◇


「……さん……唯川さん!」

「……っ」

 そうま総合病院のロビー内で、壁に手をつき過去の回想に浸っていた私は、自分の名を呼ぶ小宮さんの声にハッとして我に返った。

「唯川さん……大丈夫?」

 目の前に、心配そうな顔をした小宮さんが立っている。

 あたりを見渡すと、先ほどまでとなんら変わらない日常の病院風景が広がっており、いつの間にか合唱団によるミニコンサートは終わっていた。

 診察の順番を知らせる場内アナウンスだけが雑踏の合間に響いている。

「待たせちゃってごめんなさいね。それより、ずいぶん顔色が悪いようだけど……どうかした?」

「……」

 怪訝そうに尋ねてくる小宮さん。

 私は心を落ち着かせるよう目を瞑り、小さく深呼吸する。

 今しがた思い出していた過去の記憶を胸の中に仕舞い、意識を現実の世界へしっかりと引き戻す。

 やがて静かに瞼を持ち上げると、私は小宮さんの顔をまっすぐと見つめたまま言った。

「小宮さん」

「うん?」

「私ね、思い出したの」

「え……」

「お母さんのことも、死にかけたことも、相馬に二度も救われたことも、妹や弟のことも、全部、全部……」

 思い出して、また泣きそうになるのをぐっとこらえる。

 今にも涙が溢れそうになるのは、自分が惨めだからじゃない。

 むしろその逆で、今、ここにこうして無事に生きていられることに、私は安堵しているのかもしれない。

「……そっか」

「小宮さんは全部知ってたんだよね?」

「ええ、知っていたわ。お母さんのことも、通報者の相馬くんのことも、何が起きたのかも……全部。警察の方から聞いていたけれど、あなたの心情を考えて、伝えるべきかどうかは様子を見て判断しようってことになっていたの」

「そうだったんだ……」

 納得するように苦笑を浮かべると、小宮さんはぎゅっと唇を噛むようにして押し黙った。

 しばらくの沈黙。小宮さんはきっと、慎重に言葉を選んでいるんだと思う。

 どんなに綺麗事や絵空事を並べても、決して変わることがない現実に真っ向から立ち向かうよう、彼女は努めてやさしい声で問いかける。

「思い出した過去は……目を背けたくなるほど、辛いものだったでしょう?」

「……」

 こくん、と頷く。

「現在も隣町の精神病院に入院しているあなたのお母さんは、あなたのことはもちろん、別の施設にいる妹弟さんたちの引き取りも希望しているそうよ」

「え……」

「ついカッとなっただけだと仰って引き取りを強く主張しているけど、いくらお願いしても環境改善計画案が出てこないし、説得力に欠ける発言しか出てこないから、同じことが繰り返される可能性が高いと私は踏んでいて、あなたや妹弟さんたちを引き渡すべきじゃないと思ってるの」

「……」

 私は、小宮さんのこういう正直なところが好きだ。

 自分のためではなく私や誰かのために真剣に差し出された彼女のその言葉は、血のつながった母にもらったどの言葉よりも温かいし、頼もしく感じる。

 黙って耳を傾け、静かに続きを待っていると、彼女は苦笑するように言葉を続けた。

「でもね……いくらここで私がなんと言おうと、お母さんの元へ帰るか否か、最終的にそれを決めるのは唯川さん、あなた自身だから」

「わ……たし?」

「ええ。うちの施設ではね、それが決まりごとなの。あなたが帰ると言ったら帰す、帰りたくないと言えば、誰がなんと言おうと私たち職員が引き離す。だから……大事なことは、あなた自身が決めなさい」

「……」

「今のあなたにとって、実の親との決別を選ぶだなんてすごく勇気のいることだと思うけど……誰に遠慮もしなくていい。すぐに結論を出さなくてもいい。悩んで悩んで悩み抜いて、あなたが本当に自分にとって後悔しない道を選ぶといいわ」

「小宮さん……」

「大丈夫。勇気を持って一歩踏み出せば、きっと、あなたの世界は広がるから」

 その言葉に、一筋の光が見えたような気持ちになる。

 頷き、しばらく押し黙って自分自身の気持ちと向き合っていると、小宮さんは少し微笑んでから、背を押すように言った。

「あ、そうそうそれとね、さっき病室で上田さんが目を覚ましたの」

「! きららちゃんが?」

「ええ。相変わらずお母さんを裏切ることになって辛いってぼやいてたけど、でも、あなたが内縁の夫に水をぶちまけて一発ぶん殴ってやったことを教えてあげたら笑ってたわ」

「え! それ、本人に言っちゃったの??」

「あら、いいじゃない別に。お陰で彼女、これからはもっと自分を大事にするって、前向きになれていたようだし」

「……」

 恥ずかしいような、嬉しいような。

 どちらにせよ、きららちゃんを少しでも元気にすることができたのなら、それでいいのかもしれない。

「それでね、あなたに伝言。桜が満開になったら一緒にどこかへ出かけようって」

「……私と?」

「ええ。他の誰でもない、あなたと一緒に行きたいそうよ」

「……」

「きっとね、上田さんだけじゃない。通報者の相馬くんだってあなたの幸せを願ってる。みんなの未来の中に、あなたの居場所がちゃんとあるから。だからあなたも、もっと自分を大切にしないとダメよ」

 小宮さんのその一言は、私の心を大きく突き動かした。

 ぎゅっと拳を握り締め、大きく頷く。

「小宮さん、私……ちょっと行ってくる」

 にっこりと笑い、そっと道を開ける小宮さん。

 小宮さんの無言の声援を背に、しっかり顔を上げて前を向くと、『彼』が通った道を辿るようその背中を追いかける。

 相馬は病院の外に出て、駅行きのバス停でバスを待っていた。

 彼を呼び止めようとする私よりも早く、駅行きのバスが私を追い越す。

 相馬が行き先を確認してバスに乗ろうとしたので、私は大声で彼の名を呼んだ。