「開始まであと一分です」
アナウンスが聞こえ、先ほどまでのバーゲンセール会場はとたんに凪のようになった。暗くて何も見えないおかげで、私が泣きそうな顔をしているのも誰からも見えない。
緞帳の向こうで、ギィ、と楽器の弦が擦れるような音がした。ギターの音だろうか。
「ね、ワクワクするね」
隣の人がそのまた隣の誰かに話しかける。私はその声に救われて、泣きそうな気持ちと入れ替わるように、胸の奥がどきどきと高鳴るのを感じた。
こういうの、音楽で言うと何ビートっていうんだろう。分からないけど、心の中をひゅんっと何かが走り抜けていきそうだ、と思った。
先ほどまでの泣きそうな気持ちはもうどこかに消えていて、何かを期待するようなワクワク感でいっぱいになっていた。心臓がどくどくと速まる。
「じゅー、きゅう、はーち、なーな」
中央の辺りから数える声が聞こえて、それがどんどん大きくなる。
「さん」から「ゼロ」までは、私もいっしょになって叫んでいた。緞帳がゆっくりと上がる。会場の中はまだ暗い。辺りがしん、と静まり返った。
この瞬間の出来事を、私は何年経っても忘れないだろう。こんなにドキドキして、ワクワクして、まるで魔法にかけられたみたいな気持ちになったのは初めてだった。
小さく、小さくギターの音が鳴る。アツキ先輩のハイボイスが、イントロのギターと絡み合うように響いた。ヴォーカルとギターの二人を、眩しすぎるくらいの照明がともす。
始まりは小さくゆっくりと、音楽のはじまりにふさわしい、柔らかな落ち着いた音色。僕たちは限られた時間の中で、何かを成し遂げるんだ。歌詞のセンスの無さなんて、もうどうでもよかった。
照明がドラムに当たる。タンタンタン。ドラムのスティックが数回揺れて、それを合図かのように、音が踊りはじめた。
最後のライトがベースを照らす。ヴオン。重低音が弾けた。
その瞬間、時間が止まったかと思った。
今この空間にいる全ての人の動きがスローになって、周りの景色がゆっくりとミラーボールのように回り始めた。もちろん実際にはそうじゃない。でも私にはそう感じることしかできなかった。
ロックンロールが私の人生に与える影響なんて、ほんの一ミリもないと思っていた。
うちの西の隅にあるおじいちゃんの音楽部屋で、丁寧に磨かれた楽器の側面が、ほんの一瞬虹色に光った時。ほのかな光を見たその数秒間でさえ、自分には関係のないことだと信じきっていた。
私は大きな勘違いをしていた。
ヴオンヴオン。重低音が踊りはじめる。全身が震えると同時に、顔を上げた。私の真正面、数メートル先、ベースの立ち位置にあたる場所で演奏をしているひとりの男子生徒が目に入る。
緑色に光る楽器のボディと、そこから伸びる四本の弦を、巧みに操る長い指。少し茶色がかった、私と同じゆるいくせっ毛。弧を描くやさしい幅広の二重まぶた。すっとした鼻。袖まくりした色白の腕と、似合わない筋肉。その人の周りだけ、虹色に光っているように見えた。
この人が、曽根崎望という人なのだろうか。
「アツキー!」と誰かが叫ぶ。アツキ先輩が「ありがとう! 聴いて下さい、『群青、僕ら』!」と叫んで、会場がわーっと盛り上がった。会場のほとんどがアツキ先輩に釘付けになっているというのに、私は目の前にいるベースの彼から目を離すことができない。
おじいちゃんと同じ重低音だから、それもあるかもしれない。けれどもそれとは違う何かが、私の胸の中で渦巻いていた。会場の中で左側に流されたことも、運命だったのかもしれない。そんなことを考えてしまうくらいに、私はその音に夢中になっていた。恐怖も不安も消えていた。
それは世界でいちばん綺麗なもので、初めての気持ちをつれて、颯爽と現れたのだった。
ヴオンとまた音が鳴って、曽根崎望その人が笑った。