知的障害者を主に雇っている清掃業者の臨時社員として、五番街にある公園内の全ての清掃を終えたのは、午後2時過ぎだった。ロボットを使わないアナログな肉体労働によって身体が温まりはしたが、疲労が溜まっているせいか、志貴は幾分ふらついている。
 志貴の眼には街がモノクロになったりカラーになったり、まるで蛍光灯が点滅するかのように映っている。よくこういった感覚に襲われてしまう。いつからだろうか、もう忘れてもいいのではないかと思えるぐらい昔なのではないのだろうか、そういった心の奥底にある切実でガラス細工のような壊れやすい感情を、志貴は必死に押し隠している。そんな心象風景を映画のワンシーンかのように、志貴は見ている。今日のように、自閉症の従業員とのコミュニケーションに困りながらも、監督役であるおばさんたちの優しい笑顔や御礼の言葉に助けられることがよくある。いつもそうなのだ。しかし、それでも灰色の風景を拭い去ることは、どうしても出来ない。志貴はそんな自分自身に折り合いをつけながら、次の依頼の待ち合わせ場所へと向かっている。
 楊の店花籠(ホアラン)は、六番街との境のチャイナタウンで営業している。楊とは1年前、まだ志貴が事務所を立ち上げて間もない頃、ある依頼がきっかけで知り合うこととなる。その時の依頼というのは、横浜に拠点を置くヤクザからみかじめや店の立ち退きを要求されて困っていることだった。警察に相談すればすぐ解決する問題のはずだったが、そう出来ない事情があった。それは不法就労者を雇っていることだった。楊は特別な事情で困っているアジア系外国人の若者を自分の店で雇ったり、他の店に紹介状を書いたりしていた。しかしヤクザから知られ、弱みを握られほとほと困っていた。事情を知った志貴は、3日も経たない内に問題を解決した。相手側の裏を徹底的に調べ上げ、麻薬取引日時と場所を警察にリークしたのだ。それからというもの、志貴と沙代は店のおすそ分けを貰ったり、店を依頼の待ち合わせ場所に使わせてもらったりするようになった。
 志貴はお昼休みに公園内で弁当を貰い昼飯を済ませていたが、午後の依頼の待ち合わせ場所を思い出すと、急にお腹が空いてきた。依頼の話が終わったら花籠で晩飯にしようと、口腔内が唾液で侵食されていくのを感じながら、先の予定を立てていた。花籠はこじんまりとした店だが、中国各地方の料理に精通し客に提供する。何の料理を食べようか、頭の中でいろいろ迷っていた。炒飯、餃子、麻婆豆腐、小籠包などなど。美味しい料理を早く食べられることを想像しながら、気づくと3時近く。志貴の視線の先には、六番街の境であるチャイナタウンが見えていた。
 チャイナタウンは喧騒な空気に包まれていた。事務所近くの街と同じく薄汚い。でも華やかだ。別にこの街に並ぶ建物の外装が、派手で綺麗な訳ではない。道路はゴミ屑が散らばり、廃ビルも多く、寂れた店も多く見かける。しかしここで暮らす人が生み出す生活音が、どこか艶があるように思えて、この辺り一帯を中華という大きな華を咲かせている。しかし、志貴にとってどこのチャイナタウンも、同じくモノクロに映ってしまう。志貴にとってこういった場所は、過去の自分自身を思い出すきっかけとなってしまう。本心では避けたいのかもしれない。でも、避けては通れない。どこか物悲しい様子で、青い春の風に煽られながら、過去を足場にして街を歩いている。
 街は中国本土と何も変わらない。周囲には簡体字や繁体字が並び、どの道を通っても煙草を吸う人ばかりだ。赤色に緑の文字で書かれた看板や、灰色がかった白の壁と橙色の屋根のコントラストが、チェーンスモーカーが吐く煙と混じり合い、どことなく気だるいハードボイルドタッチな空気を醸し出す。この雰囲気から抜け出したかったのか、志貴はふと市場の辺りを歩きたくなった。午後3時。待ち合わせにはまだ時間がある。志貴は歩調を速め、市場へ向かった。
 市場ではいろんな言葉が行き交っていた。北京語や上海語、広東語など、中国の各地方の方言が同時に飛び交い、小さな子どもから老人まで幅広い年代が商いをしている。また他の異邦人の姿も多く、志貴は2m近いスキンヘッドのロシア人男性と身体がぶつかり、大きくよろめいてしまった。相手はボソッと何かを呟いたが、志貴に顔を向けることなく、そのまま人込みの中へと消えていった。志貴は特に不満を見せず、市場の野菜売り場に目をやった。
 このところ、志貴は自分で料理をすることがなくなっていた。便利屋としての仕事先で弁当を余分に貰うことが多く、自分で何かを作る必要がなくなっていたのだ。しかし、志貴はその好意に甘えていなかった。元々料理は得意な方で、以前沙代にも振る舞ったことがある。志貴も久しぶりに何かを作りたくなり、良い食材がないか探していた。トマト、カボチャ、スイカなど、季節に関係なくずらりと並んでいる。野菜以外に香辛料なども見ていたのだが、ボロボロの薄汚れた服を着た10歳にも満たない少年に、木彫りでできた古代中国の武将の人形を買わないかとしつこく声をかけられたので、逃れるように市場から外へと抜け出した。
 この市場で商いをしている者は必死だ。相手を騙そうと躍起になっている。ここで売られているブランド品のほとんどが偽物であることを、志貴は職業柄よく知っている。カモが引っかかってるのを見ると、また引っかかってるよと心の中で呟いてしまう。ちゃんとした店で買いなよと思っていても、声をかけて忠告することは一切しない。だって、その人個人の責任なのだから。
 市場の喧騒とした空間から外へ出ると、また殺伐とした光景へと逆戻りだ。市場のすぐ外側なのに、凄く静かだ。たまたま通りかかった煙草屋の隣にある自動販売機で、缶コーヒーを買った。そして、ブラックをそのまま奥に流し込んだ。志貴は落ち着かない時、よくコーヒーを飲む。好きだから飲んでいる訳ではない。ただどうしようもなく内側から込み上げてくる苛立ちや不安を吐き出すこと無く、黒く苦い液体で奥に押し戻したいだけなのだ。そう、今の志貴がまさにそうだった。
 しかし、突然志貴の背中に緊張が走る。背後から誰かが近寄ってくるのを、1秒単位で感じ取る。人気が無いなか、志貴はコーヒーを飲みながら、周囲に殺気を放っていた。
 この辺りは治安があまり良くない。特に女子どもが1人で歩くのは危険だ。チンピラ同士の喧嘩やカツアゲが絶えず、時々刃物で切られた死体が転がることがよくある。そう、次が自分の番なのかもしれないのだ。だからこそ、ここで暮らす誰もが隠れた殺気を持ち合わせている。
 誰かが近づいてくる。分かっていても、志貴は気づかないふりをする。襲い掛かってくる敵を油断させるには、この方法が一番だ。本職の連中なら、無駄な殺しはしない。それに相手がチンピラなら、銃を所持している確率は少ない。また所持していたとしても、扱いに慣れている者は極稀だ。闘争心を隠しつつ相手の隙を掴めば、自分の身を守ることは充分可能だ。
 相手の歩み寄るスピードは依然と変わらない。そのことは志貴にも伝わっている。段々近づいてくる静かな足音が自分の鼓膜に振動する度、昔を思い出す。幼い頃よくやっていた達磨さんが転んだや、自分に想いを寄せている女の子に後ろからそっと迫られるシチュエーション、知りたくもない現実が突如として後ろから現れた時など、いろんな感情とともに記憶の断片が頭をよぎった。
 相手と自分との距離が1m未満になった瞬間、誰かが自分の右肩に触れたことを感じ取る。そっと優しく肩を叩く感覚。振り返ると志貴のよく知っている顔がそこにあった。
 伏見義和、志貴と同い年で高校の同級生。東大在学中に国家公務員1種に合格。卒業後、国家公務員として研修を受け、現在学芸研究都市かぐやの刑事課に所属している。実は楊の依頼の件にも関わっていて、ヤクザの麻薬取引日時を教える代わりに、楊のお店の不法就労者全員に就労ビザを申請できるよう手配してもらったことがある。黒のミディアムヘアー、眼鏡を掛け地味なネクタイをしている姿は、如何にも公務員らしい。志貴より少し背が低く、痩せ型。寒い風が吹き付けるなか、久しぶりの再会にお互い笑みを浮かべる。
「やっぱり志貴か!久しぶりだな」
「よぉ~エリートさん!こんな寂れたところで何やってるんだい?」
「ちょっと仕事でな。今から昼休みなんだ。おまえはどうしてここに?」
「依頼人との待ち合わせがこの近くなんだ。待ち合わせには、まだ時間があるんだけど。ほら、楊さんのお店。知ってるでしょ?あそこで待ち合わせ」
「楊?あっ、あの時おまえに頼まれた……随分久しぶりだな。でもさぁ、待ち合わせなら事務所でもいいんじゃないのか?」
「依頼人の指定なんだ。それにウチの事務所を薦めてくれたのが楊さんらしくてね」
「てことは、探偵としての仕事か。いつもの便利屋の仕事ではないわけか」
「いつもって言うなよ!俺も好きでこんな仕事してる訳じゃないんだから」
「そうだったな。悪い……えーと、ところで……杉浦さんは元気にしてる?」
「杉浦さん?あっ、沙代ちゃんのこと?いつも通り冷たくあたってくるよ。棘のある言葉でズキッズキッとね」
「それはおまえだろ!少しは女の子に優しくしろよ。いつもおまえのほうが誂ってるじゃないか」
「それはお互いさ。だってこんな仕事してたら、冗談言い合ってないとやっていけないんだもん。あっそうそう!沙代ちゃん、結婚願望があるんだって。誰か紹介してって言ってた」
「マジ!へぇ~、杉浦さん彼氏いないのか。てっきりいると思ってたんだけど」
「何か妙に食いついてきたね。沙代ちゃんのことが気になるの?」
「馬鹿!恥ずかしいことを訊くなよ。でも、おまえ本当に馬鹿だよな。あんな可愛い人がすぐそばにいるのにさ」
「だったら、俺が貰っていいの?」
「男を選ぶのは杉浦さんの自由だけど、おまえはダメ」
「クソッ、みんなして俺に冷たくアタリやがって」
「そんなことよりここ寒いな。もう4月だってのに、何だこの寒さは。あっそうそう、俺今からお昼なんだけど、一緒にどう?」
「昼飯はもう食べたんだ。だけど、小腹が空いてきたな」
「俺はそんなに腹が減ってないから、喫茶店とかどう?」
「良いよ」
「確かこの近くにあったな。じゃあ、行こうか」
 義和に導かれ、暖かい喫茶店へと向かうため錆びついた細い道を歩く。飲食店と雑貨店が並ぶこの一帯を歩いている黒のコートを羽織った2人の姿は、とても異様だ。明らかに日常生活に溶け込めそうな2人だが、この時ばかりは土地のせいで危険な男たちのように見える。枯れた色の風が吹き付けるなか、目的地へと重たい足を運ぶ。
 レンガ造りの外観の喫茶店が目に入ると、早速中に入り奥の窓際の席に座った。煙草の煙が立ち込めるなか、志貴は外の様子を眺める。義和の方はチーズケーキを頬張りながら、そんな志貴の様子に目が行った。
「食べないのか?」
「いや……」
 志貴は窓の外を眺めた途端、食欲が薄れていった。不思議なものだと、この時志貴は思った。窓ガラス越しに外を眺めることが、過去の記憶を呼び覚まし、まるでモノクロフィルムを見ている感覚に陥ってしまうのだから。
「でも、変わったよな」
「何が?」
「おまえのことさ。高校の頃は冗談を言うようなタイプじゃなかっただろ。去年再会した時からここずっと、何だかすごく楽しそうにしてるなと思ってね」
「何かさぁ~、俺が高校の頃ずっと根暗だったように聞こえるんだけど……」
「そういうつもりで言ったわけじゃないさ。別におまえがボッチな寂しい奴だとは思わなかったし、その反対で人気があった。でも……」
「でも?」
「何かみんなと、距離を置いていた気がしてた。後一歩踏み込まないみたいな。遠慮してたんじゃないのか?自分が孤児だからって……」
「もう昔のことだ。忘れたよ」
「あまり昔のことを語りたがらないな。高校を卒業した後のことは特に」
「そうだな」
 志貴がコーヒーに手を付けずに翳りが見え始めたその様子に、義和は申し訳無さそうな表情になった。
「すまん。何だか辛気臭い話になってしまった」
「構わないさ。まぁお互い大人になったんだし、こういう話になって当然だろ」
「そうか。じゃあ、別の話題に変えようか?」
「伏見君が杉浦さんに惚れてるって話?」
「おいっ!その話を蒸し返すな」
「ハハハッ!」
 志貴の表情が明るくなり、義和も安心したようだ。ケーキを食べ終わると、小さなマグカップに入ったコーヒーを啜った。
「ケーキいらないから食べていいよ」
 志貴はそう言うと、チーズケーキの載った皿を義和の方に押した。再び外に顔を向けると、意外な人物の顔を目撃する。
 通りには通行人の誰よりも大きい、セーラー服姿の人物が確認できた。スミレだ。志貴は思わずむせてしまった。(実のところ、志貴は今までスミレが同じ髪型のカツラを被っているところを見たことがない。志貴が聞いた話では、どのカツラもオーダーメイドで、髪の艶加減やウェーブ具合髪の長さまで微妙に違うらしい。色も黒から茶色、金髪にグレー、ピンクなど何種類にも及ぶ。ちなみに今日のカツラは三つ編みの黒。昭和の女子高生風だ。)
「おい、大丈夫か?」
「ゴホッゴホッ、あぁ大丈夫。待ち合わせの時間も近いし、そろそろ行くわ」
 志貴はコーヒーを一気に飲み干すと、お互い手振りで別れを告げ、スミレに見つからないように店を出た。
 花籠に着いたのは10分前だった。この辺りも他の地域と同じで、少し寂れている。白に赤文字で書かれた看板が目に入ると、早速中に入った。
 夕食にはまだ時間が早いため、お店の中は空いていた。まだ20歳いってるかいってないかぐらいのポニーテールの女の子に、片言の日本語で「どこでもいいので、座ってください。」と言われたので、志貴は楊を呼んでくれと頼んだ。一番奥の席に座ると、料理人らしい格好の小太りな男がこちらに近づいてくるのが見えた。この辺りでは珍しく、人懐っこい表情をした人物だ。志貴は微笑みながら、手を振った。
「やぁ、楊さん。お久しぶり!元気にやっていますか?」
「諌山さん、本当にお久しぶりです。あの時、諌山さんには本当にお世話に……」
「何度も聞きましたよ。そのセリフ。もうだいぶ前のことじゃないですか。こっちもタダで飯をごちそうになりましたから、お互い助けられたんですよ」
「ハハハッ!」
「あっそうそう、依頼人との待ち合わせがここなんですが、いいですか?」
「構いませんよ。では、どうぞごゆっくり」
 楊はテーブルに熱い烏龍茶を注いだ茶碗を置くと、厨房の方へと戻って行った。志貴は烏龍茶に手を付けず、依頼人が来るのを待った。
 待ち合わせ時間から10分が経過したが、依頼人は姿を現さない。まぁ、依頼人が時間を守らないことはよくある。志貴はかなり前の猫探しの依頼のことを思い出した。50いくかいかないかの高慢な態度の婦人から、ペットのシャム猫を探し出すよう依頼が来た。待ち合わせ時間から30分も遅刻してきたくせに、猫を探し出した時小さな擦り傷1つ見つけると、アンタが早く見つけないからと志貴のせいにされてしまった。裁判まで起こされそうになったが、仕事の都合上あまり家に帰らない依頼人の主人がこのことに気づいてくれたおかげで、何とか事態は鎮静した。志貴は嫌な記憶が蘇り、これからは依頼人が待ち合わせ時間に遅刻した時、遅刻した分だけ依頼料を増やしてやろうなどと考えていた。
 待ち合わせ時間から30分が過ぎた後、ようやく依頼人が姿を現した。店の扉を開けるギシギシッとした音が聞こえ、黒の長袍を着た中年の男の姿が目に入る。痩せ型で白髪交じりの髪を七三に分けている。男は奥の席に座っている志貴の姿に気づくと、ゆっくりと近づいてきた。テーブルのそばまで来ると、微笑んだ顔で志貴に右手を差し出した。
「あなたが諌山さんですか?」
「えぇ」
「遅くなってすみません。ここに来る前に少しトラブルがありましたので、あっ申し遅れました。陳と申します」
「話は伺ってます。どうぞお座りください」
 握手を交わし陳が座ると、志貴は手振りで茶を出すよう店の従業員に言った。陳に熱い烏龍茶が行き渡ったのを見ると、すっかり冷めてしまった茶を一口啜った。
 志貴は茶菓子でも用意しようか尋ねたが、陳はけっこうと答えた。陳の舌をあまり使わない滑らかな日本語に、あまり外人らしくないと志貴は思った。
「早速ですが、依頼の件についてお伺いしたいのですが」
「分かりました」
 陳は左側の袖から1枚の写真を取り出した。テーブルの上に置くと、細く皺の寄った右手で志貴の方に近づけた。
 写真には青いチャイナドレスを着た女性が写っている。20代前半といったところか、黒のロングヘアーでかなりの美人だ。
「この女性。彼女を探し出して欲しいんです。名は愛玲(アイリーン)
 志貴は陳の顔を見た後、再び写真に目を向けた。確かに美人だ。女に飢えた男であれば、絶対に喰らいつきたくなるような女性だ。しかし、志貴には日常的なものに欠けた、どこか危うさを秘めた美しさに思えた。
「彼女について詳しく説明してもらえますか。年齢とか身体的特徴とか」
「歳は20歳。身長は160後半ぐらいでしょうか」
 志貴は愛玲が沙代より年下に見えなかった。自分たちよりも2つほど年上のような、そんな大人っぽさが写真全体から溢れているように思えた。
「歳は20歳。背は沙代ちゃんより少し高いぐらいか……あっそうそう、どうしてあなたが探しているのか、理由を教えてもらえないですか。あなたとの関係など、その他もろもろも。後、あなたのフルネームと、それを証明するパスポートの確認を……」
「ハハハッ!」
 陳は高笑いすると、普通话(プゥトンホア)(中華人民共和国で指定されている標準語として定められた中国語のこと)で何やら呟いた。皺の寄った優しい顔が悪人面に変わり、志貴を嘲笑うかのような笑みを浮かべた。
「茶番はお終いにしましょうか。諌山さん、私はね、あなたに依頼をしてるわけじゃないんですよ。命令してるんです」
 そう言うと陳はスマホを取り出し電話をかけ、繋がると志貴にスマホを渡した。手に取ると、志貴の知っている人物の声が聞こえてきた。
「……志貴君?」
「沙代ちゃんか!?無事か?」
「うん、何とか。事務所に怖い人達が押し入ってきて、今別の場所に連れて行かれたみたいで、こんな状態。何が何やらさっぱりで、わたし……」
「大丈夫。落ち着いて。必ず迎えに行くから。約束の餃子も忘れずにね」
「うん、待ってる。だから、志貴君も気をつけて……キャーッ!」
「沙代!?沙代!!」
 通話が途切れると、志貴は陳を睨んだ。従業員は全員厨房にいるみたいで、志貴たちの様子に気づいていない。
「今日がエープリルフールだからって、冗談がキツすぎるぜ」
「冗談じゃないさ。おかしな動きを見せれば、あの女の命が消えるだけだ」
「貴様!」
 陳と名乗っている男が立ち上がり、写真を懐にしまいこんだ。
「できるだけ早く見つけてください。彼女がここに来ているのは我々も掴んでいるのですが、そこからは。だから、探偵役が必要になったのです。期限は今日も合わせて3日としましょう。本当なら一刻でも早く見つけて欲しいところですが、この期限は我々の誠意と思ってください。分かってると思いますが、もし警察にでも知らせでもしたら、その時は……見つけたら、期限まで逃げ出さないようどこかで監禁しておいてください。3日後、こちらから覗います。ではまた」
 陳はそう言うと店を出た。店内は静まり返り、志貴は打ちひしがれた様子だった。厨房の方から楊が姿を現し声をかけた。
「もう終わったようですね。何か食べますか?」
「いや」
 志貴は目の輝きを失ったまま、静かに店を出ていった。楊はそんな志貴を心配そうに見つめていた。