住宅街にある小さな公園には、すでに誰もいなかった。周囲は夕闇の青色に溶け込んでしまい、たった一つある街灯がベンチの側で皓々と灯っている。先輩は私をベンチに座らせると、ハンカチを濡らすために水道へ向かった。
 明らかに先輩は怒っていた。最低限のセリフしか口にしないし、目を合わせようとしない。
 それだけのことをしたのだとわかっている。万引きは単独ではなく集団で行われる場合もあるし、反撃される可能性もあるから、その現場を見つけても決して一人で声をかけないのがセオリーだ。人目があったとはいえ、亜樹先輩がいなければ、この程度のケガでは済まなかっただろう。
 反省はしているが、あの場で説教を受けるにはいかなかった。別にうやむやにしたかったわけではなく、この件が大事になりフェミニストの会長にばれたら、私ではなく先輩が怒りを買ってしまうかもしれないからだ。私を助けたのに怒られるのでは、さすがに先輩に申し訳なさすぎる。
 しかし、そのせいで私を叱責するタイミングを奪ってしまった。先輩としては女の顔に傷をつけた相手を厳しく追及できなかったことにも腹が立っているようだった。
 とにかく、心配をかけてしまった自覚はあるので、素直に謝罪を口にする。
「申し訳ございませんでした。軽率な行動でした」
 しかし、先輩は私の前に立ちながら、斜め下から視線を動かさない。
「別に……謝ってもらう必要はないけど」
「いえ、ご迷惑をおかけしましたので」
 深々と頭を下げると、散々ためらった後にようやく、すねたような口調でつぶやいた。
「迷惑じゃないけど……心配、しました」
「はい。すみません」
 先輩は言いたいことが百くらいあるような困った顔で、髪をかき上げる。それから、体中の空気を全てはき出すような溜息をついた。
「……先輩?」
「いや、なんでもない。俺ってホント、弱いなって思っただけ……」
 亜樹先輩は苦笑すると、首を横に振り、いつもの声音に戻って尋ねてきた。
「それで? 何で、あんなことをしたの? 危ないって、わかってたんだよね?」
「……功を焦ったといいますか、血気にはやったといいますか……、いえ、違いますね。自分の至らなさを痛感して、やけになっていただけです」
 あの一瞬、本気で自分に絶望した。もう、何をしても無駄だと思ってしまった。そうして自暴自棄になった。
 いつもならば、もっと冷静に状況を分析して、最善の方法を考えたはずなのに。
「……三澄さんでも、落ち込むんだ?」
 先輩は不思議そうに首をかしげる。
「当然でしょう。ただでさえあんな人が側にいるんですから」
 私を副会長に任命した理由。それは、私が会長を嫌っているからだと言った。
 意図はわからない。考えられるのは、自分を戒めるため。あるいは、広く意見を集めるためか。
 私なら、そんな相手は自分の周りから排除したいと思う。自分を否定されるのは嫌だし、指示に刃向かうばかりの人間が側にいたら、邪魔で仕方がないだろう。
 副会長を指名されて以来、何度も辞任しようとして、そのたびに会長に止められた。嫌がらせなのだと思っていた。勝者の余裕を見せつけて、私をあざ笑っているのだと。
 そうであれば、精神レベルが同じだと安心できた。だから私も敵意を返せたのだ。
 それなのに、会長から不当な評価をされたのではないかと思ったら傷ついた。私がどれだけ嫌ったとしても、会長は好悪の情で判断を鈍らせたりはしないと、彼にも自分にも甘えていた。
 これもまた会長と自分の差。
 自分は小物だ。小物で、平凡だ。度量の小ささを、思い知らされた。
「でも、生徒会長になるのは諦めないんだよね?」
「…………」
 私は先輩の意図を計りかねてしばし考えた。しかし結局、思ったままのことを口にする。
「私は、会長になれる器ではないのかもしれません。会長のことはまだしも、役員のみんなのことも、信用していなかったのだと気づかされました」
 きっと、私に一番足りなかったのはそれだった。私は自分にしか興味がなくて、周りをよく見ていなかった。だから簡単なことにも気づけなかった。自分で自分は見られないのに。他人を通してしか見えない自分もいるのに。
 一度下を向き、自分の意思を確認する。殴られたからというと(しゃく)だが、おかげで頭を冷やすことができた。
「……ですが、向いているから会長に立候補したわけではありません。会長……一城生徒会長になりたいわけでもなく、私は私で、やりたいことがあるからそうしたんです。自分よりもっと向いている人がいるからと、そこで止まっていたら、何もできませんから」
 そしてやっぱり、会長は天敵なのだ。自分を省みた後でも、そこは全然変わらなかった。
「……やっぱり、三澄さんは強いね」
 先輩がつぶやいた。
 強いわけではない。今まさに、そうではないところを目撃したはずなのに。
 反論しようとしたが、いつの間にか、先輩の顔がすぐ目の前にあって驚く。しゃがんで視線の高さを合わせ、腫れた頬にハンカチを当ててくれているのだ。
 先輩にそこまでさせて申し訳ないが、ちょうど良いチャンスだ。私はハンカチを持った先輩の手の上に自分のそれを重ね、しっかりと頬に押しつけた。
「み、三澄さん!?」
「ところで話は変わりますが、先輩は、なぜここに?」
 強引に話をそらすと、亜樹先輩は顔をこわばらせた。身を引いて離れようとしたのを、手に力を入れることで阻止する。
「今日は、巡回はお休みでしたよね?」
「そっ……、それは、明日で最後だから、下見っていうか……、じゃなくて! ちちち、近いから! は、離してくれないかな!?」
「――バスケ部の説得は、あなたが行ったんですね」
 そう言うと、先輩はさっと青ざめた。ほんの一瞬、視線を自分の制服に走らせる。私のものとは違う、濃い緑色の制服に。
「こっ、……これは……」
「私が間抜けでした。考えれば……、いえ、考えるまでもなくわかることだったのに」
 最初から違和感はあったのだ。
 なぜ現地集合なのか。向かう先が同じなら、学校から一緒に行けばいいではないか。さすがに他校の生徒を会長の一存で校舎内にいれるわけにはいかなかったのだろうと、今ならわかる。
 会議の後、他の部と同様、空手部にも話を聞きに行った。そこの部長に、何の気なしに亜樹先輩の所在を聞いてみたのだ。
 彼は言った。そういう名前の知り合いは確かにいる。だがそれは、常磐(ときわ)高校の空手部部長だと。
「――ごめん! 本当にごめん! 明日にはちゃんと話そうと思ってたんだ」
 私が手を離すと、亜樹先輩は立ち上がって頭を下げた。
「なんというか……、俺も最初はこんな本格的に騙すつもりじゃなくて、ちょっとしたきっかけを作ってもらうだけのつもりで……!」
「? よくわかりませんが、先輩は頼まれただけでしょう。会長はフェミニストですから、一応女である私の護衛役として、腕の立つ人が必要だった。だからあなたに押しつけた。そういうことではないのですか?」
「あ、いや、それは……」
 先輩は困ったように口ごもった。会長から口止めされているのかもしれないが、散々騙されたのだ。追及の手を緩めるつもりはない。
「同じように、ただ兄弟だからという理由で、葉琉(はる)先輩の説得も任されたんでしょう? 幼なじみだからってそこまでするんですか? なにか、弱みでも握られているのでは――」
「……いや、三澄さん、違うんだ。これは、交換条件だったんだよ」
 突如、強い口調で、先輩が話を遮った。
「……え?」
「もともと、俺が一城(いちじょう)に頼んだんだ。君に会う方法がないかって。その機会をつくってもらう代わりに、葉琉の説得を頼まれた。あいつ、昔から俺の言うことなら割ときくから」
 私は呆然とする。先輩が私に会いたかった? 意味が分からない。
「私に……、何か用があったんですか? でも、特に面識は」
「うん。全然、覚えてなかったよね。少しは期待してたんだけど」
 先輩が、ハンカチを握った手を目の前まで持ち上げた。街灯の光をあてると、青い花の模様が見てとれた。……とても、見覚えがある。
「実は、群青(ぐんじょう)高校の去年の文化祭の時に会ってるんだ。俺、葉琉と校内をまわっててね。廊下にあったオブジェが規定の高さより低かったらしくて、俺たち二人とも頭をぶつけちゃったんだ。そのとき、俺にハンカチを貸してくれたのが、たまたま見回りで近くにいた君だった。他の人たちは、真っ先に葉琉を心配したのに」
 そうだっただろうか。
 昨年の文化祭は問題がやたら発生し、私も役員の仕事に不慣れだったため、嵐のように過ぎ去ったことしか覚えていない。
 だからたぶん、次々起こるトラブルをさばくのに必死で、ただ手前にいた人を気に懸けただけではないだろうか。それが亜樹先輩ではなく、葉琉先輩だったらきっと、葉琉先輩にハンカチを差し出していた。
 そう言うと、亜樹先輩はほほえんだ。
「そうなのかもね。でも、君は最初に目が合った俺を迷わず心配してくれた。結構さ、俺とあいつを見比べてから、結局葉琉を選ぶ人が多いんだ。だから、嬉しかったんだよね。ハンカチも借りたままだったし、どうしてもお礼が言いたくて。でも、葉琉はあのとき君のことは見てなかったみたいで、この間たまたま会った一城に、ダメ元で聞いてみたんだ。そうしたら、すぐに君の名前を教えてくれた。だけど、ちゃんと会ってお礼を言いたいって言ったら、三澄さんはそういうの嫌がるよって」
 花柄のハンカチを手に取った。無くしたと思っていたときは残念だったが、そういういきさつで人の手に渡っていたのなら、戻ってこなくても惜しくはないと思う。
 確かに私なら、そのまま持っていても構わない、と、会うのを拒否するだろう。
 そんなところまで見透かされているのが面白くなくて、心の中で舌打ちする。しかも、さっきの言葉も嘘だったのだ。いや、嘘というよりは、全てを語っていなかったということか。
「それでわざわざこんな猿芝居を」
「……ごめん」
 純真そうな顔が申し訳なさそうにゆがむ。騙す気満々だった会長はむかつくが、先輩はそこまで謝る必要はないのではないだろうか。
「あのときは、心配してくれてありがとう。本当は、何かお礼もしたかったんだけど、三澄さん、何がいいのかわからなくて」
「……ああ……」
 ここ数日間の先輩の言動を思い出す。あの不審な行動の理由はそれだったのか。
「私は生徒会の仕事をしただけです。それだけで何かいただくわけにはいきません」
 にべもない返事に、先輩は苦笑を浮かべる。
「むしろ、我々生徒会の事情に巻き込んでしまって申し訳ありません」
 考えてみれば、亜樹先輩はただハンカチを返すためだけに、他校の巡回業務に付き合わされ、バスケ部の説得を強要され、あげくに万引き騒ぎに付き合わされたわけだ。お人好しすぎて今後が心配になる。
 しかし先輩は、決まりが悪そうな面持ちで頭を掻くと、意を決したように口を開いた。
「この際だから全部言っちゃうけど、三澄さん、俺のこと誤解してると思うんだ。部活のこともだけど、別に俺、バスケに挫折したから空手部に入部したんじゃないよ。もともと空手に興味があって、最初から空手部に入ったんだ」
「そう……なんですか?」
 負け惜しみかと思ったが、先輩の顔にごまかすような表情は見られなかった。
「うん。それに、葉琉が空手部に入らないよう画策もした。同じ部に入ると比較されるし、後から始めておいてあっという間に抜いていくのがまたむかつくからさ。一応俺が数分だけ兄だからか、あいつ、昔から俺のマネばっかりしたがるんだ。だから、先にバスケに興味を持つように誘導してから、こっそり空手部に入部した。バスケも割と好きだったし、あいつも絶対に興味持つだろうって思ってたから」
(――この人って……)
 街灯を背に私を見下ろすその顔には濃い影が落ちていて、目だけがやけに光って見えた。
 会ってから数日。短い間だが、それなりに観察してきたつもりだった。けれど、突然、別人のように見えた。
 目の前に立つ亜樹先輩の姿を上から下まで見つめ直す。
 人気者の双子の弟にコンプレックスを持っていて、受け身で卑屈な、ただ流されているだけの、そんな人ではなかったのか。
 そうだ。
 私は先輩のことも、ちゃんと見ていなかったのだ。
「それが本当なら……。先輩は……、意外としたたかなんですね……」
 先輩が目を細めて唇の端を上げる。
「……軽蔑、する?」
「まさか」
 軽蔑なんてするはずがない。自分に都合のいいように周囲を動かそうとすることなんて、誰でもやっていることだ。
 亜樹先輩は、ハンカチをぬらし直して、手渡してくれた。私がそれを頬に当てる間に、先輩はまたばつの悪そうな顔に戻ってしまう。
 やっぱり、いい人なのだろう。騙していたことになのか、私のケガになのかわからないが、引け目を感じているというのなら、せっかくだし利用させてもらおう。
 今回のことは散々だったが、私は転んでもただで起きるつもりはない。
「そんなに罪悪感を抱いておいでなら……謝罪は結構ですから、弱みを一つ教えて下さい」
「……え?」
 先輩はきょとんとしている。私はもう一度言った。
「今度、何かあったときに脅しに使わせていただきますので、そのためのネタを下さい」
「は……はあ!?」
 先輩は目を白黒させた。まあ、当然の反応だろう。
「な……、何言ってるかわかってるの、三澄さん!?」
「当然です。判っているからこそ、正々堂々とお聞きしているんです。こそこそ弱点を探るのは失礼ですし、なんだか卑怯じゃないですか」
「お、脅すこと自体が卑怯だからね!?」
「そうですね。だからせめて卑怯さを減らしておこうと思いまして。いきすぎない卑怯さと正直さを併せ持っているのが私達でしょう?」
 私はにっこりと笑って言った。
 私達はやっぱり似ている。卑屈で、ゆがんでいて、それでも自分なりに前に進んでいこうと、もがいているところが。
 先輩は虚を突かれたような顔をして、それから、口元に手を当てて視線をさまよわせた。心底悩んでいるようで、青白い光の下で見るその横顔は険しい。
 辛抱強く返事を待っていると、ようやく、心を決めた瞳がこちらを向いて、解けた。
 その顔を見たとき、ふいに会長の言葉が頭をよぎった。
 ――鈴城先輩は、心を許した相手にはめっぽう弱い人なんだ。
 あれは、どちらの先輩のことだったのだろうか。
 葉琉先輩か、亜樹先輩か。
 それとも……。

「君が、俺の弱点を知る必要があるのかは疑問だけど……」
 少しだけ首をかしげ、観念したかのようにほほえんだ。
「俺の弱点は、君だよ。君のことが、好きなんだ」