誰かに、呼びとめられた気がした。ううん、気のせいじゃない。

 今の行為を思い返すと全身がかぁっと熱くなって、私は動きをとめた。怖くて振り返ることができない。



「花音ちゃん、だよね? さっき出て行ったのが見えたから」



 優しい、男の子の声だった。どくりと胸の奥が高鳴る。

 それが恐怖心からなのか、羞恥心からなのか、それとも何か他の気持ちが理由なのか私には分からなかった。



 恐る恐る、身体ごと振り返る。

 そこにいたのは、今日あの会場で緑色のベースをかき鳴らしていた、曽根崎望という人だった。



「あ、軽々しく花音ちゃんなんて、ごめんね」

「えっと……、私のこと、知ってるの?」

「うん。ノンちゃん、でしょ? 俺さ、昔ノンってあだ名だったんだよ。だから、俺は花音ちゃんって呼んでもいい?」

「うん」



 喉の奥がひゅうっと音を立てた。うん、とひとつ口にするだけで、からからに乾いてしまいそうだった。身体の芯の方が熱い。花音ちゃんなんて名前で呼んでくれる人に出会ったのは、生まれて初めてだ。



「俺のこと、知ってる?」

「ベースの……、ソネザキノゾムくん」

「よかった」



 私がノゾムくんの目を見ると、彼はほっとした様子で笑った。

 どうして私なんて追いかけてきたんだろう。まずは、もう帰るつもりだということを伝えなければならない。でもどうしてだか、この人ともっと話がしたいと思った。



「花音ちゃんは、もう帰るの?」

「うん」



 私がそう言うと、ノゾムくんは目を細めて笑った。少し茶色がかった髪は、やはり私と同じくせっ毛だ。

 横に並ぶと私の二〇センチくらい上に顔があって、睫毛が長いのがよく分かる。カッコイイ重低音をかき鳴らしていたとは思えない、優しい表情だ。なんだかベースっぽくない人だな、と私は思う。



「じゃ、俺も帰ろ。電車なんだよ、俺。遅くなったら、帰りの電車少なくなるし。駅までって、ここ降りてったら行ける?」

「うん、行けるよ。おうち、どこなの?」

「大学前。花音ちゃんは?」

「うちはここを降りてすぐだよ。駅のそば。この道ね、夜景が綺麗なんだぁ。宝石箱みたいだよね。信号とかブレーキランプとか、時々色が変わってね。クルーズ船が来てる時なんか、もっとすごいんだよ。この景色見てるとなんか、心がすーっと澄んだような感じになるんだぁ。まるで絵の世界に入り込めたような気分になっちゃうの」



 冬のはじまりの心地良い風に吹かれて、私はすっかり上機嫌になっていた。それはバンドの余韻のせいでもあったのかもしれない。高揚感に煽られて、ついつい口が弾んでしまう。

 しまった、喋りすぎた、と思った時には、ノゾムくんは私の目を見てふふふと笑っていた。



「ごめん、喋り過ぎだね。気にしないで」

「ううん。もっと聞かせて」

「変だとか、思わない?」

「思わないよ。花音ちゃんみたいな考えの方が、きっとずっといいよ」



 そんなことを言われたのは初めてだった。

 だってみんないつも、ノンはぼーっとしてるだとか、わけが分からない空想をしてるとか言って、からかってくるから。

 景色がどうだと言っただけで、『天然発言』として認定されてしまう。
 でもこの人はそうは言わない。私にとっては当たり前のとらえ方を認められたようで、なんだか嬉しかった。



 私たちは坂道を下る。夜の色はどんどん濃くなるのに、街は眠らない。ますます輝きを増して、私たちを宝石箱の中にとじこめた。遠くに見える信号機の『進め』の色は、ノゾムくんのベースと同じ緑色だ。



「今日さ、文芸部の部誌配ってたでしょ?」

「うん。知ってたの?」

「俺、花音ちゃんから受け取ったんだよ」



 ノゾムくんはそう言うと、鞄の中から一冊の冊子を取り出した。

 レトロな装飾を施した街灯に照らされて、『第五十三回県立南高等学校文化祭 文芸部誌』の文字が光る。

 印刷室でコピーしたそれは、パンフレットと違ってカサついた紙質のものだ。ノゾムくんはそれをパラパラと捲ると、緩やかに笑って口を開いた。



「茜さす霜月の午後 校舎の壁が、やわらかなピンク色に染まる 色づいたのは木の葉か 白壁か それとも私の頬か」

「ぎゃー! 読まないでぇ!」

「これ、すごいじゃん。好きだよ、俺」



 好きだよ、なんて。私に言ったわけじゃないのに、詩のことを言っただけなのに。まるで告白されたかのような気分になって、私の全身はかあっと熱を帯びた。

 今夜はぐっと気温が下がると、テレビのニュースで言っていたはずだ。タイツも履いてこなかったし、手袋だってしていない。けれども、私の身体はすっかり熱くなって、のぼせてしまいそうだと思った。



「花音ちゃんってすごいね。こんな詩を三つも書けちゃうなんて」

「ノゾムくんの方がすごいよ! 私今日感動したんだぁ。ライブの前に直ちゃんたちとはぐれちゃって、泣きそうな気持ちだったのに。ライブがはじまったらドキドキして……、違う意味で泣きそうになったもん」

「本当? ありがとう」



 息を吸ったら、冷たい空気がつーんと鼻をついた。

 僕たちは限られた時間の中で、何かを成し遂げるんだ。今日のライブを思い出して、私の目にはじわりと涙が浮かび上がる。

 世界中の綺麗を詰め込んだような夜景は、たちまち滲んでぼやけてしまった。



「ぐすっ」

「ええ!? 泣いてんの!?」

「ぐすっ。わたし、いつもこうなの。悲しい時だけじゃなくって、感動した時も、嬉しい時も、楽しい時も、すぐ泣いちゃう。今だってそう」



 ポケットからハンカチを取り出そうとして、ワンピースにポケットがないことに気がついた。しょうがないので、すんすんと鼻をすする。

 お姉ちゃんがマスカラというのを塗ってくれたから、目をこすったら取れてしまうかもしれない。

 ノゾムくんの方をちらりと見ると、少し困ったような顔をして、こう聞いてきた。



「今のは、どんな気持ち?」



 私はもう一度鼻をすすり、前を向く。景色はまた、はっきりとした色彩の宝石箱に戻っていた。



「分からないけど……、いやじゃない方のやつ」

「はは、よかった」

「感動と、楽しいのと、なんかいろいろなの」