志貴は8歳までちゃんと両親のいる家庭で育った。父親が刑事で母親が専業主婦の、ごく普通の家庭に。家も他の家庭と変わらない一戸建て。志貴の両親は息子に厳しすぎず、かと言って過保護でもなく、親子仲良く3人で楽しい毎日を過ごしていた。
 しかしある冬の日の昼下がりに、悲劇が起きた。志貴は留守番をしていて、家には他に誰も居なかった。父が母に告白をした記念日ということもあって、2人で食事に出かけていたのだ。幼い志貴はテレビを見ず、母が作ってくれたおにぎりを自分の部屋で食べていた。
 しかし、下の階から物音がした。志貴は物音に気づき、2階から忍び足で下に降りた。リビングには空き巣らしい男の姿があった。短髪で歳は30代半ばぐらい、電力会社の社員と同じブルーの作業着を着ていて、部屋のあらゆるところを物色していた。
 志貴は警察に通報しようと思ったが、リビングに電話があり、通報できる状態ではなかった。男が階段に近づいたので、志貴は2階の奥の部屋、両親の寝室へと向かった。
 ドアからこっそり廊下を覗くと、男が志貴の部屋へと入った。しかし志貴の部屋には、特に金目のなるものが置いていなかった。両親がゲームに関して否定的だったので、殆ど買ってもらっていなかった。
 男がすぐ志貴の部屋から出ると、今度は志貴のいる寝室へと入ってきた。急いでベッドの下に隠れると、男が入ってくるのが見えた。一重まぶたのこの男が、頻りに人が隠れていないか疑うような表情を見せていた。志貴は息を殺し、見つからないように出来る限り震えを抑えていた。
 男が寝室に入ってきた辺りから、外で大きな工事の音が鳴り響いていた。この頃、近くで高層マンションの建設工事が行われていた。特にこの時間帯に音が大きくなり、近くに住む住民が煙たがっていた。そして、この騒音さえ無ければ、志貴の両親が死なずに済んだかもしれないのだ。
 実は男が寝室に入ってきたのとほぼ同時に、両親が帰ってきていた。母が静かにドアを開けたので、志貴も男も気づかなかった。
 本当は夜の9時過ぎに帰ってくる予定だった。恐らく親子3人で夕食を食べに行こうと思って、わざわざ自分のために帰ってきたのだと、志貴はこの頃を思い出すと、いつもこう思うのだ。
 そして、寝室に向かった母が男と遭遇し、ナイフで胸を刺され床に倒れる。続いて父が部屋に入ってきて、またぐさりと刺され絶命してしまう。志貴はこの絶望的瞬間が心に焼き付き、今まで一度たりとも忘れることがなかった。
 身寄りのなかった志貴は、一定期間警察の保護対象となる。志貴の父が刑事だったため同僚の刑事に一時的に引き取られたりした事もあったが、その刑事や刑事の家族から冷ややかな態度で接されたこともあってか、いろいろ転々とした後、孤児院へと送られた。
 あれから10年間、志貴は孤児院が我が家となって、小中高特別問題もなく、普通に友だちと遊びながら毎日を過ごしていた。しかし高校3年のある日を境に、闇の世界へと足を運ぶこととなる。
 高校3年の夏、進路を決めなくてはいけない時期に、志貴は学校の帰り道に偶然、両親を殺した男と擦れ違う。今まで逃げ延びてきた男の顔を、志貴は一度も忘れなかった。10年も経ち白髪が増えていたが、それでも見間違えることはなかった。
 志貴は男を尾行し、廃ビルの地下駐車場に入っていくのを確認すると、志貴も入っていった。汚れた車が並ぶ駐車場には、監視カメラが設置されていなかった。男は止めてある黒いバンの後部座席を開け大量の大麻が積まれているのを確認すると、ドアを閉めて煙草を吸い始めた。
 志貴は男に声をかけた。男の白いTシャツと青のジーンズが酒の染みで、所々汚れていた。志貴は男の目を見て、麻薬依存症になっていることが分かった。男の状態から見て大麻だけではなく、他の薬物も常習的に吸っているようだ。しかし、こんなことは、志貴には関係ない。志貴は男の胸倉を掴み、なぜ両親を殺したのか問いただした。最初はろれつの回らない事ばかり口にしていたが、何度も頭を壁に叩きつけていくうちに信じられない事実を語り始める。
 志貴の父親は密かに、大物政治家の汚職事件を調べていた。この政治家が警視庁出身ということもあり、公に捜査ができない状況だった。しかしこの政治家と繋がりのある刑事に、秘密裏に捜査を進めていることがバレてしまう。そこで厚生省の麻薬取締官だったこの男を金で雇い、空き巣の犯行と見せかけて殺害したとのことだった。
 志貴は怒りに身を任せ、男の頭を壁に叩きつけた。男は頭から血を流し、床に倒れた。志貴は男の首筋に手を触れるが、脈がなかった。志貴の瞳孔が拡張して、手の震えが止まらなかった。
 駐車場に人が居ないことを確かめると、急いでその場から逃げ出した。まるで今日初めて人を殺した自分自身から逃げるように。
 志貴は殺した時の感覚が、身体から染み付いて離れなかった。朝登校している時、授業を受けている時、バイトをしている時、食事している時、寝ている時、どんな時も。
 しかし、この感覚も2週間程度で治まった。最初は恐怖に首を締められていたが、やがて人を殺した恐怖体験をも飲み込む、どす黒い狂気が体の内側から溢れ出てきた。この狂気が侍の形となり、現代版の人斬りを作り上げていくこととなる。
 志貴は高校を卒業後、日本を始め、中国やロシアなど極東を中心に裏社会で活動するようになる。最初は蛇頭の下っ端の構成員として、街のチンピラと殆ど変わらないことをやらされていた。窃盗、ゆすり、偽造パスポートの密売など、末端の構成員らしい仕事をこなしながら、日々を過ごすこととなる。日本から離れた生活であったものの、中国を中心に東アジア全域で若者を中心とした日本語話者や学習者が多いため、言葉の面で困ることがあまり無く、普通话を中心に英語やロシア語など他の言語の勉強にも日々費やした。だがある時、華奢でありながら腕っ節が強く判断能力の高さをある幹部から買われ、殺し屋としての訓練を受けさせられる事となる。志貴はこの時を密かに待っていた。銃の扱いから、近接格闘、スナイパーやスパイとしての心得など、あらゆるものを叩き込まれ、蛇頭に入って2ヶ月で実戦に出ることとなる。
 殺し屋として敵組織の構成員や幹部、蛇頭を嗅ぎ回る捜査関係者など、蛇頭を仇なす全てのものを、この手にかけてきた。同じ蛇頭の仲間の内日本語が話せる者の何人かが、最初はそんな志貴のことを死期が迫ると呼んだ。しかしいつの日か、志貴の戦いを求めるかのようなその姿から、皆が次第に志貴のことを殺し屋修羅と呼ぶようになる。裏社会とは縁のなさそうな優男が、通り名に相応しい阿修羅のような顔つきで、敵組織の拠点へと攻め込んでいく。劣勢になっても怯むことなく、標的を探して弾丸の雨の中前進する。どんな相手であっても一切ひるまない。勢いに乗っている時は、1人で敵組織の拠点を壊滅させることもあった。志貴が通る道はどこも血で溢れ、組織で一番危険な男へと変貌していった。
 殺し屋として名が知られるようになってからは、アメリカやロシアなどの諜報機関との利害関係の一致から、政府高官や軍の幹部、テロ組織のリーダーの暗殺を任されるようになる。(無人機やドローンでの暗殺が技術的に可能だったが、法律や政治上の関係で公に行うことが出来ないという経緯から)志貴はテロリストのアジト、軍の施設、大物政治家の豪邸に忍び込み、標的をあの世に送り込んでいった。大物政治家の死体のそばにいる妻やその(むすめ)が恐怖で震えていても、志貴は冷たい表情のまま、涙で溢れたその瞳に銃弾を放った。
 組織からの命令がくだされない時でも、志貴は殺しをおこなった。仕事と仕事の間、いろいろ情報を集め、両親を死に追いやった元凶である大物政治家とその一味を突き止め、ひと月ごとに1人ずつ暗殺していった。1人は額を撃ち抜かれ、別の男は毒針で刺され、そして某大物政治家が全身生皮を剥がされ、両腕両足を切断された状態で、高級ホテルのVIPルームで発見された。
 志貴は殺して、殺しまくった。相手が誰だろうと命令を出されれば、ためらいなく。志貴はこの手で裏社会の側から、人の生き血を吸うような悪人を一掃できれば、そう信じて今までやってきた。でも、志貴には分かっていた。この生き方を両親が望んでいないことを。自分も両親を殺した男たちと同じ存在だと気づいていた。そして、決して負の連鎖が止められないことも。
 志貴は3年間の活動を節目に、裏社会から足を洗おうと決意する。もちろん、組織は許さない。志貴を消そうと構成員が総出でかかったが、志貴には到底かなわない。ドローンなども使いしつこく志貴を消そうとするが、狙えば狙うごとに戦いの爪痕がはっきりと残っていった。しかし、志貴は同じ蛇頭の構成員を1人も殺さなかった。腕や足などを銃で撃ち抜くぐらいで、命に直接関わる箇所は避けた。時が少し経ち、志貴を殺し屋へと導いた幹部の男が、1人で志貴の下を訪れた。そして、組織に関わる全ての事柄を口外しないことを条件に、組織から抜けることを許そうと言ってきた。志貴は条件を飲むと、直ぐ様蛇頭を抜けた。
 志貴は裏社会から抜け出した後、今までの3年間を取り戻すように、新聞記者や執事など様々な職に就いた。そして去年、事務所を立ち上げるに至る。
 志貴は自分が今まで辿ってきた過去を振り返りながら、愛玲の手を掴んで夜の街を走っている。今まで自分は逃げてきただけだ。薄汚れた闇から逃れたい一心で、甘く暖かい日常へと。しかしついさっき、マフィア共をこの手で始末した時、自分が何者なのか改めて思い出した。俺は修羅なんだ。初めて人を殺した時、(かたき)を取った時から何も変わっていない。人の世に害悪を成す者を一掃して、自分のような不幸な人を作らせないなど、ただの言い訳だ。自分も何一つ変わらないのだから。心の中で自分に言い聞かせながら、見えない結末に向かい必死に走っていく。
 志貴はどの辺りを走っているのか分からなかった。スマホの電池も切れていて、マップも使えない。ただ闇雲に走り回るしかなかった。
 気がつくと、廃ビルが建ち並ぶ地域に入っていた。ビルの窓ガラスがあちこち割れていて、電灯が不規則に点滅していて暗かった。
 志貴は早くこの場所から抜け出し、どこかホテルにでも泊まろうと考えていた。でも、この時間帯だ。チェックインできるホテルがあるかどうか……寒さで思考力が低下した頭を何とかフルに使い、これからのことを考えていた。
 愛玲はコートを羽織らず、チャイナドレスの格好のままここまで一緒に来ていた。そのため、寒さで苦しそうに白い息を吐きながら、志貴の手を強く掴んだ。志貴もそんな愛玲の様子に気づき、コートを脱いで愛玲に被せる。愛玲はコートを強く身体に寄せながら、必死に志貴の手を握る。
 しかし突然どこからか短刀が飛んできて、志貴たちの数メートル手前のアスファルトに突き刺さる。2人は手を離し、志貴は内ポケットからオートマチックを取り出す。
 短刀が突き刺さったことから、建物の上から投げられたことは確かだ。志貴は近くの廃ビルの窓や屋上周辺を確認し、敵の姿を捕らえようと努めた。この辺りのビルは3階建てが多く、拳銃でも充分狙えるだろうと、銃を握る指先に力が入る。
 必死になって自分を探す志貴を嘲笑うかのように、どこからか笑い声が聞こえてきた。女の声だ。しかも若い。まだ20歳もいっていないだろう少女の声が闇夜に響いた。
 志貴は声が聞こえる方向に銃を構えるが、また別の方向から声が聞こえ、後ろに振り返ったり左右に首を回しながら、どこに敵が潜んでいるのか探す。だが敵は自分の方から姿をさらけ出すかのように、話しかけてきた。
「へぇ~、まさかこんなところであの殺し屋修羅に会えるなんてね」
 志貴は後ろを振り返った。志貴の瞳には点滅する電灯の上に立つ、暗い緑のチャイナドレスを着た女の姿が映っていた。歳は高校生ぐらい、黒い髪を左右に団子状に纏め上げた少女が、志貴たちを見下ろし不敵な笑みを浮かべていた。
 志貴は少女目掛けて銃を撃つが、少女は上に飛んで弾を躱し、猫のように下に着地した。
「姿を見せた途端、いきなり撃ってくるなんて!あぁ、怖い怖い」
 少女は笑いながらわざと怯えるような素振りを見せると、志貴たちにゆっくりと近づき、5m手前で止まる。
 志貴は殺し屋時代と同じ阿修羅のような表情で、少女を睨みつける。愛玲とまではいかないものの、なかなかきれいな顔をしている。女子高生がコスプレをして、夜の廃墟を歩き回っているかのような光景だ。
「おまえもこの愛玲を追ってここまでつけてきたんだろうが、どうして俺のことを知ってる?どこの手の者だ?」
 志貴が落ち着いた口調で質問すると、少女は高笑いした。腹を手で抑え顔を上に向けながら、あまりに可笑しいといった様子だった。志貴が銃口を再び向けると、少女も気づいて視線をこっちに向けた。
「どんなことを訊いてくるのかと思ったら……殺し屋が素性を明かすなんて、普通ありえないでしょ?殺し屋修羅と分かって、どんな男なのかワクワクしてたのに。随分平和ボケしたみたいね」
 志貴は銃を握っている手に力が入る。少女もその様子に気づいて、流暢な日本語で先を続けた。
「まぁ、いいわ。あんたの素性をどこで知ったのかぐらい話してやる。さっきあんたたちがドンパチやってたキャバレーに、わたしもいたのよ。あんたの隣りにいるその女がいるって分かって来てみれば、別の組織の奴らが来てるんだもん。どこの組織か知らないけど、そこのお嬢さんは随分交友関係が広いようね。それであの上海美人ってキャバレーから、ずっとあんたたちのことをつけてきたのよ。てっきり気づかれてたかと思ってたけど、その様子じゃ全く気づいてなかったみたいね。もっと鋭い男だと思って期待してたんだけど……ちょっと余計なことを喋りすぎたかな」
 志貴は目の前にいる少女が、ただものでないと肌で感じとる。いつでも身体が反応できるように、つま先に重心を置き、少女の動きに目を配った。
「用があるのはそこの女なんだけど。いいわ、名前だけなら教えてあげる。あんたのことは、どうせ殺すつもりだったし。あの殺し屋修羅と一度は戦ってみたいと思ってたわ。わたしたちの間でもかなり有名だったから」
 少女は鋭い殺気を放ち、悪魔のような笑みを浮かべる。
「わたしの名前は胡蝶。昔のあんたと同じ殺し屋よ!」
 胡蝶は右太ももの辺りから短刀を素早く取り出すと、志貴目掛けて投げつけようとした。志貴は直ぐ様、心臓のあたりを狙って銃弾を放った。
 しかし胡蝶はどこも血を流さず、平気な顔で立ったままだった。確かに心臓の辺りを撃ち抜いたはず、志貴は驚いた表情で不気味な敵と対峙する。胡蝶は志貴の様子にニヤッとすると、身体が緑の炎に包まれた。炎から同じ色の無数の蝶がバラバラに飛び立つと炎が無くなり、胡蝶の姿が消えていた。すると、志貴の右肩に短刀が突き刺さる。
 志貴は痛みで膝をつき、後ろを振り返った。後ろには胡蝶がいた。
 志貴は幻覚でも見ているかのようだった。近くに幻覚剤でも撒かれているのか?いや、違う。そんな感じじゃない。ホログラムとも違う。グラスでもつけない限り、これほど高性能なホロを出現させることはできない。志貴は痛みで汗をかきながら、相手がなにをやったのか、その正体に気づいた。
 この世にはごく少数であるが、異能の力を扱える者が存在する。扱う能力や発動条件などによって魔法や妖術、超能力といった呼び名など様々だが、どれも異能の力であることには変わりない。これほどまでに科学が進歩した現代でも到底信じ難いような、特別な力を持つ者と今対峙している。胡蝶の能力からすれば、この異能の力は妖術と言うべきだろう。
 志貴は右肩から短刀を引き抜き、苦しそうな表情で胡蝶を見上げた。
 愛玲は志貴の右側にしゃがみ込み、花柄の白いハンカチを傷口に押さえつけた。ハンカチは血を吸って赤く滲み、直ぐ様別の色の布切れへと変わった。
 胡蝶はがっかりとした表情を見せ、冷たい眼差しで見下ろしいていた。
「この程度なものなの?正直、がっかりだわ」
 胡蝶はゆっくり志貴たちに近づくと、懐からコルト式の拳銃を取り出して志貴の額に向けた。志貴は銃を向けようとするが、腕に力が入らず、荒く息を吐きながら胡蝶を睨みつけた。
「この女を連れて行く。でも、あんたは殺すわ。わたし好みのいい男なのに。残念ね……」
 胡蝶は冷たい表情のまま、ゆっくりと引き金に触れている指先に力を入れた。「ここで俺は死ぬのか?」志貴はこの時そう思った。
 突然、志貴の後ろ側から銃声が聞こえた。胡蝶は右横腹を銃弾で掠める。激痛と怒りで顔が歪んだ。自分を撃った何者かを殺してやろうと銃を構えるが、流れ出る血の量が思ったよりも多く、身体に力が入らない。再び銃弾が近くのアスファルト付近に当たったので、ここは一旦退くべきだと考えた。
「へへへ~、ちょっと油断してたかな……チッ、痛いな。ねぇ、今日のところは、取りあえず退いてあげるわ。でも、必ずあんたを殺す。そして、わたしを撃ったクソ野郎もね。それじゃあね」
 膝をついていた胡蝶は立ち上がると、廃ビルが生い茂る暗いジャングルの中へと消えていった。
 志貴は後ろを振り返り、自分を助けてくれたのが誰なのか、薄暗い夜道を見つめる。人影が近づいてくるのが確認できる。しかし視力が良い志貴も、今は目が霞んでよく見えなかった。手で目をこすり、再び視線を向けると、よく知っている男の姿が映っていた。
 両手に銃を構えた義和が、ゆっくりとこちらに近づいてきた。周囲に敵がいないか入念に確かめ、志貴のそばまで来る。膝をついた男の顔を見て志貴だと分かると、志貴の目の前にしゃがみこんだ。
「志貴じゃないか!おいっ、大丈夫か!?」
 義和は話しかけると、志貴の状態を確認する。黒のスーツを着ているためあまり目立たないが、所々銃弾を掠めた箇所を見つけ、今までどういう状況に置かれていたのか理解する。志貴はゆっくりと立ち上がった。
 義和は志貴の右肩が濡れていることに気づいた。後ろに立っている愛玲のハンカチを見て、出血していることが分かった。
「おまえっ、血が……」
「大丈夫。傷が浅い」
 義和は志貴の右肩から視線を逸らすと、足元に短刀が落ちてることと、志貴の左手に銃があることを確かめる。
「どうしておまえ、銃なんか持ってる?」
 志貴は義和の質問に少し間を置き、掠れた声で答えた。
「別に持っててもおかしくないだろ。警察や自衛官以外でも、俺のような探偵業や警備会社のような危険を伴う可能性がある職に就いているものは、申請さえすれば銃の使用許可が下りることぐらい、おまえだって知ってるだろ。今がまさにそんな状態だ」
 志貴は義和の肩に手を置き、そして義和から離れる。
「もう行くよ。じゃあな」
 志貴は後ろを振り向き、この場を離れようとする。しかし、義和がそれを止める。
「行くって、どこにだ?怪我をしてるじゃないか!まず病院に行くのが先だろ。それにおまえは何者かに銃を向けられていた。俺が来なければ、殺されてもおかしくなかったんだぞ。署まで来てもらう」
 志貴は面倒くさそうな顔になり、苛立った口調になる。
「だから言っただろ。探偵業のような仕事は危険を伴うって。俺の後ろにいる彼女は依頼人。つまり、今依頼を受けた仕事をおこなっているところだ。それとさっき襲われたのは、この依頼と関係ない。署になら後で行く。もし無理矢理署に連れて行こうものなら、守秘義務を盾に警察の要求を無理矢理取り消してもいいんだぞ。腕の良い弁護士を雇ってな」
「何だその言い方は?人がせっかく心配してるのに。おまえは知らないかもしれないがな、今この街で殺人事件が複数起きてるんだ。どうも裏社会系の組織同士の抗争みたいだが……この事件の捜査でこの辺りを1人で回っていたのだが、まさかお前に会うとは思わなかった。それと、実はおまえのことを探してたんだ」
「うん?」
「昨日、おまえ花籠に行くって言ってただろ。あの店の店主が昨日の夕方、死体で発見された。店の近くで別の男の死体も……」
「そのことはニュースで知った」
「それともう1つ。おまえの事務所が火事で焼けた。火を何とか消し止めたが、おまえと連絡を取ろうにも取れなかった。杉浦さんもだ。ここまで来たら、おまえたちがこの一連の事件と無関係に思えなくてな。本当は巻き込まれたんじゃないのか?やっぱりおまえを署に連れて行く。杉浦さんもだ」
「沙代なら依頼の仕事で、今かぐやを離れている。それと今言ったことを理由に無理矢理連れて行く理由としては、まだ関連性としては不十分だな。もし無理やり連れて行くのなら、俺が事件と関係してる決定的な証拠を持ってくるんだな。時間がない。もう、行く」
「おいっ、志貴!」
「だから持って来いと言ってるんだ!俺は依頼を引き受けたら、期限までに必ず全うする。もし邪魔しようってなら、おまえでも容赦しない。弁護士でも何でも使ってやるさ。義和、ここは本土と勝手が違うんだ。この前大手企業の幹部が腕の良い弁護士を雇って、警察の会社への立ち入り捜査を退けたってニュースになってただろ。自由主義を尊重したこの街の法律では、こうなるのさ。それと今までおまえに言ったことがなかったが、俺は警察が大嫌いだ。犯罪者を取り逃がすばかりか、利権が絡むとまるで蠅のようにたかってくる。本当に反吐が出そうだ」
 義和は苦い顔をして志貴に告げる。
「もういい。勝手にしろ……」
 義和は志貴と反対方向の夜道を歩き出し、暗い廃墟の町へと消えていった。志貴はそんな義和の後ろ姿を見ながら、心の中で義和に向けてこう言った。「義和、おまえまで裏の世界へと巻き込みたくないんだ。だから、俺には関わらいでくれ」
 志貴は悲しそうな表情のまま、愛玲と一緒にこの場を離れた。追手に気をつけながら、何とか三番街のホテルが並ぶエリアに辿り着き、深夜3時半過ぎに、安ホテルにチェックインすることができた。