◇
約十年後――。
「唯川先生、音楽教室開講三年目、おめでとうございます! ご友人の上田様からご注文いただいたこちらのお花、どこに置きましょうか?」
ある晴れた休日の昼下がり。いつものように午後のレッスンの準備をしていると、懇意にしているお花屋さんから豪華なお花が届いた。
昨今、ファッション雑誌で引っ張りだこのデザイナー、きららちゃんからの贈り物だ。
嬉しさで表情を緩ませながら「あっちでお願いします。受領印押しておきますね」と促すと、お花屋さんはにこやかに笑って会釈をした。
先ほどは施設の小宮さんや、まだ学生の妹弟たちからもお祝いの電話をもらったし、高校でお世話になった恩師や、音大時代、共に研鑽を積んだ友人からもたくさんのお祝いレターをいただいて、身に余るような光栄だ。
――母と絶縁してから早十年、思えば私は、たくさんの人に支えられて今ここにいる。
最初の頃は幾度となく壁にぶつかり立ち止まりそうにもなったけれど、思い切って一度外に出てしまえば、驚くほど世界は広いということを身を持って知り、おかげで今は、多少は空の青さを知る蛙にくらいにはなれたような気がしている。
「先生、窓口に受講希望者の方がいらっしゃってます。二十代の社会人の方で、小学生向けの初心者コースをご希望なんですけど……どうします?」
ふいに受付の女性が控室に顔を出し、そんなことを尋ねてきた。
目をぱちくりと瞬き、首を捻る。
「え? ジュニアコースをですか?」
「はい。社会人コースは今満員なので新規受講者の募集をしていない旨をお伝えしたら、張り紙してあった受講者募集中のジュニアコースの方の話になりまして……。ピアノを習うことは昔からの夢で、どうしてもここで受講したいと仰ってるんですが、年齢を理由にお断りしますか?」
なるほど、そういうことかと納得する。
ありがたいことに我が教室では今や順番待ちになるほど申し込みが殺到しており、社会人枠は当面募集する予定がなかった。
少し思案したものの、やはりどうしても希望者の夢を無下にすることはできないだろうとお人好しの精神が勝り、最大限の譲歩を用いた答えで応じる。
「いえ、せっかく希望してくださってるんですし、夢を持つことに年齢制限なんてありませんから。原則、ジュニアコースと同様の受講時間でレッスンができるようなら、多少はこちらでも融通を利かせますし問題ありませんよ。お返事次第で、受付用紙を記入してもらってください」
「わかりました! あっ、でも、受付用紙ならもう書いてもらってますので先にお渡ししておきますね」
「そうなんですね。じゃあ意思確認だけでも……」
「はい! 確認が取れましたら、こちらへお連れしますね」
「ありがとうございます。そうしてください」
受付の女性はわざわざ控室までやってくると、中身が記入された受付用紙を私に手渡し、再び窓口へ戻っていった。
日々、スケジュールは埋まり忙しない毎日を送っているが、多少無理矢理でもやりくりすればなんとかなるだろう。
人は皆、社会に出て歳をとると時間や気持ちの余裕がなかったりで、なかなか冒険ができなくなってしまう。それでも、時間を割いて二十代でピアノを習い始めるという選択をした希望者の勇気にどうにか報いれたい。
そんなことを思いながら受付用紙に視線を落とした私は、記された情報に目を見開いた。
〝受講希望 コース名/ジュニアコース
希望者氏名/相馬蓮王(職業/研修医)〟
「先生! 確認が取れましたのでお連れしました。希望者の相馬様です。お客様も、こちらへどうぞ」
あの時よりも、もっと背が伸びて大人になった戦友が意地の悪い表情を浮かべて私の目の前に立っている。
目が合えば、どこか気恥ずかしそうに微笑んで。
『昔っからずっと、習ってみたかったものだってあってさ――』
あの日の彼の儚げな呟きが脳裏にこだました。
あの時の借りを返すためにも、今度は私が彼の夢を叶える番なのかもしれない。
「ずいぶん大きいジュニアが来たわね」
「ほっとけよ」
「ばしばしシゴくけど……覚悟はいい?」
「上等だっつーの」
「……」
「……」
「……」
「言っただろ、俺はなにがなんでも自分の夢、叶えるって」
「……」
「欲しいモン全部手に入れてやっから、お前の方こそ覚悟しろよ」
一体そこに、どんな意味があるのか、この時の私はまだ知らない。
でも。
遅いなんてことはない。
目を合わせて笑顔を交わせば、きっとそこに青い春は生まれ続けるから。
こうして……不完全だった私たちの青春は、豊かな色に染まり続けていくのだった――。
ー アオハル・モラトリアム【完】ー
約十年後――。
「唯川先生、音楽教室開講三年目、おめでとうございます! ご友人の上田様からご注文いただいたこちらのお花、どこに置きましょうか?」
ある晴れた休日の昼下がり。いつものように午後のレッスンの準備をしていると、懇意にしているお花屋さんから豪華なお花が届いた。
昨今、ファッション雑誌で引っ張りだこのデザイナー、きららちゃんからの贈り物だ。
嬉しさで表情を緩ませながら「あっちでお願いします。受領印押しておきますね」と促すと、お花屋さんはにこやかに笑って会釈をした。
先ほどは施設の小宮さんや、まだ学生の妹弟たちからもお祝いの電話をもらったし、高校でお世話になった恩師や、音大時代、共に研鑽を積んだ友人からもたくさんのお祝いレターをいただいて、身に余るような光栄だ。
――母と絶縁してから早十年、思えば私は、たくさんの人に支えられて今ここにいる。
最初の頃は幾度となく壁にぶつかり立ち止まりそうにもなったけれど、思い切って一度外に出てしまえば、驚くほど世界は広いということを身を持って知り、おかげで今は、多少は空の青さを知る蛙にくらいにはなれたような気がしている。
「先生、窓口に受講希望者の方がいらっしゃってます。二十代の社会人の方で、小学生向けの初心者コースをご希望なんですけど……どうします?」
ふいに受付の女性が控室に顔を出し、そんなことを尋ねてきた。
目をぱちくりと瞬き、首を捻る。
「え? ジュニアコースをですか?」
「はい。社会人コースは今満員なので新規受講者の募集をしていない旨をお伝えしたら、張り紙してあった受講者募集中のジュニアコースの方の話になりまして……。ピアノを習うことは昔からの夢で、どうしてもここで受講したいと仰ってるんですが、年齢を理由にお断りしますか?」
なるほど、そういうことかと納得する。
ありがたいことに我が教室では今や順番待ちになるほど申し込みが殺到しており、社会人枠は当面募集する予定がなかった。
少し思案したものの、やはりどうしても希望者の夢を無下にすることはできないだろうとお人好しの精神が勝り、最大限の譲歩を用いた答えで応じる。
「いえ、せっかく希望してくださってるんですし、夢を持つことに年齢制限なんてありませんから。原則、ジュニアコースと同様の受講時間でレッスンができるようなら、多少はこちらでも融通を利かせますし問題ありませんよ。お返事次第で、受付用紙を記入してもらってください」
「わかりました! あっ、でも、受付用紙ならもう書いてもらってますので先にお渡ししておきますね」
「そうなんですね。じゃあ意思確認だけでも……」
「はい! 確認が取れましたら、こちらへお連れしますね」
「ありがとうございます。そうしてください」
受付の女性はわざわざ控室までやってくると、中身が記入された受付用紙を私に手渡し、再び窓口へ戻っていった。
日々、スケジュールは埋まり忙しない毎日を送っているが、多少無理矢理でもやりくりすればなんとかなるだろう。
人は皆、社会に出て歳をとると時間や気持ちの余裕がなかったりで、なかなか冒険ができなくなってしまう。それでも、時間を割いて二十代でピアノを習い始めるという選択をした希望者の勇気にどうにか報いれたい。
そんなことを思いながら受付用紙に視線を落とした私は、記された情報に目を見開いた。
〝受講希望 コース名/ジュニアコース
希望者氏名/相馬蓮王(職業/研修医)〟
「先生! 確認が取れましたのでお連れしました。希望者の相馬様です。お客様も、こちらへどうぞ」
あの時よりも、もっと背が伸びて大人になった戦友が意地の悪い表情を浮かべて私の目の前に立っている。
目が合えば、どこか気恥ずかしそうに微笑んで。
『昔っからずっと、習ってみたかったものだってあってさ――』
あの日の彼の儚げな呟きが脳裏にこだました。
あの時の借りを返すためにも、今度は私が彼の夢を叶える番なのかもしれない。
「ずいぶん大きいジュニアが来たわね」
「ほっとけよ」
「ばしばしシゴくけど……覚悟はいい?」
「上等だっつーの」
「……」
「……」
「……」
「言っただろ、俺はなにがなんでも自分の夢、叶えるって」
「……」
「欲しいモン全部手に入れてやっから、お前の方こそ覚悟しろよ」
一体そこに、どんな意味があるのか、この時の私はまだ知らない。
でも。
遅いなんてことはない。
目を合わせて笑顔を交わせば、きっとそこに青い春は生まれ続けるから。
こうして……不完全だった私たちの青春は、豊かな色に染まり続けていくのだった――。
ー アオハル・モラトリアム【完】ー