「あら、伊藤さん。今日は出版社に?」
「はい、原稿をね」

 伊藤と呼ばれた男は、そう答えてはにかむように笑った。

 人間の男にしては、少し高めの穏やかな響きがある声をしていた。私は缶詰の底にある食べ物を胃に詰めるべく、そこに顔を埋めつつも耳を澄ませる。

「可愛い黒猫ですね」

 男が言う声が聞こえてすぐ、女が私の方へと向き直る気配がした。

「そうなのよ、尻尾の先まで真っ黒で可愛い子なんだけど、なかなか貰い手が見つからなくてねぇ」
「……捨て猫、なんですか?」

 悪いことをしたわけでもないのに、男が反省するような声で問う。

 私は、早く全部食べてしまわなければと、缶の底の周りに残ったものを舐めるようにして口に運んだ。

「二週間くらい前からいるのよ。この通りに一匹ずつ捨てられていて、この黒猫以外は引き取り手が見つかったんだけど……きっと、飼っていた母猫が子を生んでしまって、育てきれなくなって捨てたとは思うのだけれど。ひどい事するわよねぇ」
「そう言えば、八百屋のおじさんが最近、猫を飼い始めたと言っていましたね」
「ええ、そうなのよ。山田さんのところは一軒家だから、自分で飼う事にしたんですって。私のところでもそうしたかったのだけれど、うちは犬がいるからねぇ……」