「……そうかな」
 頬を撫でていく風は、瀬名くんの前髪をさらさらと揺らす。
 こんなにも柔らかな風は、きっと今まで何度だって吹いていた。その柔らかさに、私は気付いたことなんてあっただろうか。
 目を瞑ると木の葉の擦れ合う音が聞こえてくる。
「空の下にいるとさ、なんか心がオープンになるよね」
 緑のフェンスに背中を預けながら空を見上げる香川さんが隣に立つ。そんな彼女を真似るようにフェンスに凭れ「そうだね」と頷くと、
「だからさ、三春って呼んでいいかな」
 思わぬ提案を受け、ぱっと視線を香川さんの顔に移す。
「えっ」
「あ、ごめん。迷惑ならこのまま綿世さんって呼ぶから」
「あ、違うの! あの、その……嬉しくて」
〝那月ちゃん〟
 桐原くんの妹さんにそう紹介してくれたとき、柄にもなく嬉しいと思った。
名前を呼ばれるだけ。家族から呼ばれることとは違う、特別な幸福感。
「……私も、琴音って呼んでいいのかな」
 名前なんて、子供の時は平気で呼び合えていた。下の名前だって呼び捨てに出来て、遊んでいるうちに友達というスタンスが成立していた。
それが年齢を重ねると、遠慮という言葉が浮かんで上手く出来なくなってしまった。
 だから、改まって名前で呼んでいいかなんて聞いてくれた香川さんはきっと緊張しただろうし、なんてことはないような顔をしてくれてるけど勇気を出してくれたのだと思う。
「もちろん、その方が嬉しい」
 だから、この笑顔を向けてもらえてよかったと思う。
 人は、見えてるものだけが全てではない。
この笑顔の裏には、たくさん傷付いてきた過去があって、臆病になりながらも乗り越えてきた証が、きっとこの笑顔なのだろう。
 それから、ジュース買い出しじゃんけんを提案した瀬名くんに嫌々参加させられた三人は、綺麗にグー二名、チョキ二名で分かれ桐原香川ペアで買い出しに行かされる羽目となっていた。
「お前、今度は覚えてろよ」
 桐原くんの苛立ちを含んだような視線にも、瀬名くんは「いってらっしゃーい」とひらひら手を振って送り出していた。
 琴音も、ぶーぶーと垂れながらも桐原くんと仲良く屋上を出て行き、その背中を見送った。
 じゃんけんは意外にも盛り上がりを見せたものだから、しんと静まった今がどうもぎこちなくて、誤魔化すようにフェンス越しのグラウンドを見ていた。