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 ――どれぐらい長い間、眠り続けていただろう。

 目を覚ますとそこは、見知らぬ病院のベッドの上だった。

「ああ、よかった。無事に目を覚ましたようだね。気分はどうだい?」

 足元のあたりから男性の声がする。

 全身が鈍い痛みとひどい倦怠感に包まれているため、目線だけを下げて声の主を確認すると、穏やかな口調で語りかけてくるその人は白衣を着た五十代前半くらいの男性医師だった。

 胸元でゆらゆら揺れている身分証には『そうま総合病院 脳神経外科 医師 相馬(そうま) 翔平(しょうへい)』と書かれている。

「気、分……」

「そう、気分」

「頭が……痛い」

「そうだね、君は頭を打ってるからね。吐き気や眩暈なんかはあるかな?」

 ゆるゆると首を横に振る。

「そっか。じゃあ、そのままでいいから少しお話しできるかな?」

 少し考えた後、今度は首を縦に振る。

 むしろ私も、今自分が置かれている状況が何一つわかっていないため、情報を得るためにももう少し人と話していたい気分だった。

「よかった。じゃあ診察の準備をするからちょっと待ってね」

 そう言って、キャスター付きの丸椅子を滑らせながらこちらにやってくる相馬先生。

 彼は胸元のポケットから猫のマスコット付きボールペンを取り出し、手元のカルテに何かを書き込んでいる。

 無駄のない動きをする彼の一挙手一投足を監視するように見つめてみるけれど、なんか気になる苗字だなあという感想以外これといった感情が湧いてこない。おそらく私はこの人と初対面なのだろう。なんとなくだがそう結論づけることにした。

「あの……」

「うん?」

「ここは……どこ?」

 ようやく脳が起き始めてきたので最初に行き当たった疑問を口にすると、相馬先生はにっこり笑って答えた。

「市内にある総合病院だよ」

「病院……」

「うん。君は事故に遭ってこの病院に運ばれてきたんだ。どうやら階段から転げ落ちたみたいでね、丸一日眠り続けていたんだよ。まぁ、幸い致命的な外傷もなく済んだけど、なにしろ頭を打っているからね。検査もしないといけないし、しばらくは入院が必要かな」

「そう……ですか」

 今の答えの中に、私が知りたかったことの七割ぐらいが含まれていた。

 何が起きてここにいるのかとか、どれくらい眠っていたのかとか、今の自分の体の状態だとか。

 でも、肝心なことは何一つわからなかった。

 例えば、そう――。

「さてと、じゃあいくつか質問するから、わかるものだけ答えてね。ええっと、今日は何年何月何日かな?」

「……」

 丸一日も眠り続けていたというのに、目が覚めた時に家族や友達など私を知る人が誰もいなかったのはなぜなんだろう、とか。

「わからないか。じゃあ質問を変えるね。君は今何歳になるのかな?」

「……」

 私は今、なぜこんなに簡単な質問に答えることができないのだろう、とか。

「んー、これも無理か。じゃあもっと簡単な質問にしてみよう。自分のお名前、言えるかな?」

「……」

 私は何者で、どういう顔をして、どういう性格で、どんな家族がいて、どういう人生を歩んでここに辿り着いたのか――とか。

「わかりません」

 名前も、歳も、育ちも、暮らしも、何もかも全部。

 記憶と共に失ってしまった私は、まるで小説の主人公にでもなったかのように、今この瞬間から自分を取り戻すべく葛藤の日々を歩むことになったのだった。