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「今日からしばらくの間、ここがあなたの部屋よ。二人部屋だから同居人がいるけど、今は学校に行ってるから帰ってきたら挨拶させるわね」

 まるでジェットコースターにでも乗ったような気分でたどり着いた先は、想像していたものとは全く違う、驚くほどお洒落で近代的なゲストハウス風の建物だった。

 案内された部屋はそのうちの二階の角部屋で、大きな窓からは柔らかな陽光が差し込んでいる。全体的に白で統一された部屋は非常に清潔感があり、檜の匂いが心地よい。

 私は隣にいる小宮さんを見上げると、素直な気持ちで呟いた。

「学校……、私も行けるかな?」

 彼女流のコミュニケーション術で『遠慮』や『緊張』といった壁を強制的に取り払われ、一気に距離を縮めた私たち。物おじすることなく自然に疑問を漏らした私を良しとするよう、小宮さんは口元に微かな笑みを浮かべて応える。

「何言ってるの、当たり前じゃない。ただ、あなたの場合はまず身元の特定が必要だし、中学三年生だと高校受験や入学の手続きを終えてるかどうかの確認なんかも必要になるから、すぐにとはいかないかもしれないわね。でも、なるべく迅速に関連各所と話し合いや手続きを進めて、可能な限り最短で学業復帰できるよう全力で支援するわ」

 小宮さんの頼もしさに、じんと胸が熱くなる。

 相馬先生もそうだったけれど、小宮さんも私みたいな見ず知らずの人間を相手によくここまで親切にできるなぁと心から感服する。

 仕事だから、と言われればそれまでだけれど、こちらからしてみれば仕事だろうがなんだろうがありがたさは変わらないわけで、むしろ、世の中にはこんな親切な仕事をしてくれる人達がいたんだなって、目から鱗が出るくらいの感動を覚えていた。

 よほど記憶を失う前の私は人恋しかったのだろうか……なんて。

 いずれにせよ、慈善であれなんであれ、今の私にとって彼らの優しさは身に染みてたまらなかった。

「ありがとう、小宮さん」

「いいのよお礼なんて。あとで施設内を案内するから、とりあえずしばらくは好きに寛いでいてちょうだい」

 こくりと頷き、部屋を出ていく小宮さんの後ろ姿を目で見送る。

 白い木製の扉が閉まると、静かな部屋には私一人というプライベートな空間が出来上がった。

(きれいな部屋……)

 とはいえ、好きに寛ぐといっても何をすれば良いのかわからず、ぼーっと室内を見渡す。

 日当たりの良い窓辺に並んだ二つの勉強机。一つは使用されていて、もう一つはほとんど物が置かれていない未使用の状態。その横には本棚と掛け時計、二月のページが開かれたカレンダー、それから二段ベッドが置いてあり、下の段にはいくつかの小物が転がっている。

 同居人はどんな人だろう。不安と期待が入り混じる。

 そわそわしながら視線を窓の外に向けると、施設の外には桜の木が並んでいた。花はまだ咲いておらず、小さく膨らんだ蕾が寒そうに揺れている。

 三月に入ってもう少し暖かくなればきっと一斉に咲き揃い、ここからでもお花見ができるようになるだろう。今から楽しみだ。

 引き寄せられるように窓を開けて外を眺める。桜並木の下には長い一本道が通っており、たくさんの学生達が学生服の裾を揺らしたり、まだあどけない小学生達はランドセルを輝かせて道を行き交っていた。

(……)

 ――ふいに突き上げる衝動。

 泣きたくなるような、叫びたくなるような、なんとも言い難い感情が急激に胸の中で大きく膨れ上がり、口の中がからからに渇いてくる。

 あれ、なんだろう、この気持ち。

 この感情に名前をつけるとすれば……焦り? 

 ううん、違う。そんなんじゃない。嫉妬? 悲観? 絶望? それとも、羨望……?

 なぜかはわからないけれど、『羨望』――それが一番しっくりくる気がした。

(なんなの、この気持ち……)

(わからない)

(でも、胸が苦しい)

(頭が……痛い)

 目の前がくらくらして、無意識に額に手を当てるとじわりと汗ばんでいてぎょっとした。

(どうしよう、喉が渇いた)

 下に降りて何か飲み物をもらおうかとドアノブに手をかけた時、目の前で扉が開いたため心臓を口から飛び出しかける。

「わっ」

「うわびっくりした! え、何、誰??」

 それは相手も同じだったようで、出会い頭に衝突しそうになった彼女――綺麗な栗毛色の髪の毛をツインテールに縛り、セーラー服を身に纏った同じ年くらいの少女だ――は、目を白黒させながらこちらを凝視している。

「あ、えっと」

「あー! そっかそっか、今日から新しい子入るんだったっけ! やっばー忘れてたあはは。えーっとねえ、私はこの部屋の先住民、上田きららっていうの。今中二で四月からは新三年生! ちなみに名前は漢字で書くと綺麗のキに羅針盤のラに良い子のラで〝綺羅良〟なんだけど、さすがに書き辛いし読みにくいしめっちゃキラキラっぽいからいっつもひらがなで通してるんだー」

 物怖じせず機関銃のように喋るきららちゃん。

 自分で自分の名前をキラキラネームだと言っちゃうあけすけな雰囲気に思いっきり出鼻をくじかれつつも、何か返事をしなきゃって口をもごもごしていると、

「ねえ、あなたの名前は? っていうか、今日から私のルームメイトになるのってあなたであってるよね?」

「あ、うん。唯川 唄です。年は多分……」

「あー、いいのいいの! なんか事故の後遺症で記憶ソーシツとかってヤツなんでしょ? 詳しく聞いたわけじゃないけど、ここにいる時点でワケアリなのはお察しだし、そもそもここにいる子はみんな、互いにセンサクとかあんまりしないんだよね。まっ、確かに年上か年下かタメかぐらいは気になるけど分からないもんは仕方ないしさあ。それよりイイ名前だねー、ウタちゃんかー。音楽得意そー!」

 きららちゃんは無邪気な顔でころころ笑いながら、手に持っていた鞄を自分の机に置いた。その際、鞄の口が開いていたせいでものの見事に中身が机の上に散らばって「げっ。やっばー」と口癖のような悲鳴をあげていた。

 想定外の陽気な同居人に、思わずこぼれる笑い。なんだか急に親近感が湧いてきた。

「気を遣ってくれてありがとう。よろしくね、きららちゃん」

「うん、よろしくー。ベッドは今のところ私が下使ってるから、上でよろしくね! あたしこれからちょっと施設長室行ってくるけど、後で時間あったら一緒にお菓子でも食べよー!」

 彼女は部屋着に着替えながら口早にそう告げると、軽やかな足取りで外へ飛び出していく。

 まるで台風のような子だ。忙しないけれど悪い人じゃなさそうなので心底ほっとする。

 安堵で肩の力を抜いた私は、脱ぎ捨てられたきららちゃんの制服――見覚えがある気がするのは気のせいだろうか――をぼんやり見つめつつ、小宮さんの再来を待つことにした。