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◇澤田隼八の時間軸
女の子を突き飛ばしたなんていったら、酷い奴といわれるのだろうけど、あの時はそうしないと栗原さんは僕から離れようとしなかった。
僕は栗原さんを元の場所に返した後、反対側の路地へと急いで走った。
白い壁が両端から迫ってきている。走る場所も狭まって、最後は体を挟まれそうになりながらギリギリのところ、危機一髪ですり抜けて元来た路地に飛び込んだ。
勢いあまって地面に転がったとき、後ろで眩い光が炸裂した。
振り返ったときには弾け飛んだように光が消えていたが、その代わり商店街への入り口が再び現れていた。
僕は右足を庇いながら立ち上がり、こけた拍子に打った節々の痛さを感じながら、商店街の中を覗いた。
そこは人々が行き交い、夕方の買い物客や駅から家路に向かう通勤帰りの人たちが通り抜けをして歩いていた。
栗原さんはちゃんと元の世界に戻れたのだろうか。僕が向かい側を見たとき、そこには薄暗い路地の入り口が黒く色を塗ったように奥が見えなくなっていた。
誰かがその路地からやってくる――。
一瞬ドキッとしたけど、それは全く知らない中年の女性だった。僕がじっとみていたから、視線に気がついて目があった。それが不快感だったのか、ふんとすまして去っていった。
僕が今こうやって確かめているように、栗原さんも今あそこからこっちを見ているのかもしれない。
「あ、そうだ」
僕はスマホをジャケットのポケットから取り出した。そして栗原さんと写った画像を見て、僕の心臓は激しく高鳴った。
ああ、栗原さんだ。笑ってる。
約束したとおり、僕は教えてもらったアドレスにその画像を送る。もしかしたら奇跡が起こって届くかもしれない。そんな期待を込めて送信ボタンを押した。
その後、そのメールはエラーの知らせもなく戻ってくることはなかった。無事届いたのだろうか。
返事を期待していたが、いくら待っても何の反応も返ってこなかった。
辺りはすっかり日暮れ、温度がかなり下がっているのを感じる。ジャケットのジッパーを閉めて左右のポケットに手を突っ込んで帰ろうとしたとき、焼肉の匂いに一瞬動きが止まった。
匂いの方に視線を向ければ、焼肉屋の店の前には僕が置いた椅子がふたつそのままくっついて並んでいた。そんなものを今更見ても仕方ないと、僕は振り切って家路についた。
感傷に浸っていても何も始まらない。栗原さんは遠いところに行ってここには戻ってこない。でも事故に遭わずに生きていた。僕はそれでいいと思った。いや、思い込もうとしていた。
でも会うことができないと思うと、胸の奥がぐっと掴まれるように苦しくなった。
◇栗原智世の時間軸
辺りは暗く、冷え込んできた寒さで体がぶるっと震える。お腹が空き切って体もだるい。俯き加減にダラダラ歩きながらやっとの思いで家にたどり着いた。
ドアを開け、ただいまの代わりに、まずはため息が出てしまう。玄関先に母がスリッパのパタパタする音を立ててやってきた。
「智ちゃん、一体どこに行ってたの。連絡もないから心配したのよ。それでマスク買えた?」
そうだマスク。そんなことすっかり忘れてた。私は首を横に振る。
「もしかして、遠くまで行ってかなり探し回ってくれたの? お母さんもね、やっぱり手に入らなかったのよ。もう、ほんと困ったわ。まあいいわ。さあ、とにかくまずは手を洗ってきてよ。すぐご飯にしよう」
そういって家の奥へと入っていく。
何も知らないとはいえ、能天気なお母さんの態度が鼻につく。
世間がどんな状態であろうと、今の私にはどうでもいいことに感じる。たとえそこに危険があったとしても、この喪失感が全てを跳ね除けていた。
あれだけお腹が空いていたというのに、食欲すら湧かない。感覚が麻痺して足が地についているかさえおぼろげだ。何をどう考えたらわからないほど、自分の周りがぐにゃぐにゃして見ているものが本当に正しいのかすら自信が持てない。
洗面所で手を荒い、鏡に映る自分を見れば、その鏡の中にすら別の世界があるように思えた。
果たして今自分が居る場所は現実なのだろうか。
疲れきった顔をしている私。口角を無理に上げてみる。頬の筋肉を指で持ち上げ、歯だけ見せても笑っている風には見えなかった。
「でもこういうときこそ笑うべきなんだよね、澤田君」
名前を呟くとじわっと目が熱くなって、視界がぼやける。おぼろげにみる悲しげな自分の顔。もっていきようのない気持ちに泣き崩れそうになっていると、足元で福が頭をぶつけてすりすりしてきた。そこではっとした。
「福ちゃん。もしかしたら澤田君に餌もらったことあるんじゃないの」
猫を抱き上げ、顔を合わせる。澤田君との唯一の接点。間接に澤田君を感じたかったのに、福はじっと見つめる私の目がいやで逸らしていた。そのうちクネク ネと体を動かして、ニャーと不機嫌に鳴いて本気で嫌がりだす。仕方ないので下ろしてやった。そのとたん、私を見捨ててすばしっこく去っていった。
「福ちゃんのバカ」
つい八つ当たりしてしまった。そして無性に泣けてきた。
◇澤田隼八の時間軸
女の子を突き飛ばしたなんていったら、酷い奴といわれるのだろうけど、あの時はそうしないと栗原さんは僕から離れようとしなかった。
僕は栗原さんを元の場所に返した後、反対側の路地へと急いで走った。
白い壁が両端から迫ってきている。走る場所も狭まって、最後は体を挟まれそうになりながらギリギリのところ、危機一髪ですり抜けて元来た路地に飛び込んだ。
勢いあまって地面に転がったとき、後ろで眩い光が炸裂した。
振り返ったときには弾け飛んだように光が消えていたが、その代わり商店街への入り口が再び現れていた。
僕は右足を庇いながら立ち上がり、こけた拍子に打った節々の痛さを感じながら、商店街の中を覗いた。
そこは人々が行き交い、夕方の買い物客や駅から家路に向かう通勤帰りの人たちが通り抜けをして歩いていた。
栗原さんはちゃんと元の世界に戻れたのだろうか。僕が向かい側を見たとき、そこには薄暗い路地の入り口が黒く色を塗ったように奥が見えなくなっていた。
誰かがその路地からやってくる――。
一瞬ドキッとしたけど、それは全く知らない中年の女性だった。僕がじっとみていたから、視線に気がついて目があった。それが不快感だったのか、ふんとすまして去っていった。
僕が今こうやって確かめているように、栗原さんも今あそこからこっちを見ているのかもしれない。
「あ、そうだ」
僕はスマホをジャケットのポケットから取り出した。そして栗原さんと写った画像を見て、僕の心臓は激しく高鳴った。
ああ、栗原さんだ。笑ってる。
約束したとおり、僕は教えてもらったアドレスにその画像を送る。もしかしたら奇跡が起こって届くかもしれない。そんな期待を込めて送信ボタンを押した。
その後、そのメールはエラーの知らせもなく戻ってくることはなかった。無事届いたのだろうか。
返事を期待していたが、いくら待っても何の反応も返ってこなかった。
辺りはすっかり日暮れ、温度がかなり下がっているのを感じる。ジャケットのジッパーを閉めて左右のポケットに手を突っ込んで帰ろうとしたとき、焼肉の匂いに一瞬動きが止まった。
匂いの方に視線を向ければ、焼肉屋の店の前には僕が置いた椅子がふたつそのままくっついて並んでいた。そんなものを今更見ても仕方ないと、僕は振り切って家路についた。
感傷に浸っていても何も始まらない。栗原さんは遠いところに行ってここには戻ってこない。でも事故に遭わずに生きていた。僕はそれでいいと思った。いや、思い込もうとしていた。
でも会うことができないと思うと、胸の奥がぐっと掴まれるように苦しくなった。
◇栗原智世の時間軸
辺りは暗く、冷え込んできた寒さで体がぶるっと震える。お腹が空き切って体もだるい。俯き加減にダラダラ歩きながらやっとの思いで家にたどり着いた。
ドアを開け、ただいまの代わりに、まずはため息が出てしまう。玄関先に母がスリッパのパタパタする音を立ててやってきた。
「智ちゃん、一体どこに行ってたの。連絡もないから心配したのよ。それでマスク買えた?」
そうだマスク。そんなことすっかり忘れてた。私は首を横に振る。
「もしかして、遠くまで行ってかなり探し回ってくれたの? お母さんもね、やっぱり手に入らなかったのよ。もう、ほんと困ったわ。まあいいわ。さあ、とにかくまずは手を洗ってきてよ。すぐご飯にしよう」
そういって家の奥へと入っていく。
何も知らないとはいえ、能天気なお母さんの態度が鼻につく。
世間がどんな状態であろうと、今の私にはどうでもいいことに感じる。たとえそこに危険があったとしても、この喪失感が全てを跳ね除けていた。
あれだけお腹が空いていたというのに、食欲すら湧かない。感覚が麻痺して足が地についているかさえおぼろげだ。何をどう考えたらわからないほど、自分の周りがぐにゃぐにゃして見ているものが本当に正しいのかすら自信が持てない。
洗面所で手を荒い、鏡に映る自分を見れば、その鏡の中にすら別の世界があるように思えた。
果たして今自分が居る場所は現実なのだろうか。
疲れきった顔をしている私。口角を無理に上げてみる。頬の筋肉を指で持ち上げ、歯だけ見せても笑っている風には見えなかった。
「でもこういうときこそ笑うべきなんだよね、澤田君」
名前を呟くとじわっと目が熱くなって、視界がぼやける。おぼろげにみる悲しげな自分の顔。もっていきようのない気持ちに泣き崩れそうになっていると、足元で福が頭をぶつけてすりすりしてきた。そこではっとした。
「福ちゃん。もしかしたら澤田君に餌もらったことあるんじゃないの」
猫を抱き上げ、顔を合わせる。澤田君との唯一の接点。間接に澤田君を感じたかったのに、福はじっと見つめる私の目がいやで逸らしていた。そのうちクネク ネと体を動かして、ニャーと不機嫌に鳴いて本気で嫌がりだす。仕方ないので下ろしてやった。そのとたん、私を見捨ててすばしっこく去っていった。
「福ちゃんのバカ」
つい八つ当たりしてしまった。そして無性に泣けてきた。