西暦2025年4月1日火曜日。横浜港から南に5km、東京湾に浮かぶ人工島学芸研究都市かぐやは、先週から続く寒気によって、まだ本当の春が訪れていなかった。並木道の桜たちが今にも花開こうと蕾を膨らませているのだが、冷気混じりの春風によって未だ尻込みしている様子だった。
 この巨大な人工島は、今まさに直面している環境破壊、国際情勢などの様々な問題や、これからの未来の課題に対応すべく建造された。東京都23区ほどの広さの中に、様々な学校、企業、研究機関が密集している。また一国二制度のため、通貨は同じだが本土と法律が異なる。元々宇宙移民の生活、つまりスペースコロニーでの生活のシュミレーションも兼ねている。そのため、この都市全体が1つの実験体なのだ。
 こんな近未来的な街の一角、朝の7時半。第五番街の冴えないアパートの一室から、諌山志貴は自身の事務所に向かうため、ドアを開けているところだった。部屋を出ると待ち構えているのは、春の暖かな風とは程遠い、木枯らしそのものだった。この黒髪の優男も、さすがの寒さで少し険しい表情だ。黒のコート姿で街を歩いている光景を目の当たりにすると、とても4月の陽気とは思えない。
 事務所は志貴のアパートからゆっくり歩いて30分、同じ五番街にある。事務所から距離があるのは、仕事を考慮してのことだ。志貴は便利屋兼探偵事務所の所長で、毎朝この時間帯に家を出る。元々探偵事務所として構えていたのだが、探偵業だけでは食べていけなかったので、格安で何でも引き受ける便利屋を併設することとなった。公園のトイレ掃除から、引っ越しの手伝い、老人介護など何でも。
 志貴は事務所に着くまでの間、先週の仕事を思い出していた。稼業が稼業なだけに、なかなか趣味が持てない彼にとって日課となっていた。先週も便利屋としての仕事が主だった。建設現場、介護施設の欠員補充のための業務。探偵らしい仕事の依頼は、このところ全くと言っていいほどない。しかし、それは志貴にとって安らぎでもあった。大変な仕事も多いが、感謝されることに変わりはない。いろんな人との触れ合えるこの日常を、志貴は大切にしていた。
 ちょうど歓楽街に差し掛かったところ、後ろから志貴を呼ぶ声が聞こえてきた。
「志貴ちゃん、おはよ~!」
 振り返ると、大きな人影が確認できた。
「おはようございます、スミレさん」
 このセーラー服を着た男性はゲイ・バーのママさんで、以前志貴がある依頼を引き受けたときからの知り合いでもある。元自衛官で身長は2m近くもあり、182cmの志貴とはだいぶ差がある。自称永遠の女子高生で、ミニスカの下のもじゃもじゃした脛毛が何とも痛ましい。
「志貴ちゃん、この頃全く顔を見せないじゃない。ホント、冷たいんだから!」
 スミレはそう言うと、むっと顔を膨らませた。その時の表情は、餌を貪り食う類人猿のようだった。いや、三つ編みした黒いかつらと顔に塗りたくった厚化粧から、どこかの先住民と言うべきなのか。とにかくあくが強い。志貴はアハハッと引きつった笑みを浮かべながら、スミレと出会った頃のことを思い出していた。
 出会うきっかけとなったある依頼というのは、病欠のコンパニオンの穴を埋めるといったものだった。黒のドレス姿の志貴は、店一番の華となっていた。むさい男たちに身体を擦り寄せられたことを思い出す度に、背筋がゾッとした。
「いや、最近忙しいもので……」
「フン!どうせまた、お爺ちゃんお婆ちゃんのお世話をしてたんでしょ。あたしには目もくれずに。でもそういうところが、またグッとくるのよね!」
「いえ、仕事ですから」
「もう、謙遜しちゃって!あっそうそう、あの()はどうしてる?あんたんとこの、可愛い事務の()
「沙代ちゃんのことですか?元気に働いてくれていますよ。でも、珍しいですね。スミレさんが他の()のことを、可愛いって言うなんて」
「フン、見くびらないでほしいわね。あたしだって、他の()のことを可愛いだの綺麗だの言ったりするわよ!あたしが言いたいのは、上っ面だけ磨いてる今時の()に、調子に乗るなと物申したいだけなのよ!」
「ハハハッ、スミレさんはどうなんです?自分のこと棚に上げたりしてません?」
「そんなことないわよ。あたしは腹の奥底、どこまでもピュアなのよ」
 何がピュアなものか。そもそもスミレという名前だって、あんたは決して可憐じゃないだろ!志貴は笑いながら、言葉に出さず突っ込んだ。
「そろそろ行かないと。では、この辺で失礼します」
 スミレは志貴が別れの挨拶を切り出したせいか、少し寂しそうな表情になった。
「ホントつれないわね。何でなのかしらね、いい男はなぜあたしの前からいなくなってしまうのかしら」
「誉めていただいて光栄です」
「まぁ、いいわ。それじゃ、またね」
 スミレの後ろ姿を確認すると、志貴はホッとしたのか穏やかに微笑んだ。まぁ、決して悪い人物ではない。時々事務所まで作り過ぎたお惣菜を持ってきたりなど、なかなか親切なところもある。いつもこの時間帯に、登校と称して買い出しに出かけているのだ。志貴はそろそろ行かないと遅刻してしまうと思い、歩くスピードを速め急いで事務所に向かった。
 歓楽街、オフィス街、チャイナタウンとのちょうど境目辺りまで来ると、3階建てで廃ビル風の建物が目に入る。この建物の最上階に、志貴は事務所を構えている。他の階は空きになっていて、事務所の関係者と依頼人以外で訪れるとしたら、郵便配達、カラス、野良猫、後はホームレスぐらいだ。
 事務所の前に着いた時、志貴はポケットからスマホを取り出し、現在の時間を確認する。午前8時10分、いつもより10分の遅刻だ。建物の中に入ろうとした時、左足首に何かが触れた感覚があった。振り返ると、先月から事務所近くで見かけるようになった灰色の雌猫が、ニャーニャー鳴きながら志貴に身体を摺り寄せてきた。色はドブネズミのような汚い灰色なのだが、スタイルの良さで上品に見える。志貴はしゃがんで喉の辺りをなでてやると、バイクかスポーツカーのように喉をゴロゴロ鳴らした。その様子に志貴は微笑むと、コートの右ポケットから鰹節の入った小さな袋を取り出し、袋を破って鰹節をアスファルトの上にばら撒いた。猫が美味しそうに鰹節を食べている様子を志貴は確認すると、建物の中に入っていった。
 廃ビル内の薄暗い階段には、今日もお客さんがいた。アジア系の外国人のホームレスが2人、寝転がっていた。薄汚いジャンバーとニット帽を被り、寒いにも関わらず清々しく眠っていた。志貴は踏みつけないよう気をつけながら、おはようございますと挨拶すると、2人とも寝言を言ったかのように挨拶を返した。志貴はその様子に思わず微笑むと、3階のドアまで向かった。
 ドアを開けると、コーヒーを淹れる事務員の沙代の姿が目に入った。沙代は志貴と同じ25歳で、黒のショートヘアーの質素な女の子だ。志貴がコートと背広をハンガーに掛け椅子に座ると、沙代はマグカップを志貴のデスクの上に置いた。白いシャツの上に黒のベスト姿の志貴に沙代は見惚れていた。ネクタイを締め直す姿に、心をときめかしていたが、それと同時にどこか不満そうにツンとした表情をしていた。
「遅刻ですよ、所長」
 志貴は沙代の第一声に、懇願を求めるような微笑を送った。
「少しぐらいの遅刻は大目に見てよ。事務所に来る途中にスミレさんに捕まってさ、いろいろ大変だったの」
「スミレさん?あっ、あの永遠の女子高生の!志貴君、良かったじゃない。あんな綺麗な人に気に入れられて」
「今日がエープリルフールだからといって、そんな冗談はやめて。あの悪夢をどうしても思い出してしまうから。沙代ちゃんにだって、あの時のことを話したでしょ」
 沙代は天井を向いて、志貴の言うあの時のことというのを思い出していた。数秒後、沙代は何のことを言っているのかが分かると、志貴に意地悪な視線を送った。
「悪夢?あっ、もしかして最初に会った時の依頼のこと?スミレさんから聞いたよ。ダンディーなおじ様方からすごくモテモテだったんでしょ?あぁ、羨ましいな~。後、志貴君のドレス姿、写真に撮っておけばよかった」
「嫌なことを思い出させないで。あの時ほど自分を悲しいと思ったことはないんだけど」
「贅沢な悩みよね。わたしだって、言い寄ってくるおじ様の1人や2人欲しいのに」
 沙代の言葉に反撃の糸口を見つけたのか、志貴も少し意地悪な口調になる。
「だったら、お見合いの席でも設けようか?誰か良い人を紹介するよ。特別濃厚な人をね」
「ありがと。でも、まだ結婚したいとは思わないかな。わたしだってまだ若いんだし、いろんな恋をしてみたいな」
「何だか不倫という病にかかったおば様のセリフだな。こんなことを言っているようじゃ、歳を取るのは早いな。時は実に刹那的で残酷なものさ」
「何カッコつけたこと言ってんの!今時そんなシニカルなセリフはウケないよ。それにまだ25よ。志貴君と同い年なんだし、まだまだ若い若い。ほら肌なんて、こんなピチピチよ!」
「えっ!同い年だったっけ?俺はてっきり5つぐらい年上だと思ってたけど、沙代お姉様」
 沙代はこの言葉に歯を食いしばりながら、自分に意地悪な志貴に向かって訴えかけるように、悔しそうな表情を見せる。
「ホントこいつムカつく!何さ!ちょっと顔がいいからって、あまり調子に乗らないでね」
「お褒めの言葉ありがとうございます。顔が良いのは自覚しておりました」
 志貴はさも紳士的に、深くお辞儀をした。沙代は志貴にからかわれたせいか、急に黙り込んでしまった。視線を逸らし不貞腐れてる様子だ。志貴から見た沙代は、上司に叱られ落ち込んでいる女性社員そのものだ。
 志貴はやれやれといった表情で、椅子から立ち上がりズボンの右ポケットから飴玉を取り出す。そして、沙代の顔の前に近づけた。
「少し疲れてるんでしょ?飴ちゃんでも食べたら?」
「子ども扱いしないで。飴玉1つで機嫌を直すって思ってんの?ホントデリカシーないよね、志貴君は。女の子が年齢のことでからかわれてカチンと来るのは、分かりきったことでしょ。飴を貰って誰が喜ぶかってんだ……」
「ハハハッ、手厳しいな。ホント怒りん坊だね。はぁ~、仕方ないな」
 志貴はそう言うと、飴玉を持っている右手を閉じた。
「ほら、見てて」
 沙代に再び優しい微笑みを見せると、右手をグーにして力を込めた。沙代の方は馬鹿にしやがってと言った顔つきで、志貴を横目で睨んでいた。
 しかし、志貴は真剣な様子だ。今までの非礼を詫びるかのように、堅く握りしめた拳に意識を集中させていた。そして沙代に目を向け、ゆっくりと右手を開いた。まるでピアニストのような綺麗な右手には飴玉の姿が見当たらず、その代わり沙代が以前から食べたがっていたパン屋のクッキーが姿を現した。白く小さな満月を目の当たりにすると、沙代は思わず舌なめずりをした。その様子に、志貴は左手を沙代の頬に触れ、クッキーを持った右手をゆっくり沙代の唇へと近づけた。
 サクッ、気持ち良く歯切れの良い音を立てながら、沙代は充分過ぎる程ツンデレな笑みを浮かべた。嬉しさを隠すのに必死なような、まだ許したわけじゃないんだから的なような、今この箇所を読んでいる読者たちが思わずキュンとしてしまうような、そんな表情だ。
「お気に召しましたか、お嬢様?」
「これで許したと思ってるの?」
「フフフッ、まったく素直じゃないんだから。鏡で自分の顔を見てみたら。凄く嬉しそうな顔をしてるよ」
「こんなんじゃ嬉しくも何ともない」
「では、これだったらどうかな?」
 志貴はデスクの引き出しを開けると、何やら大きな包を取り出した。デスクの上に置き表面の白い紙を破ると、パン屋お手製のクッキーセットが姿を現した。その瞬間、沙代の瞳孔が拡張した。
「欲しいんでしょ?それとも欲しくないの?だったら、俺1人で食べちゃうけど、それでいい?」
 沙代は食欲という誘惑に逆らえず、手を伸ばしてしまう。その様子に、志貴はニヤッとした。
「そうそう、素直でなくちゃ!」
 沙代はクッキーをつまみながら、志貴に背を向けた。
「まぁ、これはあれよ。不可抗力って奴よ。別に許したわけじゃないんだから」
「ホント強情だね。だったら、こうするしかないな」
 志貴は突然沙代に迫った。沙代は志貴の急な行動に驚き、壁際へと追いやられる。しかし志貴は逃さないとばかりか、沙代に身体を密着させ、その結果志貴と壁との板挟みとなってしまった。
 沙代は振りほどこうとするが、志貴が左右の手で両腕を掴み阻止する。
「お願いやめて」
「うん?何が?」
「だから、やめてってば!誰かに見られたらどうするの?」
「見られることはないさ。だって事務所の中なんだし、俺と沙代ちゃんの2人っきりなんだから」
 今2人がこうしている様子は、社内で密かに情事をして楽しんでいる男女そのものだ。沙代の如何にも事務員らしい服装を見ると、それが好みの男たちにとってかっこうのおかずになっていただろう。志貴は意地悪な笑みを浮かべると、沙代の耳元で甘く囁いた。
「本当はこういうことを望んでたんじゃないの?」
「……」
「?」
「……サイテー」
「サイテーね。これはきついな。でも、なかなか唆ることを言ってくれるじゃないの」
「……」
 沙代はこの事務所に来る前のOL時代の頃を思い出していた。マンネリとした毎日、ギスギスした人間関係、クレーム、そして上司のセクハラ。嫌な日常が過去のものになったと安心しきっていたのに。でも裏切られた。それも片思いの相手に。そういった想いが一気に込み上げ、沙代の瞳から涙が零れた。
 志貴は今までの意地悪な表情から真剣な表情へと戻り、そしてこう言った。
「俺が最低な男に見える?」
 沙代は赤くほてった目を志貴に向けたが、上手く答えられず困っている小学生のような顔になっていた。志貴ははぁ~と溜め息をつくと、優しい顔で沙代の瞳を見つめた。
「悪かったよ。少しムキになってた。何か沙代ちゃんが冷たく当たってきたから、ちょっとムカついてた」
「……」
「最初は少しからかってやるつもりだったけど、やりすぎたかな。ごめん、謝るよ」
 沙代も自分にも非があるといった感じで、少し申し訳無さそうな表情へと変わった。
「でもね、こうやって沙代ちゃんと触れ合いたいってのは本当さ」
 志貴は真剣な表情を崩さず、再び沙代に身体を近づけた。沙代は困った顔をし、少し抵抗をする。
「俺じゃ駄目なの?」
「……」
「こんなにも胸が苦しいんだ!」
「ちょっと、志貴君!今はダメ!」
 沙代は顔が赤くなり、しどろもどろな様子だ。そんな状態の沙代を追い詰めるように、志貴は強烈な一手となる甘い言葉を囁く。
「今はダメって?じゃあ、いつだったらいいの?」
 この言葉に、沙代は完全に逃げ場を失ってしまった。もう自分の気持ちに素直になるしか道はなく、沙代は恥じらいながらも志貴の全てを受け入れた。
「ねぇ……」
「……」
「……何か言いたいんでしょ?言ってごらん」
「好きにして……」
「何?聞こえない」
「志貴君の好きにして……」
 お互いの背中や腰に腕を回し、そして徐々に顔を近づけていく。沙代は最初視線を逸らしていたが、お互いの顔が近づくにつれ、志貴の方に目を合わせていく。沙代は恋い焦がれる乙女の表情へと変わった。
「いいんだね?」
「うん……」
 見つめ合いながら、2人同時に唇を近づけていく。おセンチな読者を焦らすかのように、ゆっくりとゆっくりとお互いの気持ちを確認しながら、確実に距離を縮めていく。そして触れるか触れないかぐらいの頃になると、志貴が目を閉じ、沙代も目を閉じた。お互いの温もりを感じつつ、沙代は心ときめきながらその瞬間を待った。
 唇に仄かな優しい感触が伝わると思いきや、沙代は自分のおでこに、ピタッと何かを貼り付けられる感触がした。沙代は目を開けると、志貴の笑いをこらえている様子が目に見えた。沙代は自分の額にくっついている何かを取った。何なのか確かめると、エープリルフールと書かれた小さなメモ用紙だった。
「!!」
「ハハハッ!沙代ちゃんごめん。今日はエープリルフールだから、ちょっと担がせてもらったよ」
「志貴テメェ~!」
「俺が節操のない男に見える?女の子にすぐ手を出す軽い男だと?仕事とプライベートの区別ぐらいちゃんと分かってるさ。それと、俺あんな臭いセリフ言わないしね。沙代ちゃんとはこれからも良好な仕事仲間の関係でいたいからさ。さぁさぁ、仕事仕事!」
「チキショー!」
 沙代は悔しかったが、それと同時に笑ってもいた。いつもこうなのだ。しがない日々なのかもしれない。それでもこうやってお互いからかいながら、いつも笑っているのだ。こんな些細なことに、沙代は幸せを感じている。志貴も沙代の笑っている様子を見ていて微笑んでいたが、同時にどこか暗い翳りも見せていた。
 ひとまず場は落ち着き、志貴はコーヒーを啜っていた。沙代はクッキーをパクパクつまみながら、冴えない事務所の中を見渡す。書類を整理している棚を見ながら、不満そうに所長に一声かける。
「ねぇ。そろそろウチの事務所もホームページを作って、書類もネット上で管理できるようにしたら?」
「こうやって紙の書類を事務所で管理することが、一番無難だよ。書類をクラウド上で管理したら、それこそハッカーの標的だ。依頼人のプライバシーを出来る限り守ることが大切なんだから」
「でもさぁ~、そうするとわたしの負担が大きくなるんだけど」
「仕方ないでしょ。それが沙代ちゃんの仕事なんだから」
「でも今企業は疎か、幼稚園でもパソコンやタブレットを使うのが当たり前になっているでしょ」
「確かに」
「だったら、ウチもパソコン使おうよ!」
「嫌だ」
「何で?今はもう眼鏡を掛けただけで、仮想空間の中でチャットができる時代になってるんだよ!」
「でも、ネット中毒症患者も一気に増えた。若い世代を中心にね。だから、何社か販売を中止にしたでしょ」
「……」
「……人ってのは、実際に手で触れたりその場で体験しない限り、成長出来ないって思ってるんだ。この前本を読んだときもある心理学者がそんなことを言ってたし、俺自身の経験からもそう思う。本物に触れるってことは、それだけでその人の精神に影響を与える。だから、こうやって直に人と会う仕事をしてるんだ。幻の世界に居座り続けるのは、やはり不健全だよ。そういった感覚の不一致が、中毒症の誘発を招く原因になるんだと思う」
「確かにそうかもしれないけどさぁ~、少しはコンピューターに頼ってもいいんじゃない。依頼人のプライバシーを守るってのもさぁ~、最近の依頼は、人手が足りないから介護施設や建設現場で臨時で働いてくれってのがほとんどじゃない。事務所もこんなにアナログじゃ、時代の波についていけないと思うんだけどなぁ~」
「どんな依頼でも依頼は依頼。依頼が雑用の手伝いだからって、依頼人のプライバシーはしっかり守らないと。それが俺のポリシーだし、これからも絶対に曲げない。それに書類の作成やネットの情報収集は、俺が家に帰ってからずっとやってるでしょ。それで充分事足りるし、別の場所で作業することによって、より依頼の秘密保持にも繋がるからね。だから依頼によっては、報告書を別の場所で作成したり保管したりしてるんだよ。沙代ちゃんの知らない場所にね。それだけ重要なんだよ。もうとっくにネット社会になってるけどさ、その分プライバシーってのがホント無くなってきてるでしょ?だから、こういった事務所が今必要なんだよ。大した依頼は来ないけどさ、今まで事務所が存続できたのはそれが理由。もう、この話はお終いにしようか」
 話を打ち切られ、沙代はきょとんとした様子だった。しかし、突然シャキッとした表情へと変わった。
「あっ、思い出した!そう言えば、志貴君が来る少し前に依頼の電話があった」
「それを早く言えよ!」
「ゴメンゴメン。何か人探しの依頼なんだって」
「何だか久しぶりに探偵らしい仕事ができそうじゃない。依頼の内容を詳しく説明して」
「詳しいことは、志貴君に直接話したいって。だからどういった事情かは……今日の午後4時に楊さんのお店で話したいとのこと。ウチの事務所を紹介してくれたのが楊さんなんだって」
「楊さんか。あれから元気にやってるかなぁ?依頼のついでに、楊さんにも挨拶してこよう。ところで、依頼人の名前は?」
「陳って人」
「陳さんと午後4時に、楊さんのお店で待ち合わせと。了解。帰りに餃子でも買って来るよ」
「やったね!あっそうそう、今日の午前中は公園のトイレ掃除の手伝いね」
「あっ、そうだった。てかさぁ~、沙代ちゃんも便利屋の仕事、少しは手伝ってもいいんじゃない?」
「そしたら、事務所に人が1人もいなくなるじゃない。次の依頼やら何やらで、やっぱり事務所に必ず1人は残らなくっちゃ」
「ホント、こういう時は上手く逃げるんだから。もうすぐ9時か。そろそろ行くね。事務所頼むよ」
「餃子忘れないでね」
 志貴は立ち上がり、ロッカーから作業着を取り出した。黒革の鞄に詰め、コートを羽織った。そして資料の整理をしている沙代の様子を見てにっこり笑うと、事務所を後にした。