱい、見える……」
特別なものが見えていたわけじゃない。誰にも見えない恐ろしいものが見えていたわけじゃない。あの一瞬には、庭にある植物や岩が見えているだけだった。
遠くの木々が見えているだけだった。明るい空とそこを泳ぐ雲が、先の道路を走る車が、のんびりと進む自転車が、歩道を歩くおばあさんが見えているだけだった。
それでも、当時の俺には耐え難いほど怖かった。胸の奥がざわざわするようで、逃げ出したくなった。明るいところでは、目を向けて見えるものが、あまりに多すぎた。
拓実はそっと俺の手を包んでくれた。「大丈夫」と囁くような声は、こっそりと魔法を見せてくれるようなやわらかさだった。
彼女は俺の手を離すと、両手で俺の目を覆った。途端に、方向も重力もない安らぎの暗闇に包まれた。
呼吸が深くなるのと同時に、体から力が抜けた。半歩後ろに左足をついて、拓実の方へ倒れるのは逃れた。
「どう、暖かくて気持ちいいでしょ?」と、おまじないでも唱えるように優しい声が囁いた。「ひなたぼっこだよ」と。
「怖いなら、見なければいいんだよ」
浮かぶような心地よさを揺らす優しい声に、救われたような心地がした。真昼の優しい夜闇の中、俺は拓実だけを感じた。ひなたぼっこ。なんて幸せな時間だろうと思った。
なにも見えない。後ろに拓実がいる。優しい温度だけがそこにあって、怖いものも嫌なものもない。
俺が名前を呼ぶと、彼女は「敬人君の目はね、すごく綺麗なんだよ」といった。
「だから、怖いくらいいっぱい見えちゃうの」
拓実の声が、周りからどんどん重力を奪っていった。ふと糸が切れたように脚から力が抜け、崩れるようにへたり込んだ。
拓実も一緒に座ったようで、目は覆われたままだった。そっと片手が離れ、一本の腕が優しく抱きしめてくれた。周囲はまだ、重力を無くしたままだ。
「でもね、怖いものなんてなにもないんだよ。……だって世の中には、嘘しかないんだから」
俺が手に触れると、拓実は小さく笑った。「そうだよ」とちょっと意地悪に囁く。
「世の中にはね、本当のことなんてないんだよ」
「全部、嘘なの?」と彼はいった。
ああ、なんて——。
同い年の男の子がか弱い存在に思えた。なんて可哀想な子だろうと思った。敬人はなにも知らないんだ。この世の中には本当のことなんてない。みんなみんな嘘でできている。
この子は、敬人はそれを知らない。この先、この綺麗で儚い心がどれだけの傷を負ってしまうだろうと想像すると、怖くて悲しくて、つらくてたまらなくなった。
「そう。全部嘘なの。本当のことなんて一つもない」
だから、傷ついちゃだめだよ。本当でもないことに、繊細に敏感に反応してあげることなんてない。
本はやはり好きだった。あれからもたくさんの本を読んだ。読んでいる間はとても楽しかった。けれども、読み終えてしまえば虚しさが残った。
自分の見てきたものは幻なんだと思い知らされるような心地がした。なにが本当でなにが嘘なのか、まるでわからなくなった。私は確かにあの動物たちに出会った。こんなふうになりたい、こんな生活がしてみたいと強く願った。
けれど、動物たちが本の中にしかいないことが、頭の中に割り込んでくるように思い出される。本の中にいる動物たちは本物だ。
けれども、動物たちが私のいるのと同じ世界で動いていることがないのも、動物たちが暮らしている優しい世界がここにないというのもまた、ある種の本物だった。
動物たちと会えるのは本の中でだけ。本の中にある以外の言葉を、この動物たちから聞くことはできない。
ママは、嘘つき。絵本の中の世界に縋るために導き出した答えは、あまりに残酷だった。母を嘘つきだと思い続けるのは苦しかった。母のことは信じたかった。そこで、ふと気がついた。
ママが嘘をついてるんじゃない、世界に本当がないんだ——。
世の中に嘘しかないのであれば、母の嘘は決して責められるものではない。
ママは、悪くない。