好きな人の好きな人

 顔のむくみは何とかごまかせる程度だったけど、直央くんとは顔を合わしにくい。

きっとそんなこと、向こうは一切気にしてないんだろうけど……。

朝の来待ちも、放課後一緒に勉強するようになってから意味あるのかなーとか、「おはよう」の一言のためだけに、こんなに頑張る必要なくない? とか、今までの自分の努力が全部無駄だったってことに、なんとなく気づいてるけど気づきたくない。

「おいっす」

 広太くんだ。

いつも私が直央くんを待っていた柱の陰から顔を出す。

「あぁ、おはよう。どうしたの?」

「一緒に学校行こう」

「う、うん」

 えぇ~っと……。

私はここで、直央くんを待つつもりだったんだけど、そんなこと広太くんは知らないし、そんなことやってたなんて知られるのも昨日の今日でなおさら恥ずかしいし、そもそも私が今日は待ちたくない。

しばらくモジモジしていると、彼の方が先に動き出した。

「ちょ、待ってよ」

 彼の背中を追いかける。

夏が近づき、強さを増してゆく朝の光が視界を照りつける。

広太くんは手をかざし目を細めた。

「暑くなるかなー」

「これからが本番だよね」

 こちらを見下ろして、ふっと微笑む。

直央くんより少し背が高い。

柔らかな茶色い髪が日に透けている。

昨晩のことを謝った方がいいのか、お礼を言った方がいいのか。

だけど彼からは何も言ってこないし、こっちから振るのもなんか違うっていうか恥ずかしいし……。

 もう一度広太くんを見上げる。

一緒に行こうと誘ってくれたわりには、なんにもしゃべらないんだな。

これだとただ偶然に並んで歩いてるだけで、全然友達にもクラスメイトにも見えなさそう。

「昨日は、ゴメンね」

「なにが?」

「電話」

「……」

 返事がない。

そっか、特に興味もなかったよね。

もしかして覚えてもない? 

それもゴメン。

靴箱に着いた。

先に着いた彼はその扉を開ける。

「今日さ……」

 私は自分の靴を拾い上げた。

「放課後、待ってる」

「え?」

「勉強終わったら、一緒に帰ろう」

 階段を上がってゆく彼の背を、呆然と眺めている。

え? どういうこと? 

放課後の直央くんとの勉強は、続けたいんだけどな……。

だって、その繋がりまでなくなってしまったら、本当に私は何でもない「ただのクラスメイト」になってしまう……。

 昼休み、久しぶりに広太くんからゲームのお誘いが入った。

すっかり忘れていた。

広太くんは、ゲーム仲間が欲しかったのかな? 

イベントも何もない時期みたいだけど、よっぽどこのゲームが好きなんだな。

『今日、待ってなくていいよ』

 チャット欄にそう送る。

すぐに返事が返ってきた。

『勉強の邪魔はしないから。終わるまで下で待ってる』

 賑やかな教室の向こう、彼を振り返った。

何でもない素振りでスマホをいじっている。

だから、なんで待つ? 

本気で待ってなくていいんだけど……。

『遅くなっても知らないよ。先帰ってて全然いいから』

 返事が返ってくるよりも先に、チャイムが鳴った。

画面を閉じる。

教室の広太くんを振り返った。

彼は私には見向きもしないで、自分の席へと向かう。

私はその背中にため息をついて、午後からの教科書を広げた。

 放課後を知らせるチャイムが鳴り、すぐにSNSで広太くんに『先帰ってていいよ』と、もう一度メッセージを打つ。

直央くんとの時間を邪魔されたくないってのも、正直なところ。広太くんはすでに教室から出ていた。

廊下の向こうへ消える横顔を見送る。

何考えてるか分かんないけど、私はもう知らないからね。

「あーお待たせ。今日はいっぱい宿題出てるね」

「うん。ちょうどよかった」

「え?」

 そんなに長い間、ここで過ごすのが嬉しい? 

彼はごそごそと机にプリントを並べる。

今日は化学のプリントと漢字テスト、英単語の小テスト対策と、数学の大問が3つある。

学校の宿題って、真面目に一人でやろうと思えば、結構なボリュームがあるよね。

私は彼の前の席を動かそうと、机に手をかけた。

窓の外に、校舎から出てくる広太くんが見える。

そのまま帰ってくれると思っていたのに、本当にいつもの木の下に腰を下ろした。

「全部やって帰れるかな」

「途中で切り上げないといけないかもね」

「うん」

 直央くんの視線が、窓の外へ向いている。

私も後ろを振り返った。

広太くんの元へ、通学用のリュックを背負ったカノジョが駆け寄る。

何かを話していた。

「なんだ、やっぱり付き合ってんだ」

 だとしたら、広太くんが待っているのは千香ちゃん? 

「いや、違うと思うよ。あの二人、仲はいいけど、そんなんじゃないって……」

 直央くんは化学のプリントを広げる。

私はその顔をのぞき込んだ。

「あ、いや。彼女が自分で、そうやって言ってたから……」

 彼の顔は赤くなる。

学校でほとんど顔を合わせてない二人が、どうして? 

いつ連絡取り合ってんの? 

直央くんがスマホを取り出す。

ホーム画面に、あのゲームアプリのアイコンが見えた。

「あ、そのゲーム、私もやってるよ」

「え? そうなの?」

 直央くんに教えてもらってアプリ入れたのに、覚えてないんだ。

私の中で何かの勘が働く。

「それ、千香ちゃんもやってるの?」

「え、本当に?」

 驚いた直央くんの目が、私をみつめる。

「あ、いや。千香ちゃんがやってるから、直央くんもやってるのかなーって……」

「あぁ……。それは違うんだけど……。そっか、じゃあ今度聞いてみようかな……」

「普段、学校じゃしゃべらないけど、連絡とかはしてるんだ」

「スマホでね。そこはしっかり……」

「はは。じゃあやることはやってんだ」

「やることって……。まぁ、できる限りの努力はしてますよ」

 なんだ。

やっぱり、そういうところでちゃんとどっかでは繋がってんだ。

「私も同じゲーム入れたんだけど……」

 そう言うと、彼はそのアプリを起動させた。

「いや、俺も気まぐれで落としただけで、最近はあんまりやってなかったし」

 私もそのアイコンをタップし、起動させる。

「ねぇ、ちょっとだけ今、ゲームやらない?」

 SNSから彼にゲーム内チームへの招待状を送る。

それを開いた彼が言った。

「あぁ。同じチームに登録するのはいいけど、これじゃ一緒にイベントバトルには出られないよ。同じ火属性だから、タッグは組めない」

 アプリを起動させたから、私がゲームを始めたことを知らせる通知が広太くんに飛んで、広太くんのキャラが私のホームに入ってくる。

直央くんがそれに気づいた。

「あれ? 誰コレ。広太?」

 私は窓の外をのぞき込む。

確かに彼は、スマホ画面を見ていた。

『勉強してんじゃないの?』チャット欄にコメントが入る。

「なになに。彩亜ちゃん広太と仲良かったんだ」

 私が火属性で、広太くんが水で、アプリを起動させたとたん、時々手伝ってくれる雷属性の男の子キャラの子が入った。

「なに、本当に好きなんだね。ゲーム仲間だったんだ」

『なんでゲーム? いつもここで待ってて、ゲームで時間潰してたの?』

『お前は来んな』

『なんでよ、こないだのイベントも手伝ってあげたのに』

『つーかなんでチャット? 普通にしゃべれよ』

『普通に話しかけても、あんたが答えないからでしょ』

 私は背後を振り返る。

広太くんの隣にいる、カノジョもスマホを操作していた。

『私、これから部活なんだけど』

『さっさと行け』

『私が抜けたら、3種バトルのタッグが成立しないよ?』

「どうかした?」

 直央くんの声に、ゲームアプリを飛ばした。

「ううん。直央くんと一緒にゲーム出来ないなら、もういいや」

「なにそれ」

 そう言って彼は笑う。

「そりゃ3種類のタッグバトルは出来ないけど、火属性だけの3人でやる人たちもいるし……」

「弱いじゃん」

「まぁね」

「勝てないよね」

「属性的に相手は選ぶよね。イベントとかじゃなくて、普通のレギュラーバトルになるけど」

「あんま意味ないし」

「それで勝つのが楽しいんじゃないの?」

 私は、直央くんと一緒じゃないと意味がないのに……。

「ま、ゲームやってる場合じゃないし」

「それな」

 彼もアプリを閉じた。

私たちは、宿題を済ませなければならない。

彼の視線は窓の外を彷徨う。

「……。広太があのゲームやってんのなら、千香ちゃんもやってんのかな……」

「あんまり、ゲームとかするイメージないよね」

「確かに」

「やってないでしょ」

「……。だといいな……」

 私は化学のプリントを開く。

外で待ってる? 

カノジョも待ってんじゃないの?

「あ……」

 私はようやく、そのことに気づいた。

「ん? どうした?」

「いや。なんでもない」

 アノ子は、広太くんが好きなんだ。

そのことを、直央くんは知ってるんだ。

「今日は帰るの、遅くなりそうだね」

「うん。頑張ろう」

 なんだ。

そうか。

そうだったんだ。

だから直央くんは、ここでカノジョが広太くんを待っているのを、ずっと見てたんだ。

広太くんがいるから、カノジョはここに来て、ここでわざわざフルート吹いて、それを直央くんが……。

だったらそのまま、広太くんがカノジョと付き合ってくれればいいのに……。

「直央くんは、化学得意?」

「まぁ、普通くらいには……」

「私、苦手なんだよね。よかったら教えて」

 彼と向き合う時間を、誰にも邪魔されたくない。

このままずっと、ここに居られればいいのに。

そう思えば思うほど時間はあっという間に過ぎて、完全下校時刻を知らせるチャイムが鳴る。

「もう帰らないと」

「そうだね」

 机を戻すタイミングで、下をのぞき込んだ。

木のところには誰もいない。

よかった。

先に帰ったんだ。

ほっと胸をなで下ろす。

これで今日も安心して、直央くんと一緒に駅まで帰れる。

「行こう」

 2人並んで教室を出る。

「ね、コンビニの新作アイス食べた?」

「は? 何それ」

「季節限定のソフトクリーム。前のは逃したって言ってたでしょ」

「あぁ、あれか」

「食べに行こう。ちょっと寄ってみていい?」

「えー……、俺は別に……」

「いいからちょっと付き合ってってば」

 先に靴箱に駆け寄る。

それを約束してくれないと、ここから出られない。

「別にアイスって、そんな食いたいもんでもないし……」

「えー。そこは食べとこうよ。期間限定アイスだよ?」

 ふいに靴箱の影を横切った人影が、直央くんの後ろから顔を出した。

広太くんだ。

「あー。終わった?」

「うわっ、びっくりした。どこに居たの?」

「トイレ。もう帰るでしょ」

 驚いた直央くんも、広太くんに声をかける。

「なんで居んの?」

「いちゃ悪いかよ」

 広太くんは靴を履き替える。

「俺もアイス食う」

 流れのまま3人で外に出る。

広太くんは私の隣に並んだ。

「おべんきょ、終わった?」

「今日の宿題はね」

「夜電話する。後で教えて」

「あー!」

 突然の大きな声に振り返る。

「なにしてんの?」

 カノジョだ。

長い黒髪が揺れる。

「待ってくれてたんじゃないの?」

 その手は、広太くんの腕に触れた。

「一緒に帰るんだと思ってた」

「は?」

 広太くんは眉をしかめる。

幼なじみだという二人の距離感が、何となく私をそこから遠ざける。

二人は言い争いをしているつもりなのかもしれないけど、外から見るとカップルがいちゃついてるようにしか見えない。

ふと見上げた直央くんの視線は、じっとカノジョに注がれていた。

「あ、私、やっぱり先帰るね」

 こんなところになんて、居られない。

「じゃ、お先に……」

「俺も帰る」

 そう言ったのは、直央くんだった。

じっと私を見下ろす。

「一緒に帰ろう」

「う、うん」

 その言葉に、並んで歩き出す。

私は直央くんに連れられて、校門を出た。

「あの二人、仲いいもんね。ちょっと入りにくいよね」

 直央くんの足取りは、私が追いつけないほど速くって、その横顔を見上げることも出来ない。

「あぁいうの、他の人がいるところではやめて欲しいよね。迷惑っていうか、一緒にいる方もどうしていいのか反応に困るし……」

「ゴメン。先、帰るね」

「う、うん。また明日……」

 彼の歩くスピードは私と並んでいても変わることはない。

赤く染まり始めた空に、彼の背がぐんぐん遠ざかっていく。

置いていかれた私は自然に涙があふれてきて、頬を流れるそれを拭った。

それでも彼の視界に入りたくて、意識して欲しくて、こんなに頑張ってるのに。

フラれたのに、まだ大好きなんだね。

そんなに好きな人がいるんだったら、もう絶対私なんてムリだ。

疲れる。

こんなにしんどくて辛い思いをするなら、もう好きな人なんて……。

「いた!」

 大きな声に振り返る。

広太くんだ。

「なに? 俺が来るの待っててくれたの?」

 彼は嬉しそうに隣に並ぶ。

「待ってない……」

「アイス食いたかったんだろ? 行こうぜ」

「だから、待ってないって……」

「俺は待ってるって言ったよ」

 彼はニッと笑った。

「アイス食ってゲーセン行こうぜ」

「……。もう遅いから帰る……」

「あはははは。真面目かよ」

 それでも広太くんは、やたら嬉しそうだった。

「じゃ、アイス食って帰ろ」

 正直に言うと、私だってそんなにアイスが食べたかったわけじゃない。

ただ直央くんと、少しでも同じ時間を共有したかっただけ。

コンビニに入って、おごるって言ってくれたけど、おごられる義理もないので自分でお金を出す。

店のイートインカウンターが空いていたので、そこに並んで座った。

 座ってみると椅子は固定されていて、隣といっても近いようで遠くて、放っておくと溶けちゃうアイスクリームは、すぐに食べなくちゃいけなくて、何を話そうかなんて、話題を探す暇も余裕もない。

じっと白い壁を見ながらマンゴーアイスを食べていて、横目にチラリと確認すると、彼も壁を見ながら同じアイスを食べていて、なんでこの時間にこんな状況に自分が今いるのかが、とっても不思議でやりきれない。

広太くんの方が先にバリバリとコーンをかじり始めて、すぐに食べ終えてしまった。

彼は頬杖をつき、じっとこっちを見ている。

それに気づいているけど気づかないフリをして、急いで冷たいアイスを食べ終えた。

「終わった?」

「うん」

 私は彼の方を見られなくて、コーンに巻き付いていた紙を小さく折りたたむ。

「帰ろっか」

 コンビニのドアを誰かに開けてもらって、外に出るのなんて久しぶり。

すっかり暗くなってしまった歩き慣れた道を、ぎこちない足取りで歩く。

ずっと何も話さないまま駅まで来てしまった。

やっぱり無言のまま改札をくぐる。

「じゃ」

「またね」

 同じ車線でありながら、私とは反対の階段からホームへ上ってゆく彼の背を見ながら、夜に電話がかかってくるのかなーなんて、ちょっと思ったりなんかしたけど、その日、彼からの電話にスマホ画面が光ることはなかった。
 翌朝、改札をくぐると一番に声をかけてきたのは直央くんだった。

「おはよ」

「え? えぇ?」

「……。昨日は、ゴメン。先、帰っちゃって……」

 そう言うと彼は、恥ずかしそうにうつむいた。

「俺もさ、ちょっと腹立っててさ、大人げなかったなーって……」

「う、ううん。いいの。それは、私も……分かってるから」

 歩き出した彼の速度は、初めて私に丁度良かった。

「昨日さ、実はあの後、すぐに謝ろうと思って駅で待ってたんだ。来ると思って」

「え?」

「だけど、結局会えなかったから……」

 直央くんを見上げる。

彼はそっと微笑んだ。

「……今日もさ、放課後一緒に宿題出来る?」

「う、うん」

「もし、宿題出てなくても……。ちょっと聞いて欲しいことがあるから、いいかな」

「分かった」

 フッと笑って、彼は真っ直ぐ前を向く。

いつもの通学路に戻った。

「今日英語の当たる順番誰だっけ」

「え~っと、金曜日だから……」

 もう放課後が待ち遠しい。

昨日はどうして、あのまま先に帰ってしまわなかったんだろう。

直央くんと話してるのに、何にも内容が入ってこない。

頭の中がふわふわしたまま、靴箱までたどり着く。

「じゃ、後で」

「うん」

 昼休みには、いつものように広太くんとゲームをして過ごす。

『同じ火チームだと、イベントバトル出来ないってマ?』

『知らなかったの?』

『火の人とタッグ組めないじゃん』

『そ』

『ショック』

『火の人で組みたい人がいたんだ』

 ランダムマッチで当たった相手が強い。

いつも積極的に参加してくれるカミナリアカウントの人が今日はいなくて、たまたまマッチングした見ず知らずの野良アカウント雷の人が、あんまり強くない。

カウンター攻撃が入った。

私もまだレベルが低くて、勝負は水タイプの広太くん頼みだ。

その広太くんが、味方チーム全員の回復アイテムを使い、形勢を立て直した。

防御力アップの魔法をかける。

『アカウント削除して最初から始めたら、出来ないことはないよ』

 雷アカウントの人が、攻撃力倍増の呪文を唱えた。

私はスピードアップの護符を使う。

相手からの最後の攻撃を耐え抜いた。

水タイプの大技を繰り出した広太くんの一撃で、辛うじて勝利を収める。

雷アカウントの人は、お礼の定型文を返して消えた。

昼休み終了のチャイムが鳴る。

『今日も待ってる』

 広太くんの水キャラも画面から消えた。

私はため息をついて教室の彼をのぞき見る。

友達と笑いながら何かをしゃべっているその横顔からは、このメッセージの意図は何にも読み取れなくて、昨日みたいなことがあるんだったら、むしろ待たないで先に帰っててほしい。

出来ればアノ子と一緒に……。

 放課後だけが楽しみで、毎日学校に通っている。

昼休みが終わって半分。

午後からの授業は午前中より流れる時間が0.5倍速に感じる。

世界一ダルい5時間目と6時間目の授業が終わって、掃除が始まった。

今日は雑巾を持って、窓を拭きにいく。

ちゃんときれいにしておかないと、ここから見える風景が汚れてしまうから。

「俺も手伝う」

 大きな体が、窓の外に身を乗り出した。

「き、気をつけて!」

「あはは。大丈夫。下に台あるの知らない?」

 いや、それは知ってるけど……。

「はは。だって、よく見えた方がいいでしょ?」

 広太くんの半袖から伸びる筋肉質な腕が、教室の窓ガラスを外から拭いている。

そこはいつも私が座っている席だ。

「ついでに、他のところもやっとく?」

 窓枠から外に飛び降りる。

庇のように飛び出したコンクリートの上で、黒板の方へ移動する。

「じゃあ彩亜ちゃんは、中から窓拭いて」

 透明なガラス越しに、向かい合っているのが恥ずかしい。

窓を拭く動きを合わせないようにしてるのに、どうしても重なってしまう瞬間があって、その度に私は「あぁ、なにやってんだろ」って本当に消えたくなる。

「よかった。きれいになった」

 外に出ていた広太くんが、窓を跳び越え戻ってくる。

「はい。片付けといてあげる」

 彼は私の持っていた乾拭きの雑巾を取り上げた。

「じゃ、後で」

 とっくに掃除の時間は終わっていて、当番に当たっていた人たちはそのほとんどが引き上げていて、机の位置も椅子の位置も全てが元に戻りつつある教室で、彼は雑巾を持ったまま教室を出て行く。

「だから後でって言われても……」

 どこかへ出ていた直央くんが戻って来た。

目が合うと、フッと微笑む。

その笑顔がいつもと違い力なく見えた。

「今日も平気?」

 そう言って彼は、自分の机に腰を下ろす。

ごそごそとノートを広げた。

賑やかだった教室も、次第に人気が消えてゆく。

私はいつものように机を動かして、直央くんの向かいにくっつけた。

ふと視線を感じて顔を上げる。

廊下から戻って来た広太くんと、一瞬目があった。

彼はスッと視線をそらし、自分の鞄を手にする。

そのまま行ってしまった。

ついため息が漏れる。

待つって言われても、私はそんなこと頼んでないし……。

直央くんの前に腰を下ろす。

「なんか元気ないね」

「分かる?」

 彼は頬杖をつきため息をついた。

「実は昨日さ……」
 先に駅についた直央くんは、私に謝ろうと思い、駅で来るのを待っていたらしい。

「そしたらさ、千香ちゃんが来たんだ」

 彼の視線は、きれいになった窓ガラスの外に向けられる。

ここからよく見えるその定位置に、やっぱり広太くんが座っていて、そこへ駆け寄るアノ子の姿が見えた。

「俺さ、一回告白して、フラれてるんだよね」

 だけど、その時彼の前に現れたカノジョは、目を真っ赤に腫らし明らかに泣いた後だった。

「それで……。ちょっと話そうって……」

 もしあの時、広太くんが私に声をかけてなくて、そのまま駅に向かっていて、私と直央くんが先に会っていれば、彼はカノジョに声をかけることはなかったんだろうか。

それとも私は、それでもアノ子に惹かれるこの人を前に、また泣いたんだろうか。

「呼び止めて……。本当に、すぐ終わらせるつもりだったんだけど……」

 彼は私にカノジョの話しをしながら、頬を赤らめ恥ずかしげにうつむく。

「勢いでまた告って……。また断られた……」

「はは。千香ちゃんも頑固だね。他に好きな人でもいるのかな」

 直央くんはそれには答えなくて、ため息をつきながらやっぱり窓の外を見る。

「き、協力しようか? どうすればいいのか、やり方分かんないけど……」

 そんな思ってもないことだって、すぐに自分の口から出てくる。

「はは。ありがとう。でも、そういうのはちょっと違うと思う」

「そ、そうだよね」

 話しって、コレ? 

教科書とノートは広げているけど、直央くんはため息をついてずっと窓の外ばかり見ている。

「え……、えっと……」

「女子ってさ」

 直央くんが言った。

「しつこいのって、嫌いだよね。やっぱ」

「まぁね」

「二回も告ったのって、やっぱキモいと思う?」

「嫌な感じじゃなかったら、大丈夫だと思う」

 彼はため息をつき、また何かを考え始めた。

いま直央くんの頭の中にあるのは、昨日のカノジョとのことばかりだ。

「なんて……言ったの? どんな話しした?」

「うん。どこまで話していいのか、ちょっと分かんないけど……」

 彼は話す。

アノ子のことをポツリポツリと。

泣きながら駅の構内に現れたカノジョを、どうしても放っておくことなんて、直央くんには出来なかった。

「こっち来てって、駅の外に出て。どうしたのって聞いた。広太とケンカしてたのは、分かってたから……。あの子、広太に好きって言えないんだ」

「なんで?」

 好きなら好きって、さっさと言えばいいのに。

それで付き合えば、きっと直央くんも……。

「自分のこと、好きじゃないって分かってるからだって」

「でも、そんなの言ってみないと分かんなくない? どうなるかなんて」

「フラれるの、分かってるから言わないんだって」

 なにそれ。

そんなこと、誰だって同じじゃないの?

「でもそれだったら、直央くんだってフラ……」

 慌てて口をつぐむ。

しまった。

ビクリとした私を、直央くんは笑った。

「はは。そうだよ。それでもどうしても言わずにはいられないから、言っちゃった。ダメだって分かってるのにな」

 彼の視線を追って、窓の外を見る。

広太くんの隣にはカノジョが座っていて、やっぱり何かを話している。

「そういうのって、女の子的にどう思う? やっぱムリだったかな」

「いや、だから……」

 そんなの、嫌なワケないじゃない。

「いい……と、思う。私はね」

 直央くんはガバッと身を乗り出した。

「まだ俺にもチャンスあると思う? それとも、さっさと諦めた方がいいのかな」

 彼は真っ赤になっている顔を、恥じることなく私にさらけ出す。

「しつこいとは思ってんの。それは俺も自覚してるし、分かってる。あ……、諦めたくても、諦め切れないのは……どうしようもないよね。そういう気持ちって、いつか忘れられるのかな。どうやったらいいんだと思う?」

「本当だね。どうしたらいいんだろう」

 私はうつむいたまま、もう彼を見ていることすら出来ない。

「その気持ち、すっごいよく分かるよ。諦め切れないの、私も知ってるから」

 だからその顔を、真っ直ぐに上げた。

「私もね、直央くんのことが好きなの。それでこうやって放課後の宿題も一緒にやってるし、ゲームもダウンロードした。少しでも一緒になりたくて、側にいたくて。それは……迷惑だったかな」

 彼の顔が本当に驚いていることに、ちょっとウケる。

「だからさ、言っちゃった。どうしても言わずにはいられなくなるって、こういうことだよね。無理だって分かってるけど、言っちゃダメだって、知ってるけど。困らせようとか迷惑かけようとか、そんなこと思ってなくて……」

 泣きたくないのに涙が流れる。

こんなの本気でカッコ悪いし、女の武器とか思われたくないのに、勝手に出てくるものはどうしようもない。

「はは。ゴメンね。こんなの、ウザいよね」

 急いでそれを拭う。

こんなに必死で笑顔を作るのも初めて。

「別に付き合ってほしいとか、返事が聞きたいとか、そういうことじゃなくって……」

「ゴメン」

 彼の視線は窓の外ではなく、ようやく私に向けられた。

「悪いけど……。他に好きな人がいるから……」

「うん、知ってる! ゴメンね」

 ダメだ。

今日はもう、ここにはいられない。

広げていたノートをバサバサと閉じ、鞄に押し込む。

「ゴメン。今日はもう先に帰るね」

 返事はない。

彼は口元に手を当て、じっと動かない。

ガタガタと立ち上がる。

「じゃ、ゴメン」

 教室から逃げだす。

机に足をぶつけた。

残っていた数人が振り返る。

廊下に出た足がもつれて、それでも何とか動かして、階段を駆け下りる時には、もう涙があふれていて、自分がこんなにも泣き虫だったなんて知らなかった。

早くここから抜け出したい。

靴を履き替えようとして、また靴箱にぶつかった。

ガシャンと大きな音をたて、フワフワしたまま外へ出る。

「彩亜ちゃん?」

 広太くんだ。

隣にはアノ子もいる。

「どうしたの? 大丈夫?」

 カノジョの視線はずっと私に注がれていて、私もそんなカノジョから視線が外せない。

「アイツになんか言われた?」

 違う。

そんなことじゃない。

激しく首を横に振る。

彼の手が私の肩に伸びるのを、カノジョの手が阻んだ。

「だ、大丈夫? 話しなら私が……」

「悪い、千香。先帰る」

 広太くんの手はカノジョを振り払い、私の肩に乗った。誰かが飛び出してくる足音が聞こえる。

「……。じゃあ、そっちは頼んだ」

「え?」

 振り返ろうとする私の背を、広太くんはガッシリ押し進める。

「あっちで話そ」

 校門を出た広太くんは、泣き止めない私の手を引いて歩き出す。

「何があったの。さっきまで普通にしゃべってたでしょ、教室で」

「なんで見てんのよぉ~」

「見えるから見てんだよ」

 絡み合う指先が思いのほか力強くて、彼の背中が記憶より大きくて、もしこのままで許されるのなら、ずっとこのままでもいいと思った。

「ほら。ここならあんまり、人いないでしょ」

 学校から少し離れた所にある、小さな公園だ。

ドサリとリュックを地面に置いた彼は、滑り台を上り下りてくる。
「なんか言われた?」

 私は必死で泣き止もうとしながら、頭を横に振る。

「違う。言った」

「言われたんじゃなくて?」

「言っちゃった。言わなくていいこと」

 彼は立ち上がると、もう一度滑り台を滑った。

私はその間に鼻水をすする。

「何言ったの」

「好きですって、告白した」

「……。そしたら?」

「フラれたから出てきた」

「はぁ~。そっか。……分かった」

 広太くんは盛大なため息をつき、頭を抱えたままボリボリかきむしった。

私は滑り台の下でしゃがみ込む広太くんに、しがみつくように飛びつく。

「ねぇ、私のどこがダメなのかな? 何が悪いと思う? どういうところが可愛くない?」

「どういうとこだろうな」

「ねぇ、真剣に悩んでるんだけど」

「分かるよ」

「どうしたらいいと思う?」

「そのままでいいんじゃね」

 やっぱりこの人は、何にも分かってない。

「だから、私は真面目に……」

「俺は、そのままの彩亜ちゃんが好きだから」

 彼の目はじっと私を見つめる。

「だから、そのままでいいと思うよ」

 夕陽に沈む公園で、広太くんは滑り台にしゃがみこんでいて、私はそんな彼の真横にくっついている。

彼のシャツを掴んでいた手を、そっと離した。

「あ……。えと……」

「そう言われて、困る?」

 そっと微笑む彼の顔を、まともに見ることが出来ない。

「こ、困らないし……、嬉しいけど……」

 だけど、私が好きなのは……。

「言いたくなったから、言っちゃった」

 彼は立ち上がると、ウンと背伸びをする。

「もう今ここで言わないと、タイミング逃すような気がして」

 そう言って、「はは」って笑った。

そんなとこで笑わないでほしい。

「それで、彩亜ちゃんの気持ちは変わる?」

「か、変わらないと思う……」

「俺のこと、嫌になった?」

「ならないよ。そんなの全然ならない」

「だったら、直央もそう思ってるんじゃない?」

 彼の大きな手が、私に向かって真っ直ぐに伸びる。

「好きだよ。よかったら俺と、付き合ってください」

 その手をじっと見つめる。

動きたくても動けなくて、私には固まったままどうすることも出来ない。

伸ばされた腕がふわりと動いた。

「はは。ゴメンね。わがまま言って」

 彼はヒラリとそこから飛び降りると、今度はブランコに乗る。

立ったままこぎ出した、その上から声をかけた。

「彩亜ちゃんも乗ったら?」

 そう言われて、断れるわけがない。

私は彼の隣に腰を下ろすと、ゆっくりとブランコをこぎ始めた。

「1年の時にさ、俺、体育委員やってて。その時にテントで見かけてさ。可愛いなーって思ってた」

 左右に揺れるブランコと、軋む鎖の音が交差する。

「で、2年になって同じクラスになれて、めっちゃうれしくてさ……」

 彼は勢いをつけて、そこから飛び降りた。

「それで、ずっと見てた。そしたら分かったよ。彩亜ちゃんの好きな人」

 泣いていいのかダメなのかも分からなくて、だけどここで私が泣くのも違うよなって、どんな顔をして彼を見たらいいのかが分からない。

「……。そ、そうなんだ」

 ブランコから立ち上がった私に、彼は笑い出す。

「あはは。そんなに困った顔されると、こっちも困るからやめて」

 ニッと笑うその笑顔が、今の私にはとてつもなく眩い。

「ね、今日もアイス食べて帰る?」

「え……。どっちでもいいけど……」

「じゃあ、一緒にコンビニ行こう。今日こそ俺がおごるから」

 普通に、もの凄く普通に、ごく自然に接してくれる広太くんが、自分より遙かに大人に見えて、とうてい私なんかには手の届かない人になってしまったようで、申し訳ないようないたたまれないような、目に見えない分厚い壁が出来てしまったような気がする。

 それでも私は、彼が普通に接してくれるから、普通に接することを演じている。

上手に振る舞えているのか、彼の気を悪くしてないのか、そんなことが気になって仕方がない。

夕暮れの通学路を、先にゆく彼の背を見つめる。

このままやっぱり普通にコンビニ入って、当たり前のように一緒にアイス食べて、何もなかったみたいに別れて、そしてまた学校で……。

ふいに、私の足は止まった。

「ゴメン。広太くん」

 彼はゆっくりと振り返った。

「私、やっぱり直央くんが好きだから……。広太くんとは付き合えない」

「うん。そうだよね」

 彼はニコッと微笑むと、軽やかに手を振った。

「じゃ、悪いけど先帰ってるね。アイスはまた今度」

「う、うん」

「また明日」

「また、明日」

 小さく手を振って、彼を見送る。

なんだか今日は、泣いてばっかりだ。

真っ赤に染まった夕焼けの下を、ぐずぐず足を引きずって歩く。

体が重い。

いつも短い駅までの距離が果てしなく遠い。

絶対に顔が腫れてる。

こんなとこ、誰にも見られたくないな。

ようやく構内に入った。

雑踏を抜け、さっさと電車に乗ってしまおう。

「彩亜ちゃん?」

 直央くんだ。

なんで?

「待って!」

 逃げだそうとした私の腕を、彼が掴んだ。

「ちょ、あ、アレ? 広太が……。んと、どうしたの?」

 その手を振り払う。

こんなの、タイミング最悪過ぎる。

「さっきアイツが……、ねぇ、待って!」

 逃げ出した。

今は直央くんの顔も見たくない。

そこから飛び出し、路上へ出た。

最悪だ。

もう一度涙を拭う。

一人で歩く混雑した夜道で、直央くんが私の手を掴んだ。

「どこ行くの。駅はこっちでしょ」

 そう言いながらも、私を引く手は駅から遠ざかる。

道幅の狭いごちゃごちゃした通りを、彼は私の手を掴んだまま離さない。

「広太と何があった?」

「……。好きって言われた」

「で、何て答えたの?」

「……。直央くんが好きだから無理って……」

 つないでいる彼の手が、私の手をぎゅっと握り返した。

それに負けないくらい、私も強く握り返す。

彼は立ち止まると、ようやく振り返った。

「とりあえず、今日は帰ろっか」

「うん」

 つないだ手を離したくなくて、離されたくなくて、彼をじっと見上げる。

「他に、何にもヘンなこととかされてないんだったら、いいよ」

「うん。それはない」

「……。そっか。じゃあいいんだ」

 歩き出す。

つないだ手はそのままだ。

さっきまで歩いて来た道を、そのまま引き返している。

帰宅ラッシュの混雑とピカピカ光る看板の明かりに、私の頭はくらくらしている。

「私、直央くんが好き。好きなの。ずっと好き。大好き」

「うん。ありがと」

 構内に戻って、改札を通る時に離された手には、まだその感触が残っていた。

「じゃ、また明日」

「うん。またね」

 ホームに電車が滑り込む。

その気配に、彼は慌てて階段を駆け上っていった。

その背中をじっと見つめる。

いつか彼が、私を振り返る日はやってくるのだろうか。

 このまま諦めた方がいいとか、頭では分かってても気持ちが言うことを聞かない。

好きってきっと、そういうものなんじゃないの? 

どっちがいいかとか楽だとか、そんなことでは動けないんだ。

広太くんのことは嫌いじゃない。

むしろいい方だと思う。

だけどだからって付き合って、それで本当にいいの? 

もしかしたらアノ子も、そんな気持ちなのかな。

 どれだけその願いが儚く遠いものでも、いつか好きな人の好きな人になれますように。

私はそれを願って、自分の階段を昇り始めた。



【完】

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