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それは世間で騒がれている新型コロナのせいで春休み前に休校となり、二〇二〇年の新学期がいつから始まるのかわからなくなった高校二年生になる前の春のことだ。
見えないものに怯える不穏な日々。でも周りを見れば普段と変わらない景色が続く。
空は晴れ晴れとして柔らかな雲がゆったりと流れて、そこにある自然は何も変わらなかった。
ぽかぽかとした気温。春の色が濃くなってほんわかするはずだった。なのに、訳もわからず不安を植えつけられてしまった。
手を洗え、消毒しろと、人の集まるところにいくな、人との距離をとれ、と指図される事が多くなった。
こんなのって窮屈だ。その一方でまだ今の状況を真剣に受け止めていない自分もいる。
春はマスクをする人が多いとは思っていたけど、それは花粉症が主な理由だった。だけど今、普通の人もマスクを求めている。そしてどこも売り切れて探すのが困難だ。
「智ちゃん、悪いんだけどKストアでマスク入荷する予定なんだって。ちょっと買ってきて」
「やだ、お母さんが行けばいいじゃない」
「私はもうちょっと先のドラッグストアに行ってくるからさ、こういうのは分散して買いに行けばいいでしょ。ねえ、福ちゃんもそう思うよね」
母は足元で餌をねだっている猫に同意を求めていた。
あっさりと言ってくれるけど、本当はマスクが売ってる保障はない。手に入ればそれだけでラッキーなことになる。家には多少のマスクの予備があっても、それだけでは十分じゃないとみんな同じ考えを持っていて、世間はマスクの取り合いになっていた。
なんでこんなことになったのだろう。
でも風邪なんかで死にたくないし、マスクで被害が抑えられるのならすがるしかない。お母さんからお金を受け取り、私はピンクのパーカーを手に取って玄関に向かった。
少し大きめでだぼっとしたパーカー。すっぽりと体を包んでくれる私のお気に入り。白いスキニーパンツとよく合う。
外は日差しがあってぽかぽかしているけど、風が冷たくて日陰になるとまだ寒く感じる。パーカーを頭から被ってもごもごと袖を通しながら外に出た。
隣の家の桜の木が目に入る。所々で花が咲き出している。花びらは薄っすらとピンク色。私のパーカーもピンクだから自分も桜になったように少しだけ可愛いんじゃないかって自惚れた。いいよね、自分で思うだけだから。
お母さんは私のこと『智《とも》ちゃん』と呼ぶけれど、私はみんなから『栗《くり》ちゃん』と呼ばれることの方が多い。名前が栗原智世《くりはらともよ》だからだ。
生まれつき色素が薄いのか、髪も目も茶色っぽく、それが原因で訳もなく中学の時は虐められた。付いた渾名《あだな》がイガグリだった。それが私を侮辱する唯一の変な名前だとみんなが思ったのだろう。
最初は名前をもじってからかうだけだったのが、私が我慢してヘラヘラしているうちに、そんな態度が気持ち悪いなんていう子がでてきた。あの時は必ず誰か がクラスで犠牲になってターゲットにされていたから、その時の気の強い人の気分で意地悪がエスカレートして周りに伝播していった。
その時は辛かったけど、ある時を基準にピタッと止んだから気にしないことにした。まあ、その時に起こったこともかなり自分でも衝撃だったけど、過ぎ去れば忘れてしまった。
私の何が気に入らなかったのか、そういうのは自分ではわからない。
私も気に入らない奴はたくさんいたし、口を閉ざしてひたすら黙って目つきだけは鋭くなって知らないところでひっそりと睨んでいた。陰で呪ってたのだ。
憤った気持ちがそうせざるを得なかったし、まだ感情的に精一杯の抵抗でもあった。とっても気弱で陰険だったけど。
中学時代はなかったことにしたいほど暗かった。
時も過ぎ、中学卒業とともに意地悪な奴らから離れられると落ち着いた。
高校生になってあまり私の事を知らない人と知り合って仲良くなったことで、自分も明るく振舞えるようになった。
それなりに楽しく過ごしていたのに、自分ではどうすることもできない世界の問題に今は巻き込まれている。
得体の知れないものは残酷な何かを滑り込ませている。まだ今は訳がわかっていない序章なのだろうけど、いつかこんな状況も終わると信じていた。
気持ちだけでも明るくありたい。でもKストアの近くに来て、すぐさま簡単に絶望した。
お母さんが耳にするような情報はその辺の人にも広がって、お母さんの耳に届いた時点ですでに手遅れだ。店の前に並んだ行列を見て、すでに私の中では不可能という言葉で埋め尽くされた。
世間はこんなにもマスクを求めている。考える事はみんな一緒だった。そんな列に並ぶ気もせず、私はあっさりと諦めてそこを後にした。
折角外に出てきたのだから、その辺をぶらつくのもいいし、買うあてもないけど店に入って暇をもてあそぶのもいいかもしれない。ずっと家に篭りっぱなしで、自粛に飽き飽きしていたときだった。
もし知ってるクラスメートに会ったら、ファストフード店に一緒に入ろうって誘って何かを食べたいな。
それとも久しぶりって気軽に向こうから誘ってもらうとかもいい。ちょっと憧れている男の子を想像して、ひとりで空想してしまう。
そんなこと絶対に起こらないし、第一、声を掛けてくれるような男子なんて私の周りにはいない。自ら異性と気軽に話せるほど私は積極的じゃないし、話しかけにくい垢抜けしない女の子だと自分でも感じている。
それなのに、女子高生としては少女漫画のような出会いを夢にみて、漫画を読めば胸キュンと乙女心を抱いていた。
年頃になればちょっとボーイフレンドが欲しいなんて思ってしまうのは、当たり前の感情だけど、そう思っていても行動できず、例え好きな人が出来たとしても、きっと何も出来ないのが自分だった。
周りはマスクをしている人を多く見かける。花粉症なのか、それともウィルスを意識してのことなのか、それが交じり合っているけど、私はまだこの時マスクをしてなかった。
ぼんやりと歩いているその時、雑居ビルの路地の間で猫が座って顔を洗っていた。茶色のキジトラと呼ばれるどこにでもいるような猫だった。
誰かに飼われているのか、野良猫なのか、ちゃんとごはん食べてるのかなと思うと、ほっとけない感情がでてくる。昔から猫を見るといつもこんな調子だった。
餌をあげたいけど何ももってないし、あげてもそれは猫のためにもならない無責任だから、近所の人には怒られるし、だから心を鬼にして放っておくしかない。
でも目の前にかわいい生き物がいて、前足を一生懸命舐めて顔を拭き拭きし、次に耳のうしろまで手が動くと、耳が押さえられてぴょんとまた立つのが繰り返されて見入ってしまう。
立ち止まってみていたら、猫も私に気がついてふと手の動きが止まった。じっとこちらをみて、緊張したように様子を窺っている。
「大丈夫だよ。怖がらなくてもいいよ」
もしかしたら撫でさせてくれるかもしれない。
そっと徐々にのっそりと近づく。
黄色か黄緑かはっきりしない交じり合った色の丸い目で私を捉えると、猫の体がピリッとした緊張に包まれてさっきより低い姿勢になった。でもまだ逃げる様子がない、それでいてギリギリの攻防。
そうして手を伸ばせば届く範囲まできて、触れると思ったのに、そこで猫はスタスタスタと路地の奥へと走っていく。でもすぐに止まって後ろを振り向く。
「やっぱり逃げられたか。あれ、でもなんか変」
ふと違和感を覚え、私はよく見ようと猫にまた近づいた。
今度もすぐに逃げようとせず、猫はギリギリまで私を見ていて、どうすべきか思案している様子だった。
だけど近づいてやっぱり手を伸ばすと、嫌がるように低い姿勢になって、気がついたらすばしっこく、さらに奥へと逃げた。
路地は薄暗くて猫の色がはっきり見えない。それがどんどんと違和感が大きくなって、私はまた性懲りもなく追いかけた。
最初見たときは茶色いキジトラだったのに、次は銀色のキジトラに見えて、今はなんかシャムネコが混じったキジトラに見える。
基本はキジトラなのだけれど、色が変化して定まらない。光の加減でそう見えるのかもしれない。
建物の間に挟まれた路地はしっとりと濡れた暗さがあって、ひんやりとしている。
猫の通り道、また知る人が知る近道、今は人通りがなくて寂れた雰囲気が少し不安にさせた。
猫はさらなる奥へと進み、その先は路地とはコントラストに明るい光がまぶしく見えた。人通りがあって、左右から行き交う人が見える。
あそこは何があったっけ。
気がつけば猫はさっさとその明るい方向に向かって光に包まれたように消えていった。私もそれに続いて、そこへ入り込んだ。
そこはアーケードが頭上に長く続く商店街だった。
「おっと、危ないぞ」
辺りに気を取られていて、商店街に入ったとたん自転車にぶつかりそうになってよたついた。
「すみません」
慌てて謝ったけど、自転車に乗った人は気にせず走り去った。それを目で追って商店街の全体をみていると、桜の造花が間隔をあけて通りの両端にずらっと飾られている。桜祭りと書かれた幟《のぼり》も同じように添えられて、春らしい賑やかな演出がされていた。
私が踏み入れたところは商店街の中間地点になっていた。左右交互に見れば端から端までざっと百メートルくらいの長さがありそうだ。感覚で捉えたから、もしかしたらそれ以上かもしれないし、それ以下の長さかもしれない。
店も所々閉まってシャッターが下りてるのもあるけど、開いている店の方が多かったから賑やかに色んな店が集まっていた。
そういえば猫はどこにいったのだろう。キョロキョロとしていたとき、私の向かい側でも男の子がキョロキョロと辺りを見回していた。あっち側にも路地があ り、私と同じようにそこから抜け出てきたみたいだ。見たところ同い年くらいの高校生だろう。気弱そうでなよっとしていたけど、優しそうな雰囲気がする。あ まり目立たない風貌が私と同じレベルに属する、そんなクラス分けを無意識にしていた。
あまりじろじろと私が見ていたから、男の子も私の視線に気がついた。その後ハッとしたように目を見開いた。
凝視する男の子の眼差し。一度目が合うと、ぎこちなく目を逸らすのもなんだかわざとらしくて、変に意識してしまう。
モジモジとしながら、目が合ったからという理由で元来た路地を慌てて戻るのもかっこ悪いような、それでいて咄嗟に動けないでいたら、向こうからひょっこひょこと通る人を避けながら近づいて来た。それに釘付けになって私はしっかりとその男の子を見てしまった。
私の近くまで来たとき、口をパクパクしながらも突然ボリュームを上げたように大きな声が聞こえた。
「あの、その、僕、あのっ!」
かなり勇気を出して声をかけてきたのだろう。モジモジしながらもはっきりと力を込めて踏ん張っている。
何を言おうとしているのか、こっちも気になって私も流されるままに男の子を見ていた。
「えっと、その、僕、澤田隼八《さわだしゅんや》といいます。突然声かけてごめんなさい。でも知ってる人にあまりにも似ていて、そのつい無視できなくて」
「は、はい?」
どうリアクションしていいのかわからなかった。私にそっくりな人がいる。それは私に声を掛ける咄嗟の嘘の言い分けのようにも聞こえた。
「そ、そうですか。それで、私は誰に似てるんですか?」
似てる人がいるのなら私も会ってみたい。
「その、誰って言われても、えっと、名前も分からない人なんですけど」
「名前も分からない人? それなのに知ってる人?」
「はい。それはその」
急に下向いて、さらに言いにくそうに躊躇っていた。
また顔を上げたとき、真剣な眼差しで言った。
「僕の初恋だった人なんです」
その後、目を逸らし恥ずかしそうにしている。
「えっと、澤田君だっけ」
「は、はい」
また顔を上げて様子を窺うようにおどおどと私を見ていた。
もしかして、それが回りまわって私、本人ってことなのかもとこの状況にドキドキしてしまう。
「その初恋だけど、それいつの話?」
「中学の時……時々見かけた女の子で、偶然バス停で同じになって。声をかけようとしたんだけど」
そこで澤田君は黙った。
きっと通学途中でその子に声を掛けられなくて、それで終わってしまった恋だったのだろう。
私は中学の時は家から通える徒歩通学だったから、バスに乗って学校と家を行き来した事はなかった。
出会いなんてなかったし、男の子に好かれて誰かに見られているなんて考えたこともなかった。嫌われて虐められていたから、こんな純情な男の子が惚れる私に似た女の子が羨ましい。
初恋の女の子に似た私。そんなに悪い気もしない。私の口元が緩んだ。
「その時は声を掛けられなかったけど、今は私に声を掛けてきたんだ。あの時の思いの再現をしようとしてかな?」
弱みを握った優越感とでもいうのか、私らしからぬ言動だ。それともこの不思議な状況が楽しくて調子に乗っただけなのかもしれない。澤田君はどこか弱々しくて自分の方が優位にいるような気分にさせた。
澤田君ははにかんで「エヘヘ」と笑って誤魔化している。初めて会ったけど、親しみがもててそれが可愛く思えた。
「いや、そういうことでもないんだけど、えっと君を見ると声をかけずにはいられなくて」
「栗原智世」
「えっ?」
「私の名前」
「クリハラトモヨ……さん?」
よろしくねっと言う変わりに私は微笑んだ。これでもかなり大胆に見知らぬ男の子の前で振舞っている。だけどそれがワクワクとして楽しい。
「ところで、ここで何を探してたの?」
澤田君は思い出したようにキョロキョロとして辺りを見まわす。
「ええっと、その猫がいて」
私が触ろうとしていた猫のことかもしれない。
「澤田君もキジトラの猫を見たんだ」
「えっ、キジトラ? そんなんじゃなかったな。僕が見たのは黒猫だったかな」
「黒猫? それじゃこの辺りはきっと地域猫がいっぱいいるんだろうね。私もキジトラの猫を見かけて触ろうとして逃げられて、それで追っかけてきたの」
間違ってはいないんだけど、本当は見る度に色が違って見えたからはっきりと見ようと思ったところでずるずるとここまで来てしまった。そんなことを説明しなくてもいいと適当に言ったけど、澤田君も浮かない顔をしながら呟いた。
「最初は黒色だと思ったんだけど、よく見たらロシアンブルーみたいにも見えて、またよく見たら、こげ茶っぽい色にも見えたんだ。だからはっきりと色が分からなくて」
私と同じ現象だ。薄暗い場所や、光の加減で猫の毛並みの色が不確かになるのかもしれないと、自分の中で結論つけたときだった。不意に辺りを見回した。
「あれ?」
つい声にでてしまった。
「どうしたの?」
澤田君が首を少し傾げる。
「急に人がいなくなった」
澤田君に気を取られていたから周りを気にしなかったけど、ふと視線を動かした時、違和感が生じた。
確かにまばらではあったけど、この商店街の中には結構な数の人が思い思いに歩いていたはずだ。自転車だって通っていたし、地元の人にとったらここは駅へと抜ける通り道でもある。だから急に周りに人がいなくなることはありえない。
澤田君も辺りを見回して、「ほんとだ」と不思議がっていた。
「こんな偶然ってあるんだね」
暢気に言っていたけど、商店街の両端から一向に人がやってこないことが私には何か意図されて起こっているように思えた。
急に道が塞がれたとか、一時的な規制があったとか、誰かが故意にそう仕向けなければ起きない、こんな偶然。
近くの店を覗いてみた。一瞬人が居るように見えたけど、それらはマネキンで、そこは婦人服を販売している店だった。
年配のおばさんが好みそうな地味な色合いの服が並び、お店の中も全体的に薄暗い。店主は奥にいるのかもしれないが、商品が展示されている入り口付近からは中まではっきりと見えなかった。
またその隣の和菓子屋さんを覗けば、商品は展示されてショーケースに入っているけど、店員がひとりもいない。呼び鈴が置いてあったので、それを押せば出 てくるのかもしれないが、和菓子を買うつもりもないので、万が一店員さんがでてきたらと思うと試すこともできなかった。それでも疑問が拭えない。
「やっぱりなんかおかしい」
私が呟くと、澤田君は隣に来て中を覗き込む。
「お菓子屋さんだけにお菓子《かし》い?」
ジョークのつもりなんだろう。でも寒かった。
私が真顔でいると、澤田君は気まずそうにシュンと縮こまった。あまり考えずにすぐ口にしてしまうのだろうか。いや、駄洒落は考えなければ咄嗟に出てこない。親しみを込めて、私なら受けるかもと思ったのかもしれない。こういう場合はどう接すればいいのだろう。
「うん、お菓子《かし》いの、やっぱり人がいない」
精一杯気を遣って答えたけど、ダジャレを言ったことに気がついてもらえなかった。澤田君は店の中を見ていた。
「ここの和菓子、美味しそうだね」
澤田君はまだ真剣に受け止めてない。
絶対に何かがおかしい。振り返った反対側の店舗が大きめのお肉屋さんも店員が全くいない。店内は明るくてショーケースに入ったお肉の赤色がやけに目立っていた。左右何度も確認しても通行人が一向に現れなかった。
「急に人が消えたみたい」
「まさか。じゃあ、僕が確かめるよ」
澤田君は果敢にも和菓子屋さんの中に入ろうとしたその時、ゴーンと鈍い音が響いた。
「いたたたた。なんだ? 何かに当たった」
澤田君は頭を押さえたあと、ぶつかったのが何であったのか探ろうと手を伸ばした。
そこには何もないのに、まるで透明なガラスに手をあてたようにそれから先へはどうしても行けない仕草をしている。
澤田君は信じられないというように辺りをペタペタしつこく触っていた。まるでそれはパントマイムをみているようだ。駄洒落をいうくらいだ。これも何かのギャグだろうか。こんな時に馬鹿な事をしなくてもとイラッとした。
「もう、何をしてるの?」
澤田君の態度に呆れて、私が和菓子屋に入ろうと一歩前に繰り出したとき、ゴンと何かにぶつかった。
「えっ、いたっ。なに、ガラスのドアがあるの?」
目では何も見えない、そこはオープンに店の端から端まで開いているようなスペースだ。ドアなんてどこにもないのに、手を伸ばせば前にはガラスのようなものがあった。ただそれが全く見えない。
私たちは何度も手のひらで確認していた。
それは世間で騒がれている新型コロナのせいで春休み前に休校となり、二〇二〇年の新学期がいつから始まるのかわからなくなった高校二年生になる前の春のことだ。
見えないものに怯える不穏な日々。でも周りを見れば普段と変わらない景色が続く。
空は晴れ晴れとして柔らかな雲がゆったりと流れて、そこにある自然は何も変わらなかった。
ぽかぽかとした気温。春の色が濃くなってほんわかするはずだった。なのに、訳もわからず不安を植えつけられてしまった。
手を洗え、消毒しろと、人の集まるところにいくな、人との距離をとれ、と指図される事が多くなった。
こんなのって窮屈だ。その一方でまだ今の状況を真剣に受け止めていない自分もいる。
春はマスクをする人が多いとは思っていたけど、それは花粉症が主な理由だった。だけど今、普通の人もマスクを求めている。そしてどこも売り切れて探すのが困難だ。
「智ちゃん、悪いんだけどKストアでマスク入荷する予定なんだって。ちょっと買ってきて」
「やだ、お母さんが行けばいいじゃない」
「私はもうちょっと先のドラッグストアに行ってくるからさ、こういうのは分散して買いに行けばいいでしょ。ねえ、福ちゃんもそう思うよね」
母は足元で餌をねだっている猫に同意を求めていた。
あっさりと言ってくれるけど、本当はマスクが売ってる保障はない。手に入ればそれだけでラッキーなことになる。家には多少のマスクの予備があっても、それだけでは十分じゃないとみんな同じ考えを持っていて、世間はマスクの取り合いになっていた。
なんでこんなことになったのだろう。
でも風邪なんかで死にたくないし、マスクで被害が抑えられるのならすがるしかない。お母さんからお金を受け取り、私はピンクのパーカーを手に取って玄関に向かった。
少し大きめでだぼっとしたパーカー。すっぽりと体を包んでくれる私のお気に入り。白いスキニーパンツとよく合う。
外は日差しがあってぽかぽかしているけど、風が冷たくて日陰になるとまだ寒く感じる。パーカーを頭から被ってもごもごと袖を通しながら外に出た。
隣の家の桜の木が目に入る。所々で花が咲き出している。花びらは薄っすらとピンク色。私のパーカーもピンクだから自分も桜になったように少しだけ可愛いんじゃないかって自惚れた。いいよね、自分で思うだけだから。
お母さんは私のこと『智《とも》ちゃん』と呼ぶけれど、私はみんなから『栗《くり》ちゃん』と呼ばれることの方が多い。名前が栗原智世《くりはらともよ》だからだ。
生まれつき色素が薄いのか、髪も目も茶色っぽく、それが原因で訳もなく中学の時は虐められた。付いた渾名《あだな》がイガグリだった。それが私を侮辱する唯一の変な名前だとみんなが思ったのだろう。
最初は名前をもじってからかうだけだったのが、私が我慢してヘラヘラしているうちに、そんな態度が気持ち悪いなんていう子がでてきた。あの時は必ず誰か がクラスで犠牲になってターゲットにされていたから、その時の気の強い人の気分で意地悪がエスカレートして周りに伝播していった。
その時は辛かったけど、ある時を基準にピタッと止んだから気にしないことにした。まあ、その時に起こったこともかなり自分でも衝撃だったけど、過ぎ去れば忘れてしまった。
私の何が気に入らなかったのか、そういうのは自分ではわからない。
私も気に入らない奴はたくさんいたし、口を閉ざしてひたすら黙って目つきだけは鋭くなって知らないところでひっそりと睨んでいた。陰で呪ってたのだ。
憤った気持ちがそうせざるを得なかったし、まだ感情的に精一杯の抵抗でもあった。とっても気弱で陰険だったけど。
中学時代はなかったことにしたいほど暗かった。
時も過ぎ、中学卒業とともに意地悪な奴らから離れられると落ち着いた。
高校生になってあまり私の事を知らない人と知り合って仲良くなったことで、自分も明るく振舞えるようになった。
それなりに楽しく過ごしていたのに、自分ではどうすることもできない世界の問題に今は巻き込まれている。
得体の知れないものは残酷な何かを滑り込ませている。まだ今は訳がわかっていない序章なのだろうけど、いつかこんな状況も終わると信じていた。
気持ちだけでも明るくありたい。でもKストアの近くに来て、すぐさま簡単に絶望した。
お母さんが耳にするような情報はその辺の人にも広がって、お母さんの耳に届いた時点ですでに手遅れだ。店の前に並んだ行列を見て、すでに私の中では不可能という言葉で埋め尽くされた。
世間はこんなにもマスクを求めている。考える事はみんな一緒だった。そんな列に並ぶ気もせず、私はあっさりと諦めてそこを後にした。
折角外に出てきたのだから、その辺をぶらつくのもいいし、買うあてもないけど店に入って暇をもてあそぶのもいいかもしれない。ずっと家に篭りっぱなしで、自粛に飽き飽きしていたときだった。
もし知ってるクラスメートに会ったら、ファストフード店に一緒に入ろうって誘って何かを食べたいな。
それとも久しぶりって気軽に向こうから誘ってもらうとかもいい。ちょっと憧れている男の子を想像して、ひとりで空想してしまう。
そんなこと絶対に起こらないし、第一、声を掛けてくれるような男子なんて私の周りにはいない。自ら異性と気軽に話せるほど私は積極的じゃないし、話しかけにくい垢抜けしない女の子だと自分でも感じている。
それなのに、女子高生としては少女漫画のような出会いを夢にみて、漫画を読めば胸キュンと乙女心を抱いていた。
年頃になればちょっとボーイフレンドが欲しいなんて思ってしまうのは、当たり前の感情だけど、そう思っていても行動できず、例え好きな人が出来たとしても、きっと何も出来ないのが自分だった。
周りはマスクをしている人を多く見かける。花粉症なのか、それともウィルスを意識してのことなのか、それが交じり合っているけど、私はまだこの時マスクをしてなかった。
ぼんやりと歩いているその時、雑居ビルの路地の間で猫が座って顔を洗っていた。茶色のキジトラと呼ばれるどこにでもいるような猫だった。
誰かに飼われているのか、野良猫なのか、ちゃんとごはん食べてるのかなと思うと、ほっとけない感情がでてくる。昔から猫を見るといつもこんな調子だった。
餌をあげたいけど何ももってないし、あげてもそれは猫のためにもならない無責任だから、近所の人には怒られるし、だから心を鬼にして放っておくしかない。
でも目の前にかわいい生き物がいて、前足を一生懸命舐めて顔を拭き拭きし、次に耳のうしろまで手が動くと、耳が押さえられてぴょんとまた立つのが繰り返されて見入ってしまう。
立ち止まってみていたら、猫も私に気がついてふと手の動きが止まった。じっとこちらをみて、緊張したように様子を窺っている。
「大丈夫だよ。怖がらなくてもいいよ」
もしかしたら撫でさせてくれるかもしれない。
そっと徐々にのっそりと近づく。
黄色か黄緑かはっきりしない交じり合った色の丸い目で私を捉えると、猫の体がピリッとした緊張に包まれてさっきより低い姿勢になった。でもまだ逃げる様子がない、それでいてギリギリの攻防。
そうして手を伸ばせば届く範囲まできて、触れると思ったのに、そこで猫はスタスタスタと路地の奥へと走っていく。でもすぐに止まって後ろを振り向く。
「やっぱり逃げられたか。あれ、でもなんか変」
ふと違和感を覚え、私はよく見ようと猫にまた近づいた。
今度もすぐに逃げようとせず、猫はギリギリまで私を見ていて、どうすべきか思案している様子だった。
だけど近づいてやっぱり手を伸ばすと、嫌がるように低い姿勢になって、気がついたらすばしっこく、さらに奥へと逃げた。
路地は薄暗くて猫の色がはっきり見えない。それがどんどんと違和感が大きくなって、私はまた性懲りもなく追いかけた。
最初見たときは茶色いキジトラだったのに、次は銀色のキジトラに見えて、今はなんかシャムネコが混じったキジトラに見える。
基本はキジトラなのだけれど、色が変化して定まらない。光の加減でそう見えるのかもしれない。
建物の間に挟まれた路地はしっとりと濡れた暗さがあって、ひんやりとしている。
猫の通り道、また知る人が知る近道、今は人通りがなくて寂れた雰囲気が少し不安にさせた。
猫はさらなる奥へと進み、その先は路地とはコントラストに明るい光がまぶしく見えた。人通りがあって、左右から行き交う人が見える。
あそこは何があったっけ。
気がつけば猫はさっさとその明るい方向に向かって光に包まれたように消えていった。私もそれに続いて、そこへ入り込んだ。
そこはアーケードが頭上に長く続く商店街だった。
「おっと、危ないぞ」
辺りに気を取られていて、商店街に入ったとたん自転車にぶつかりそうになってよたついた。
「すみません」
慌てて謝ったけど、自転車に乗った人は気にせず走り去った。それを目で追って商店街の全体をみていると、桜の造花が間隔をあけて通りの両端にずらっと飾られている。桜祭りと書かれた幟《のぼり》も同じように添えられて、春らしい賑やかな演出がされていた。
私が踏み入れたところは商店街の中間地点になっていた。左右交互に見れば端から端までざっと百メートルくらいの長さがありそうだ。感覚で捉えたから、もしかしたらそれ以上かもしれないし、それ以下の長さかもしれない。
店も所々閉まってシャッターが下りてるのもあるけど、開いている店の方が多かったから賑やかに色んな店が集まっていた。
そういえば猫はどこにいったのだろう。キョロキョロとしていたとき、私の向かい側でも男の子がキョロキョロと辺りを見回していた。あっち側にも路地があ り、私と同じようにそこから抜け出てきたみたいだ。見たところ同い年くらいの高校生だろう。気弱そうでなよっとしていたけど、優しそうな雰囲気がする。あ まり目立たない風貌が私と同じレベルに属する、そんなクラス分けを無意識にしていた。
あまりじろじろと私が見ていたから、男の子も私の視線に気がついた。その後ハッとしたように目を見開いた。
凝視する男の子の眼差し。一度目が合うと、ぎこちなく目を逸らすのもなんだかわざとらしくて、変に意識してしまう。
モジモジとしながら、目が合ったからという理由で元来た路地を慌てて戻るのもかっこ悪いような、それでいて咄嗟に動けないでいたら、向こうからひょっこひょこと通る人を避けながら近づいて来た。それに釘付けになって私はしっかりとその男の子を見てしまった。
私の近くまで来たとき、口をパクパクしながらも突然ボリュームを上げたように大きな声が聞こえた。
「あの、その、僕、あのっ!」
かなり勇気を出して声をかけてきたのだろう。モジモジしながらもはっきりと力を込めて踏ん張っている。
何を言おうとしているのか、こっちも気になって私も流されるままに男の子を見ていた。
「えっと、その、僕、澤田隼八《さわだしゅんや》といいます。突然声かけてごめんなさい。でも知ってる人にあまりにも似ていて、そのつい無視できなくて」
「は、はい?」
どうリアクションしていいのかわからなかった。私にそっくりな人がいる。それは私に声を掛ける咄嗟の嘘の言い分けのようにも聞こえた。
「そ、そうですか。それで、私は誰に似てるんですか?」
似てる人がいるのなら私も会ってみたい。
「その、誰って言われても、えっと、名前も分からない人なんですけど」
「名前も分からない人? それなのに知ってる人?」
「はい。それはその」
急に下向いて、さらに言いにくそうに躊躇っていた。
また顔を上げたとき、真剣な眼差しで言った。
「僕の初恋だった人なんです」
その後、目を逸らし恥ずかしそうにしている。
「えっと、澤田君だっけ」
「は、はい」
また顔を上げて様子を窺うようにおどおどと私を見ていた。
もしかして、それが回りまわって私、本人ってことなのかもとこの状況にドキドキしてしまう。
「その初恋だけど、それいつの話?」
「中学の時……時々見かけた女の子で、偶然バス停で同じになって。声をかけようとしたんだけど」
そこで澤田君は黙った。
きっと通学途中でその子に声を掛けられなくて、それで終わってしまった恋だったのだろう。
私は中学の時は家から通える徒歩通学だったから、バスに乗って学校と家を行き来した事はなかった。
出会いなんてなかったし、男の子に好かれて誰かに見られているなんて考えたこともなかった。嫌われて虐められていたから、こんな純情な男の子が惚れる私に似た女の子が羨ましい。
初恋の女の子に似た私。そんなに悪い気もしない。私の口元が緩んだ。
「その時は声を掛けられなかったけど、今は私に声を掛けてきたんだ。あの時の思いの再現をしようとしてかな?」
弱みを握った優越感とでもいうのか、私らしからぬ言動だ。それともこの不思議な状況が楽しくて調子に乗っただけなのかもしれない。澤田君はどこか弱々しくて自分の方が優位にいるような気分にさせた。
澤田君ははにかんで「エヘヘ」と笑って誤魔化している。初めて会ったけど、親しみがもててそれが可愛く思えた。
「いや、そういうことでもないんだけど、えっと君を見ると声をかけずにはいられなくて」
「栗原智世」
「えっ?」
「私の名前」
「クリハラトモヨ……さん?」
よろしくねっと言う変わりに私は微笑んだ。これでもかなり大胆に見知らぬ男の子の前で振舞っている。だけどそれがワクワクとして楽しい。
「ところで、ここで何を探してたの?」
澤田君は思い出したようにキョロキョロとして辺りを見まわす。
「ええっと、その猫がいて」
私が触ろうとしていた猫のことかもしれない。
「澤田君もキジトラの猫を見たんだ」
「えっ、キジトラ? そんなんじゃなかったな。僕が見たのは黒猫だったかな」
「黒猫? それじゃこの辺りはきっと地域猫がいっぱいいるんだろうね。私もキジトラの猫を見かけて触ろうとして逃げられて、それで追っかけてきたの」
間違ってはいないんだけど、本当は見る度に色が違って見えたからはっきりと見ようと思ったところでずるずるとここまで来てしまった。そんなことを説明しなくてもいいと適当に言ったけど、澤田君も浮かない顔をしながら呟いた。
「最初は黒色だと思ったんだけど、よく見たらロシアンブルーみたいにも見えて、またよく見たら、こげ茶っぽい色にも見えたんだ。だからはっきりと色が分からなくて」
私と同じ現象だ。薄暗い場所や、光の加減で猫の毛並みの色が不確かになるのかもしれないと、自分の中で結論つけたときだった。不意に辺りを見回した。
「あれ?」
つい声にでてしまった。
「どうしたの?」
澤田君が首を少し傾げる。
「急に人がいなくなった」
澤田君に気を取られていたから周りを気にしなかったけど、ふと視線を動かした時、違和感が生じた。
確かにまばらではあったけど、この商店街の中には結構な数の人が思い思いに歩いていたはずだ。自転車だって通っていたし、地元の人にとったらここは駅へと抜ける通り道でもある。だから急に周りに人がいなくなることはありえない。
澤田君も辺りを見回して、「ほんとだ」と不思議がっていた。
「こんな偶然ってあるんだね」
暢気に言っていたけど、商店街の両端から一向に人がやってこないことが私には何か意図されて起こっているように思えた。
急に道が塞がれたとか、一時的な規制があったとか、誰かが故意にそう仕向けなければ起きない、こんな偶然。
近くの店を覗いてみた。一瞬人が居るように見えたけど、それらはマネキンで、そこは婦人服を販売している店だった。
年配のおばさんが好みそうな地味な色合いの服が並び、お店の中も全体的に薄暗い。店主は奥にいるのかもしれないが、商品が展示されている入り口付近からは中まではっきりと見えなかった。
またその隣の和菓子屋さんを覗けば、商品は展示されてショーケースに入っているけど、店員がひとりもいない。呼び鈴が置いてあったので、それを押せば出 てくるのかもしれないが、和菓子を買うつもりもないので、万が一店員さんがでてきたらと思うと試すこともできなかった。それでも疑問が拭えない。
「やっぱりなんかおかしい」
私が呟くと、澤田君は隣に来て中を覗き込む。
「お菓子屋さんだけにお菓子《かし》い?」
ジョークのつもりなんだろう。でも寒かった。
私が真顔でいると、澤田君は気まずそうにシュンと縮こまった。あまり考えずにすぐ口にしてしまうのだろうか。いや、駄洒落は考えなければ咄嗟に出てこない。親しみを込めて、私なら受けるかもと思ったのかもしれない。こういう場合はどう接すればいいのだろう。
「うん、お菓子《かし》いの、やっぱり人がいない」
精一杯気を遣って答えたけど、ダジャレを言ったことに気がついてもらえなかった。澤田君は店の中を見ていた。
「ここの和菓子、美味しそうだね」
澤田君はまだ真剣に受け止めてない。
絶対に何かがおかしい。振り返った反対側の店舗が大きめのお肉屋さんも店員が全くいない。店内は明るくてショーケースに入ったお肉の赤色がやけに目立っていた。左右何度も確認しても通行人が一向に現れなかった。
「急に人が消えたみたい」
「まさか。じゃあ、僕が確かめるよ」
澤田君は果敢にも和菓子屋さんの中に入ろうとしたその時、ゴーンと鈍い音が響いた。
「いたたたた。なんだ? 何かに当たった」
澤田君は頭を押さえたあと、ぶつかったのが何であったのか探ろうと手を伸ばした。
そこには何もないのに、まるで透明なガラスに手をあてたようにそれから先へはどうしても行けない仕草をしている。
澤田君は信じられないというように辺りをペタペタしつこく触っていた。まるでそれはパントマイムをみているようだ。駄洒落をいうくらいだ。これも何かのギャグだろうか。こんな時に馬鹿な事をしなくてもとイラッとした。
「もう、何をしてるの?」
澤田君の態度に呆れて、私が和菓子屋に入ろうと一歩前に繰り出したとき、ゴンと何かにぶつかった。
「えっ、いたっ。なに、ガラスのドアがあるの?」
目では何も見えない、そこはオープンに店の端から端まで開いているようなスペースだ。ドアなんてどこにもないのに、手を伸ばせば前にはガラスのようなものがあった。ただそれが全く見えない。
私たちは何度も手のひらで確認していた。