***
そうした幼少期もやがて終わりを迎え、私は地元の小学校へ進学する。
入学式当日、初めての集団生活に緊張しながら教室へ入ると、早くもそこには同じ幼稚園・保育園出身者で作り上げられた友達の輪ができかけており、私は幼心なりに焦りを覚えた。
指定された席に座り、どうやって輪に加わろうか必死に考えを巡らせていると、教室の後方扉がガラリと開き、数名の男の子たちが纏まって教室に入ってきた。
先頭に一人、その後ろに三人の合計四人。
彼らの顔を見るなり、それまで賑やかたった教室はシン、と水を打ったように静かになり、近くの席に座っていた誰かが小声で言った。
『ねえねえ、あの子、もしかして……』
『うん、そうそう。あれ、そうま総合病院のソウマレオくんだよ。わたし、同じ幼稚園だったから知ってる』
『やっぱり?? なんか、ママにソウマくんだけは怒らせちゃダメって言われてるから、色々気をつけないと』
どうやら彼は有名な人らしい。みんなが彼の顔色を窺うように愛想笑いを浮かべて彼の着席を見守っているので、集団生活ってなんか変な空気なんだなあなんて呑気に構えながら彼らの動きを目で追っていたら、先頭の男の子が私の隣の席に座った。
この学校の席順は誕生日順らしく、一月生まれの私の隣の列ということは大体十一月とか十二月生まれくらいなのだろうか、と、どうでもいいことを察していると、横暴な台詞が耳を掠めた。
「おい、お前。席、あっち移れよ」
「……」
「おい、お前。聞いてんのかよ」
「え?」
その台詞が私に向かって放たれたものだと気づいたのは、ソウマレオの子分みたいな男の子に髪の毛をクンと引っ張られてからだった。
彼はソウマレオの後ろにいた従者の一人で、名札には佐野俊介と書いてある。
「痛……」
「お前、耳ねーのかよ。蓮王くんの隣は俺が座るから、お前は違う席に移れって言ってんの」
佐野に睨まれ、眉を顰める私。
「席移れって言われても、席順決まってるのに無理じゃない?」
純粋に疑問に思ったことをそのまま口にすると、佐野はカッと顔を赤くし、凄むように私に詰め寄ってきた。
「は?? 何お前、口答えする気? 怪我した時、病院にいけなくなってもいいのかよ??」
怖い顔で睨まれたが、私には彼の言っている意味がさっぱりわからない。
「……? 席移らないと病院行けなくなるの? なんで……?」
「なっ、お、お前、わざとすっとぼけてんの?? 同じ学区に住んでんのに蓮王くんのこと何も知らねえのかよ??」
あまりにも私の物分かりが悪いせいか、佐野は真っ赤になって憤りを顕にした。
困ったな。なんで彼が怒っているのかもよくわからない。仕方なく名指しされている当人をちらり、と見やると、彼は我関せずといった顔で鞄から取り出した漫画を読んでいた。
漫画読んでないでなにか言ってほしい。
「うん。知らない」
「なっ」
「……」
正直に答えると、佐野俊介は絶句したように口をぱくぱくさせる。
周囲からは微かなくすくす笑いが漏れ、当人のソウマレオも私の回答に興味を示すよう一瞬だけ顔を上げてこちらを見てきた。ジッと睨まれても、知らないものは知らないのだから仕方がない。
「お前、馬鹿なんじゃねえの?? この町唯一の大型病院、そうま総合病院の相馬蓮王くんだぞ?? 蓮王くんのところの父ちゃんはそこの院長でなあ……」
「あー、その病院の名前なら聞いたことある。『あそこの病院にだけは死んでも連れて行かないから、病気になるぐらいなら潔く野垂れ死んでね』って、お母さんに言われてるから、心配しなくても病院に行く機会はないと思う」
「な、な、な……」
「……」
私の回答に、佐野が目をひん剥いた。
私は至って真面目に答えたつもりなんだけれど、周囲のクラスメイトや佐野はそれが冗談だと思っているようで、所々で冷やかしのような笑いが起き、それがいっそう佐野の機嫌を損ねる。
「ふ、ふざけんなよ?? 病気になってんのに病院に連れて行かない親がいるかよ! お前、いい加減にしねえと……」
「だって本当のことだもん。……っていうかさ、あそこの病院の院長の話が出ると、うちのお母さんめちゃくちゃ機嫌悪くなるんだけど、あなたのお父さん、うちのお母さんに何かしたの?」
「……」
佐野と話していても埒があかないと思い、再び手元の漫画に視線を落としていた相馬に直接問うと、彼は眉をつり上げてこちらを見た。
「おまっ、蓮王くんになんてこ――」
「お前、うるさい。ちょっと黙れ」
「……っ!」
「どいて」
佐野がいきりたって何かを言おうとしたけれど、相馬がそれを制して立ち上がる。
ざわつく教室。佐野は顔を真っ赤にしながら「ご、ごめん」と呟いて後ろに下がり、代わりに相馬が私の席の真前までやってきた。
ハブとマングースかってぐらい、無言で見つめ合うこと数秒。
「お前、名前は?」
開口一番、彼が尋ねる。
「名札に書いてあるの見えない?」
「ユイカワ、ウタ……」
私の左胸についた名札を見下ろして、口の中で反芻する相馬。
改めてよく見ると、この人、意外とまつ毛が長い。
「母親の名前は?」
どうでもいい感想を抱いていると唐突に問われたので、首を捻りながらも素直に答える。
「え? 哀歌だけど……」
「ふうん。やっぱりね」
すると相馬は妙に納得したような意味深な返事をして、口元に嘲笑を浮かべた。
なんだろう、その小馬鹿にするような笑いは。
クラスのみんなが注目しているので、よほど面白い事でも思いついたのかもしれない。
「なに?」
むっとして問いただすと、彼は一度、目線だけで周囲を見渡し、身を乗り出してから私にだけ聞こえるような小声で、こそりと耳打ちしてきた。
「オヤジに捨てられたアイジンの子どもか」
「……え?」
「うちのお袋が知ったら、お前、殺されるかもな」
耳を疑うような呟きが確かに聞こえた。
相馬は固まる私を愉快そうに見下ろすと、何も言わずに着席する。
「……」
それ以上何もしなくても、私が放心して何も言えなくなることをよくわかっているのだろう。彼の読み通り、私は血の気が引く思いでその場に立ち尽くしていた。
(どういう……こと?)
つまりそれは、私の父親と相馬の父親が同じってことなのだろうか?
当時の私は、派手な母の影響もありだいぶませた子どもだったので、愛人の意味ぐらいは知っていたし、確かに母がそうである可能性も充分にあった。私には父親がずっといなかったし、母のそうま総合病院への敵対心はやや常軌を逸しているところがあったから。
でも、だとすれば今目の前にいるこの意地の悪そうな男・相馬と私は異母兄妹ってことになり、私はこれから六年間(この区域に中学校の数は一つしかないから下手すれば中学卒業までの九年間だ)、ずっと後ろめたさを背負いながら過ごさなければならなくなる。
彼は正妻の子で、私は愛人の子だから。
「……」
そんな話、信じられないし信じたくないし気が遠くなるようだった。
周囲にいた佐野やその他の取り巻き、成り行きを見守るクラスメイトたちは、相馬が私に何を告げたのか全く聞こえなかったようで、大人しくなった私を見てきょとんとしたように首を捻っている。
相馬は勝ち誇ったように再び漫画を読み始めたのだが、私を黙らせるためだけにそんなデリケートな話をなんの配慮もなくぶちかまし、挙句に『俺とお前とでは格が違うんだから大人しく日陰で暮らしとけバーカ』とでもいうような脅迫めいた言葉を暗に押し付けてくるだなんて、どれだけ性格の悪い男なんだろう。
こんな男が兄だなんて絶対に認めない。
私は彼が引いたはずの幕を無理矢理こじ開けて、きっぱりと宣言する。
「教えてくれてありがとう。でも、あなたみたいな性格悪そうな子と兄妹だなんてゴメンだし、きっと何かの間違いじゃない?」
「……」
驚いたようにこちらを見上げた相馬は、数秒後、屈辱的な表情で私を睨め付ける。
待ち焦がれていた小学校生活一日目。
この日この瞬間から、私と相馬の長い長い戦いの幕は切って落とされたのだった。
そうした幼少期もやがて終わりを迎え、私は地元の小学校へ進学する。
入学式当日、初めての集団生活に緊張しながら教室へ入ると、早くもそこには同じ幼稚園・保育園出身者で作り上げられた友達の輪ができかけており、私は幼心なりに焦りを覚えた。
指定された席に座り、どうやって輪に加わろうか必死に考えを巡らせていると、教室の後方扉がガラリと開き、数名の男の子たちが纏まって教室に入ってきた。
先頭に一人、その後ろに三人の合計四人。
彼らの顔を見るなり、それまで賑やかたった教室はシン、と水を打ったように静かになり、近くの席に座っていた誰かが小声で言った。
『ねえねえ、あの子、もしかして……』
『うん、そうそう。あれ、そうま総合病院のソウマレオくんだよ。わたし、同じ幼稚園だったから知ってる』
『やっぱり?? なんか、ママにソウマくんだけは怒らせちゃダメって言われてるから、色々気をつけないと』
どうやら彼は有名な人らしい。みんなが彼の顔色を窺うように愛想笑いを浮かべて彼の着席を見守っているので、集団生活ってなんか変な空気なんだなあなんて呑気に構えながら彼らの動きを目で追っていたら、先頭の男の子が私の隣の席に座った。
この学校の席順は誕生日順らしく、一月生まれの私の隣の列ということは大体十一月とか十二月生まれくらいなのだろうか、と、どうでもいいことを察していると、横暴な台詞が耳を掠めた。
「おい、お前。席、あっち移れよ」
「……」
「おい、お前。聞いてんのかよ」
「え?」
その台詞が私に向かって放たれたものだと気づいたのは、ソウマレオの子分みたいな男の子に髪の毛をクンと引っ張られてからだった。
彼はソウマレオの後ろにいた従者の一人で、名札には佐野俊介と書いてある。
「痛……」
「お前、耳ねーのかよ。蓮王くんの隣は俺が座るから、お前は違う席に移れって言ってんの」
佐野に睨まれ、眉を顰める私。
「席移れって言われても、席順決まってるのに無理じゃない?」
純粋に疑問に思ったことをそのまま口にすると、佐野はカッと顔を赤くし、凄むように私に詰め寄ってきた。
「は?? 何お前、口答えする気? 怪我した時、病院にいけなくなってもいいのかよ??」
怖い顔で睨まれたが、私には彼の言っている意味がさっぱりわからない。
「……? 席移らないと病院行けなくなるの? なんで……?」
「なっ、お、お前、わざとすっとぼけてんの?? 同じ学区に住んでんのに蓮王くんのこと何も知らねえのかよ??」
あまりにも私の物分かりが悪いせいか、佐野は真っ赤になって憤りを顕にした。
困ったな。なんで彼が怒っているのかもよくわからない。仕方なく名指しされている当人をちらり、と見やると、彼は我関せずといった顔で鞄から取り出した漫画を読んでいた。
漫画読んでないでなにか言ってほしい。
「うん。知らない」
「なっ」
「……」
正直に答えると、佐野俊介は絶句したように口をぱくぱくさせる。
周囲からは微かなくすくす笑いが漏れ、当人のソウマレオも私の回答に興味を示すよう一瞬だけ顔を上げてこちらを見てきた。ジッと睨まれても、知らないものは知らないのだから仕方がない。
「お前、馬鹿なんじゃねえの?? この町唯一の大型病院、そうま総合病院の相馬蓮王くんだぞ?? 蓮王くんのところの父ちゃんはそこの院長でなあ……」
「あー、その病院の名前なら聞いたことある。『あそこの病院にだけは死んでも連れて行かないから、病気になるぐらいなら潔く野垂れ死んでね』って、お母さんに言われてるから、心配しなくても病院に行く機会はないと思う」
「な、な、な……」
「……」
私の回答に、佐野が目をひん剥いた。
私は至って真面目に答えたつもりなんだけれど、周囲のクラスメイトや佐野はそれが冗談だと思っているようで、所々で冷やかしのような笑いが起き、それがいっそう佐野の機嫌を損ねる。
「ふ、ふざけんなよ?? 病気になってんのに病院に連れて行かない親がいるかよ! お前、いい加減にしねえと……」
「だって本当のことだもん。……っていうかさ、あそこの病院の院長の話が出ると、うちのお母さんめちゃくちゃ機嫌悪くなるんだけど、あなたのお父さん、うちのお母さんに何かしたの?」
「……」
佐野と話していても埒があかないと思い、再び手元の漫画に視線を落としていた相馬に直接問うと、彼は眉をつり上げてこちらを見た。
「おまっ、蓮王くんになんてこ――」
「お前、うるさい。ちょっと黙れ」
「……っ!」
「どいて」
佐野がいきりたって何かを言おうとしたけれど、相馬がそれを制して立ち上がる。
ざわつく教室。佐野は顔を真っ赤にしながら「ご、ごめん」と呟いて後ろに下がり、代わりに相馬が私の席の真前までやってきた。
ハブとマングースかってぐらい、無言で見つめ合うこと数秒。
「お前、名前は?」
開口一番、彼が尋ねる。
「名札に書いてあるの見えない?」
「ユイカワ、ウタ……」
私の左胸についた名札を見下ろして、口の中で反芻する相馬。
改めてよく見ると、この人、意外とまつ毛が長い。
「母親の名前は?」
どうでもいい感想を抱いていると唐突に問われたので、首を捻りながらも素直に答える。
「え? 哀歌だけど……」
「ふうん。やっぱりね」
すると相馬は妙に納得したような意味深な返事をして、口元に嘲笑を浮かべた。
なんだろう、その小馬鹿にするような笑いは。
クラスのみんなが注目しているので、よほど面白い事でも思いついたのかもしれない。
「なに?」
むっとして問いただすと、彼は一度、目線だけで周囲を見渡し、身を乗り出してから私にだけ聞こえるような小声で、こそりと耳打ちしてきた。
「オヤジに捨てられたアイジンの子どもか」
「……え?」
「うちのお袋が知ったら、お前、殺されるかもな」
耳を疑うような呟きが確かに聞こえた。
相馬は固まる私を愉快そうに見下ろすと、何も言わずに着席する。
「……」
それ以上何もしなくても、私が放心して何も言えなくなることをよくわかっているのだろう。彼の読み通り、私は血の気が引く思いでその場に立ち尽くしていた。
(どういう……こと?)
つまりそれは、私の父親と相馬の父親が同じってことなのだろうか?
当時の私は、派手な母の影響もありだいぶませた子どもだったので、愛人の意味ぐらいは知っていたし、確かに母がそうである可能性も充分にあった。私には父親がずっといなかったし、母のそうま総合病院への敵対心はやや常軌を逸しているところがあったから。
でも、だとすれば今目の前にいるこの意地の悪そうな男・相馬と私は異母兄妹ってことになり、私はこれから六年間(この区域に中学校の数は一つしかないから下手すれば中学卒業までの九年間だ)、ずっと後ろめたさを背負いながら過ごさなければならなくなる。
彼は正妻の子で、私は愛人の子だから。
「……」
そんな話、信じられないし信じたくないし気が遠くなるようだった。
周囲にいた佐野やその他の取り巻き、成り行きを見守るクラスメイトたちは、相馬が私に何を告げたのか全く聞こえなかったようで、大人しくなった私を見てきょとんとしたように首を捻っている。
相馬は勝ち誇ったように再び漫画を読み始めたのだが、私を黙らせるためだけにそんなデリケートな話をなんの配慮もなくぶちかまし、挙句に『俺とお前とでは格が違うんだから大人しく日陰で暮らしとけバーカ』とでもいうような脅迫めいた言葉を暗に押し付けてくるだなんて、どれだけ性格の悪い男なんだろう。
こんな男が兄だなんて絶対に認めない。
私は彼が引いたはずの幕を無理矢理こじ開けて、きっぱりと宣言する。
「教えてくれてありがとう。でも、あなたみたいな性格悪そうな子と兄妹だなんてゴメンだし、きっと何かの間違いじゃない?」
「……」
驚いたようにこちらを見上げた相馬は、数秒後、屈辱的な表情で私を睨め付ける。
待ち焦がれていた小学校生活一日目。
この日この瞬間から、私と相馬の長い長い戦いの幕は切って落とされたのだった。