***
その日はずっと雨が降っていて、律の機嫌もあまりよくなく、ひどく憂鬱な朝だった。
「ねえちょっと、人の話聞いてる?」
「え、あ、えっと……」
機嫌が悪いのは生後数ヶ月の弟だけではなく母のそれも同様で、母は数日前に律の父親である内縁の夫に別れを告げられて以来、ずっと酒浸りの日々を送っていた。
この日は音々は小学校、律は保育園がある日で、私自身も中学校生活残り少ない登校日の一日だったが、酒臭い息を撒き散らし、据わった目で睨みつけてくる母親に絡まれてしまったため到底登校・登園なんてできそうになく、震える指先で今にも泣き出しそうな律の背を撫でつけた。
「いや、でも、もう推薦入学の合格をもらってて……」
「だからあ、受かってても金ないから無理だって言ってんの。律と音々はこの先まだ義務教育だけど、あんたはもう義務じゃないじゃん。お姉ちゃんなんだから我慢して当然だし文句ないよね。今日登校日でしょ? 担任に辞退するって言っといてよ」
選択肢などまるでなかった。
お金がないのは確かかもしれないけれど、義務教育を迎えている・控えている子どもが二人いることと、高校進学にそれなりのお金がかかることは予め了承の上での高校受験だったはずなのに、今さら何を言っているんだろうと気が遠くなる。
火にかけたヤカンがカタカタなる音をどこか遠くの出来事のように聞きながら、きっと、別れた男と同じ学校に通うことが許せないんだろうな……と、他人事のように思った。
「……」
あまりにも横暴な指示に脳がついていかなくて呆然と突っ立っていたけれど、希望が絶望に変わる瞬間の魂が凍えるような感覚が這い上がってきたところで、やっと我に返る。
――でもどうしても高校には通いたいし、難関と言われていた志望校にもせっかく特待生として合格できたのに。と、必死に抵抗を示そうとしたけれど、どれもこれも震えて声にはならなかった。
訴えるような涙目で母を見つめると、そんな私の態度が気に食わなかったのか、母は徐に血相を変え、私の髪の毛を掴み上げて怒鳴り出した。
「あ? なんだよその目、金ねえつってんのに、あたしのいう事が聞けないってのかよ?? 自分の子どもの進路をどうしようが私の勝手だろ? っつうかさあ、一丁前に音大附属の高校なんか受験しやがって何様なんだよお前?? 悔しかったらなあ、認知すらしてくんなかったてめぇの無責任な父親に、今までの養育費全額請求して金作ってこいよ! 金さえありゃいくらでも進学認めてやるっての!」
「ごめ、も、いい、わかったよ、お願いだから、そんな大きな声出さないで……」
髪を引っ張られて痛いのはもちろん、ようやく泣き止んだと思った律と、そばでやりとりを見ていた音々が火をつけたように泣き出したため、涙目になりながらも必死に許しを乞う情けない私。
もう駄目だ、絶対に無理だ――。
激しい動悸と眩暈に苛まれながらも、なんとか酔った母の機嫌を取り戻して、妹弟二人を抱えて慌てて家を飛び出す。
「いいか、今日中だぞ! 今日中に担任に辞退するって言えよ! あたし、街コンと合コンで二、三日家あけるから、戻ってきた時に辞退決まってなかったらマジで締め殺すかんな!」
背中を追いかけてきたその言葉に目から大粒の涙がこぼれ、噛み締めていた唇からは血の味が滲んだ気がした。
逆らうことは許されない。それは今までもそうだったし、これからもずっとそう。
酔っている母はとにかくタチが悪いし下手したら本気で殺されかねない。だから、私は返事もせず振り向きもせず悔し涙を手の甲で目の奥に押し込んで、冷え切った二月の細道を足早に駆け抜けた。
その日はずっと雨が降っていて、律の機嫌もあまりよくなく、ひどく憂鬱な朝だった。
「ねえちょっと、人の話聞いてる?」
「え、あ、えっと……」
機嫌が悪いのは生後数ヶ月の弟だけではなく母のそれも同様で、母は数日前に律の父親である内縁の夫に別れを告げられて以来、ずっと酒浸りの日々を送っていた。
この日は音々は小学校、律は保育園がある日で、私自身も中学校生活残り少ない登校日の一日だったが、酒臭い息を撒き散らし、据わった目で睨みつけてくる母親に絡まれてしまったため到底登校・登園なんてできそうになく、震える指先で今にも泣き出しそうな律の背を撫でつけた。
「いや、でも、もう推薦入学の合格をもらってて……」
「だからあ、受かってても金ないから無理だって言ってんの。律と音々はこの先まだ義務教育だけど、あんたはもう義務じゃないじゃん。お姉ちゃんなんだから我慢して当然だし文句ないよね。今日登校日でしょ? 担任に辞退するって言っといてよ」
選択肢などまるでなかった。
お金がないのは確かかもしれないけれど、義務教育を迎えている・控えている子どもが二人いることと、高校進学にそれなりのお金がかかることは予め了承の上での高校受験だったはずなのに、今さら何を言っているんだろうと気が遠くなる。
火にかけたヤカンがカタカタなる音をどこか遠くの出来事のように聞きながら、きっと、別れた男と同じ学校に通うことが許せないんだろうな……と、他人事のように思った。
「……」
あまりにも横暴な指示に脳がついていかなくて呆然と突っ立っていたけれど、希望が絶望に変わる瞬間の魂が凍えるような感覚が這い上がってきたところで、やっと我に返る。
――でもどうしても高校には通いたいし、難関と言われていた志望校にもせっかく特待生として合格できたのに。と、必死に抵抗を示そうとしたけれど、どれもこれも震えて声にはならなかった。
訴えるような涙目で母を見つめると、そんな私の態度が気に食わなかったのか、母は徐に血相を変え、私の髪の毛を掴み上げて怒鳴り出した。
「あ? なんだよその目、金ねえつってんのに、あたしのいう事が聞けないってのかよ?? 自分の子どもの進路をどうしようが私の勝手だろ? っつうかさあ、一丁前に音大附属の高校なんか受験しやがって何様なんだよお前?? 悔しかったらなあ、認知すらしてくんなかったてめぇの無責任な父親に、今までの養育費全額請求して金作ってこいよ! 金さえありゃいくらでも進学認めてやるっての!」
「ごめ、も、いい、わかったよ、お願いだから、そんな大きな声出さないで……」
髪を引っ張られて痛いのはもちろん、ようやく泣き止んだと思った律と、そばでやりとりを見ていた音々が火をつけたように泣き出したため、涙目になりながらも必死に許しを乞う情けない私。
もう駄目だ、絶対に無理だ――。
激しい動悸と眩暈に苛まれながらも、なんとか酔った母の機嫌を取り戻して、妹弟二人を抱えて慌てて家を飛び出す。
「いいか、今日中だぞ! 今日中に担任に辞退するって言えよ! あたし、街コンと合コンで二、三日家あけるから、戻ってきた時に辞退決まってなかったらマジで締め殺すかんな!」
背中を追いかけてきたその言葉に目から大粒の涙がこぼれ、噛み締めていた唇からは血の味が滲んだ気がした。
逆らうことは許されない。それは今までもそうだったし、これからもずっとそう。
酔っている母はとにかくタチが悪いし下手したら本気で殺されかねない。だから、私は返事もせず振り向きもせず悔し涙を手の甲で目の奥に押し込んで、冷え切った二月の細道を足早に駆け抜けた。