長い長い階段を下る。このまま景色の中に溶け込んでしまいそうだ、なんて思った。

 冬の温度は私の心をいつもよりずっと透明にさせる。

 ノゾムくんは私の一歩先で立ち止まって、そして振り返った。彼のくせっ毛が風に吹かれる。街灯の光を透かした茶色い髪が、さらさらと揺れる。どきどきした。



「ねえ、花音ちゃん。詩を書いてよ」

「え?」

「俺たちのバンドのために詩を書いてよ。クリスマスに文化ホールでライブをするんだ。新曲の音は出来てるけど、俺たち誰も詩の才能なくてさ。俺なんて国語の成績、毎回赤点ギリギリなんだよ?」

「私が詩?」

「うん、花音ちゃんがいいんだ」



 ノゾムくんってきっと、天然タラシなんだと思う。

 文化祭で初めて存在を知ったし、女の子との噂なんてないって聞くけど。きっとこの優しさに泣かされた女の子が、ひとりやふたりはいるんじゃないだろうか。
 
 だって、私は今こんなにも、胸の奥が熱くてどうしようもない。



「花音ちゃんはきっと、感受性が豊かなんだよ。だからすぐ泣いちゃうんだ」

「感受性かぁ……」

「どうする?」



 そう問われて、気がついたら叫んでいた。



「私……、書きたい! やる! やります!」



 近所迷惑になるかもしれない大声で、私は叫んだ。白い猫が驚いた様子で、ニャーとひと鳴きして駆けていく。

 夜空はくもり空で、月は見えない。夜景はただの背景になって、ぼんやりと私の周りを回った。

 この時私は、何かが変わるかもしれないという予感を抱いていた。



 私が私らしくいられる場所なんて、存在しないと思っていた。もっと言うなら、ロックンロールが私の人生に与える影響なんて、ほんの一ミリもないと思っていた。
 それはそれは、大きな勘違い。
 確かにこの瞬間、人生が変わる予感がして、その予感と初めて覚えたふしぎな感情との間で、私は揺さぶられていた。心が光の速さで加速していくのが分かる。



 そのあとのことはやっぱりよく覚えてないけれど。坂の途中から見下ろした景色はいつもよりずっと綺麗だったはずなのに、彼の隣にいるとそれはただの背景に変わってしまった。



 その夜は興奮して眠れなくて。どうしても寝つけないから、数編の詩を書いた。それは、恋の詩だった。