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 ルームメイトのきららちゃんが施設を退所して一週間と少しが経ったその日、私は朝から小宮さんに呼び出され、相談室を訪れていた。

「おはよう、唯川さん。貴女がここへ来てからもう一週間以上経つけど調子はどうかしら? ここでの生活には慣れた?」

 小宮さんは中央にあるソファにゆったりと腰をかけながら、出し抜けにそう尋ねてくる。

「うん。相変わらずなにも思い出せないけど、こないだ新しく入ってきたルームメイトの子ともそれなりにうまくやれてるし、今のところ特に問題なく過ごせてる感じかな」

 正直にそう答えると小宮さんは満足そうに頷き、

「そっか。ならよかった。貴女の身元調査も今日までこれといった進展がなかったものね。学校も行けなくて退屈だったんじゃない?」

 ……と、勘の良い図星をついてきた。

「そうでもないかも? 自習室にある中学三年生用の教科書を読んだり、料理や小さい子のお世話を手伝ったりしてたらあっという間に時間が経ってた気が……って、そんなの聞いてくるってことは、何か進展でもあったんですか?」

「御名答。ただ、まだ全ての調査が終わったわけではないから話せる内容はごく一部に限られるし、それがあなたにとって朗報となるかどうかは微妙なところだけれどね」

 包み隠さずそう告げてくれる小宮さんに、ごくりと喉を鳴らす。

 一体なにがわかったというのだろう。

 病院を退院し、この施設に入ってずっと聞きたくても聞けなかった調査状況。

 それは時が経てば経つほど重い鉛のように体内に沈み、ずっとお腹の中で燻っていたように思う。

 自分のことは知りたい。でも、もしきららちゃんのようにDVを受けていたとか、そういう思い出したくない過去が潜んでいたとしたら、私は彼女のように笑って受け止めることができるのだろうか。

 やや硬くなった私の表情を見て、小宮さんは励ますような柔らかい声色で言う。

「きちんと配慮して伝えるつもりだし、そんなに構えなくて大丈夫よ。それにね、どんな結果であれここにいる以上職員はみんなあなたの味方になってくれるはずだから。あなたにどういう過去があったとしても、安心して受け止めてほしい」

「……」

「……どうかしら? 心の準備がよければ話すけど、いい?」

 逸る心音。膝の上でぎゅっと拳を握り、意を決してこくりと頷く。

 小宮さんはそんな私の一挙一動を見守りながら、頷きを返した。

 彼女の細く長い指が手元の手帳に伸ばされる。

「――まず、やはり貴女の名前は通報にあった通り〝唯川唄〟で、この辺りの中学校に通う〝十五歳の中学三年生〟で間違いないわ」

 こくり、と頷く。

「あなたのご家庭は母子家庭で、お母さんは今、病気で入院されているみたいなの」

 どくん、と体の中心が大きく脈を打つ。

「病気……?」

「ええ。詳しい病名までは教えてもらえなかったけど、調査が進めばいずれわかると思うわ。肝心なのは、つまりそういう事情があったから、今あなたを引き取りに来られる状況にないというわけね」

「……」

 安堵したような、どこか引っかかるような。

 おそらく小宮さんは、私の反応を見ながら伝える情報を調整しているのだろう。とても慎重な口振りだった。

「お母様の体の具合もあるし、すぐにお仕事を再開したりあなたを引き取って生活するのは難しいと思うから、今しばらくはこの施設で過ごすことになると思う。その辺りはまた相談と調整を重ねて行きましょう」

 私にとってはそれが、一番安定した暮らしとなるのかもしれない。

 小宮さんの表情からそれが手に取るようにわかった。彼女を困らせたくないし、入院しているという母親にも、その他の誰にも迷惑はかけられない。

 だから小さくでもしっかりと頷いてみせた。

 それを見て安堵するように頷きを返す小宮さんは、手帳を一枚めくるとさらに続けた。

「それから学校についてだけど、お母さまの話だと高校受験はすでに終わっていて入学の手続きも済んでいるそうだから、学習面に問題さえなければあなたは春から晴れて高校に通えるわよ」

「……! ほ、本当……?」

「ええ。本当。しかもあなた、特待生度利用の推薦入学の扱いになっているから、よほど優秀な生徒だったんだと思うわ」

 小宮さんの言葉に、目を見開く。

 全く身に覚えはないが、きっと過去の自分が頑張ってくれたのだろう。

 高校に通える――。それだけで不自然なくらいに高揚していく私の心。

 記憶を失う前の私はよっぽど難しい高校を受験し、念願かなって合格でもしていたのかな、なんて他人事のように思う。

「うれしい。ありがとう、小宮さん……」

「お礼なら私じゃなくて、努力して合格を掴み取った自分自身に言うべきね。……さて、今、あなたに話せることはこれくらいかしら。今後、さらに調査が進んだり、進学の準備を進めていく上で、色々記憶を取り戻すこともあるかもしれないけれど、それがどんな自分の姿でも決して悲観したり立ち止まったりしていては駄目よ。時間は過去ではなく未来に向かって進んでいるんだから。どんな過去があってもそれを踏み台にするぐらい逞しく生きていきなさい」

 小宮さんの力強い励ましがすとんと胸に落ちる。

 それは燻っていた私を立ち上がらせるのには充分な魔法の言葉だった。

 自分自身を鼓舞するよう、力強く「はい」と答える。

 大丈夫、私の未来は希望に溢れている。

 目が覚めた時は何もかも失って絶望しかなかったけど、ようやく私にも少しずつ光が見えてきた気がする。

 ――そんな甘い考えを抱いた矢先のことだった。

「……と、ちょっとごめんなさいね。電話だわ」

 テーブルの上に置かれていた小宮さんの携帯電話が鳴った。

 小宮さんが忙しいのはいつものことだから、特に気にせず彼女が通話に応じる姿をぼんやり眺めながら頭の中では入院している母親について何か思い出せることはないか逡巡したり、通うことになる高校は一体どこなんだろうとあれこれ妄想に耽っていたのだが。

「え、上田きららがですか?」

 聞こえたその名前にどきっとして、一気に現実に引き戻された。

 不穏な声のトーンに加え、険しい顔つきをする小宮さんに言い知れぬ不安がよぎり、思わず聞き耳を立てるが、当然箱の中の声までは聞こえてこない。

 ひりついた空気から、何か良からぬことが起きていることだけは明らかだった。

「わかりました。そうま総合病院ですね。すぐいきます」

 そうこうしているうちに何かメモを取り、通話を終えて席を立つ小宮さん。

「きららちゃん、何かあったの?」

「あ、いや……ちょっとね。心配はいらないから、あなたは部屋に戻ってて」

 慌てて小宮さんを引き留めて尋ねたが、言葉を濁すようにそう言われてしまった。

 大人しく下がるべきなのはわかっていたけれど、嫌な予感に胸を騒がせていた私はどうしても諦められなかった。

「でも、そうま総合病院って私が入院していた病院だよね? 心配いらない程度の怪我なんだったらわざわざ小宮さんにも電話なんかしてこないはずだよね?」

「……」

「絶対に邪魔はしないから、私も一緒に連れてって。きららちゃんは私にとって大切な友達なの。だから、お願いします」

 必死に食い下がるよう頭を下げる。

 小宮さんは困った顔をしていたけれど、急を要していたこともあるし、私があの短い期間でルームメイトのきららちゃんと仲良くしていたことをよく知っているからだろう。割とすんなり申し出を受け入れてくれた。

「どうせ『駄目』って言ったってついてくるつもりなんでしょう? 仕方ないわ。病院では私の指示に従うって約束できるならついてきても構わないから、急いで支度してちょうだい」

「はい」

 大きく頷いて、急いで上着をとりに部屋に戻る。二段ベッドの上に転がっていたそれをひったくるようにして掴むと再び部屋を飛び出し、転がるように階段を駆け降りる。外に出ると、小宮さんが例の軽自動車で私の到着を待っていた。

 言い知れぬ不安と共に助手席へ乗り込んでシートベルトを締めたけれど、小宮さんは「行くわよ」と言ったっきり無言だった。

 何が起きているのか全くわからない。けれど、その無言が、暗に良からぬ状況を物語っている気がしてひどく胸が痛んだ。

 フロントガラスの向こう側に広がる虚空を見つめながら、必死に彼女の無事を願う。

『私、今度こそママと二人で幸せになるからね!』

 走り出した車の中で、私は、あの日の彼女の笑顔を繰り返し思い描いていた。