GWが明けて早くも1週間が過ぎた。
世間の雰囲気も連休ボケが抜け、すっかり通常モードだ。
その日、俺は出張先から直帰でいつもより少し早めにアパートへ着いた。
5月病とも言い難いが、この時期独特の気だるさのようなものにやられ、部屋へ入るなり溜息交じりにネクタイを緩める。
スーツのポケットのスマートフォンを乱暴にベッドに投げつけ、早々と部屋着である灰色のスウェットに着替える。
夕飯はどうするか……。
今さら外に出る気にもなれない。
余った食材で適当に済まそうと、部屋の隅に設置された冷蔵庫へ手を伸ばすと、それを遮るように無機質な電子音が鳴り響いた。
渋々ベッドまで戻り、スマホの画面に目を落とすと、見慣れない番号がそこにあった。
ハァと嘆息をつきつつも、こうして自然と〝通話〟に手が伸びてしまうのは根が真面目だからだろうか。
「もしもし」
応答がない。
しばしの間待ってみるも、なしの礫だ。
今時、無言電話なんて逆に新鮮だ。
「あのー! もしもしー?」
苛立ちから自然と語気が強くなる。
「ひぃっ!」
大方察しがついてしまった。
まさか今頃になって掛かってくるとは……。
正直、自然消滅しているものと思っていたが。
それにしても、何で掛けてきたあなたが驚いてるんですかね。
「あの……、ひょっとして先日駅前でお会いした方ですか?」
この質問自体よくよく考えればおかしい。
だが彼女が何も話さない以上、こちらから仕掛けるしかない。
「は、はははいっ! あの、えっと、羽島さんの携帯でよろしかったでしょうか?」
「あ、はい。そうですね」
「そ、そうですか……」
終わってしまった。
さて、ここから彼女がどう仕掛けてくるかが見ものだ。
以前、ネットでデート商法の体験談を見つけ、読んだことがある。
そこで書かれていた大筋の流れはこうだ。
まず先日の俺のように街中で声を掛けられ、その数日後にお礼と称した電話がかかってくる。
今、俺はこのフェーズにいるわけだ。
そして、その体験談によれば、この電話で1時間以上に渡る雑談タイムが繰り広げられるらしい。
ちなみに仕事の話は一切しないようだ。
そうすることで、まずはこちらの警戒心を解こう、という算段なのだろう。
よって、彼女が切り出す話題は恐らく……。
「は、羽島さん……。ご趣味は?」
えーっと。
俺はタイムスリップでもしているのだろうか。
昭和のお見合いでも、第一声で放つ言葉ではない気もするが。
「は、はい。そうですね、映画を少々……」
「そ、そうですか……」
思わず向こうの調子に合わせて答えてしまったが、結局また沈黙してしまった。
あの、これ、何の時間ですか?
正直な話、詐欺と分かっているのだから、今すぐこの電話を切っても何ら問題ない。
そして、スグに着信拒否をして彼女とは永遠にさよならだ。
しかし、こうも不器用な彼女に、そのような不誠実を働くのはいささか気が引けてしまうというのも人情である。
いや、もちろんそういった特殊な作戦であることも、現時点では否定できないのだが。
「すみません。そろそろご用件を伺ってもよろしいでしょうか」
「ひゃいっ! す、すみませんっ!!」
俺が何か聞くたび、この調子なのだろうか。
キャリアの浅さ故のものなのか。
いや。
彼女の場合、初々しさとは少し種類が違うような気がする。
ここまでのやりとりを聞いて確信した。
善悪だとかそれ以前に、彼女はこの仕事に向いていない。
親心などというと吐き気を催すが、こうして引き合わされた縁だ。
極めて余計なお世話かもしれないが、赤の他人であり、何の責任も持たない俺が引導を渡してやることにしよう。
「あのー、ぶっちゃけこれってデート商法ですよね?」
「は、はい。そうです……。すみません」
秒速で認めちゃったよ、この子。
いや、彼女の性質を考えれば当然か。
とは言え、さすがにもう少し粘るとは思ったが。
彼女がこうして白状し謝罪してしまった以上、俺が親父臭く説教をかます筋合いはない。
「この度は本当に申し訳ありませんでした。今後二度と羽島さんには連絡を致しませんので」
そう彼女に言われた時、ふと米原が放った一言が頭を過る。
『商品さえ買わなけりゃ無料のキャバクラみてぇなモンで、結構楽しめるらしいぞ』
そうだ。
俺はまだ何も楽しめていない。
あの下衆な男の言葉を真に受けるのは癪だが、危うく詐欺に引っ掛けられそうになったのだ。
少しくらい迷惑料を貰ってもバチは当たらないだろう。
「まぁまぁ、そうお気になさらず。それより、せっかくなんでもう少しお話しませんか? そう言えば名前も聞いてませんでしたね」
「あ、はい……。豊橋 光璃と申します」
「豊橋さん、ですか。ちなみに今おいくつですか?」
「22歳、です……」
新卒か。
果たして、彼女の会社は就活サイトに掲載しても許されるものなのか。
だが、問題はそこじゃない。
「なるほど。じゃあこの前まで学生だったんですね。大変そうですね、色々と」
彼女がどういった経緯でこの仕事に辿り着いたかは知るところではない。
だから、あまり頭ごなしに否定は出来まい。
とは言え、社会人生活の第一歩としては、いささか変化球というか、何というか。
これが原因で、彼女の中にトラウマが生まれなければ良いが。
「あっ、羽島さんの方が全然先輩なんで敬語じゃなくて大丈夫ですよ。そうですね……。毎日失敗続きです……」
と、彼女は消え入りそうな声で漏らす。
自業自得な部分もあるかもしれないが、やはり不憫に感じてしまう。
それにしても、拍子抜けだ。
普通に喋れるのか……。
これまでの彼女の一連の辿々しさは、やはり人を騙しているという後ろめたさに起因しているだけなのかもしれない。
「そうか。豊橋さんは何でこの仕事を選んだんだ?」
「えぇ、実は……」
それから俺と彼女の歪な時間が始まった。
「なるほど。そりゃ大変だったな」
「はい……。ですから、今の会社を辞めたとしても、上手くいくか不安で不安で」
豊橋さんはその不器用な性格が祟り、学生時代の就職活動も上手くいっていなかった。
そんな中、今の会社から声が掛かった、というのが大筋の経緯らしい。
まぁ、何というか。
新卒でブラック企業に行き着くロールモデルそのものだ。
だが、このIT社会。
自分が志望している会社の情報くらい、事前に調べれば得られるはずだ。
彼女に全く非がないかと言えば、素直に頷きにくい。
とは言え、本人も切羽詰まっており、選り好みしている余裕はなかったのだろう。
やはり俺の懸念は当たっていた。
豊橋さんは、社会に対してトラウマが生まれつつある。
これ以上、精神的に傷を広げる様であれば長居は無用だ。
「とは言ってもな……。正直もう辞めた方がいいと思うぞ。世間体とか倫理観とかは別にして、な」
「……でも、簡単に辞められない事情があるんです」
「は?」
どうやら、豊橋さんは学生時代に所謂〝就活塾〟のような場所に勧誘されていたらしい。
入学金や授業料などかなり値が張るものの、エントリーシートの添削や面接のノウハウを記した教材の提供などのプログラムで構成されており、まさに当時の彼女のニーズにぴったりと合致したものだった。
切羽詰まっていた彼女は、文字通り藁にも縋る想いで入会を決意する。
だが入金後、待てど暮らせど続報が来ることはなかった。
まぁ要するに、彼女のように就活に苦戦している学生をターゲットにした一種の詐欺だったようだ。
彼女も後々気づいたようだが、その時には既に手遅れだった。
業者とは連絡が取れず、彼女は泣き寝入りせざるを得なくなる。
その後、彼女に残ったのは入学金や授業料と称して組まされた多額のローンだけだった。
豊橋さんは現在もその支払いに追われているため、軽はずみに仕事を辞められないと言う。
まさに泣きっ面に蜂だ。
いつの世も付け込まれるのは、弱者だ。
しかし、ここまで踏んだり蹴ったりの彼女には、同情を禁じ得ない。
「いや、何つぅか。そりゃ大変だったな」
思わず数刻前と同じセリフを吐いてしまうが、ニュアンスとしては強めである。
「はい。もう人生、八方塞がりですよ……」
ややオーバーな物言いだが、豊橋さんは社会人1年目だ。
今年まで学生だった彼女に対して、これだけの面倒ごとを消化しろという方が酷である。
しかし、だからと言って赤の他人の俺に何が出来るのか。
ましてや今回の一件は金が絡んでいる。
外野にいる身としては、彼女の負担が少しでも減るよう導いてやることしかできない。
「とは言えな。繰り返すようだが、俺は転職を勧めるぞ。もっと、何つぅか、こう……、そこよりまともな会社なんて腐るほどある」
オブラートに包み切れず、結局ストレートな表現になってしまった。
「ですよね……。でも、せっかくこんな私を拾ってくれたのに、自分から辞めるなんて言えるかどうか……」
「まぁ、多少嫌味の一つも言われるかもしれないけどな。でもな。ぶっちゃけ逃げたもん勝ちだと思うぞ。最低でも3年続けろって時代でもねぇしな。まぁアンタの会社はそれ以前の問題だとは思うが」
「うーん……」
恐らく豊橋さんは、学生時代の挫折が尾を引き、現在もその負のスパイラルから抜け出せていない。
だからこそ、次の一歩を踏み出すことを躊躇しているのだろう。
どうすれば、彼女の自信を取り戻せるのだろうか。
「まぁまた何かあったら、電話してこいよ。相談、乗るからさ」
「……本当にお優しいですね。私、羽島さんと話しているとホッとします。今度、私の会社のショールームでゆっくりお話ししましょう」
おい。
えっ。まさか看破されるまでが向こうのシナリオなの?
だとしたら、どこぞの王妃様もドン引きするレベルの悪女なんですけど。
「ご、ご、ごごめんなさい。相手が気を許したと感じたら、こう言えっていうマニュアルを思い出してしまいまして。つ、ついうっかり……」
彼女は再びぎこちない雰囲気に戻り、必死に弁明した。
どうやら悪女でも、質の悪いギャグでもなかったらしい。
心底、安心した。
まぁ悪気がないことくらいは分かる。
彼女がマニュアルだと白状したことが何よりの証拠だ。
だから、この彼女の言動についてはどうこう言うつもりはない。
ただ、一つ。
俺はどうしても解せないことがある。
「……何だよ、それ。馬鹿にしてんのか」
「す、す、す、すみませんっ!!! もう二度と羽島さんには近づきませんので、どうかお許し」
「そうじゃなくてだな! 何だよ、そのクソみたいなマニュアル! ホントに人を騙す気あるのかっ!? 色々と雑過ぎんだよ!」
「ひゃいいいっ! ぎょ、ぎょめんなさいっ!!」
俺の理不尽とも言える怒りの声に、彼女は今日一番に竦む。
「大体な! コッチは友達も彼女もいねぇから、休日は引きこもって配信動画ばっか見てんだ。だから、何つぅか……、舌が肥えちまってんだよ!」
俺は4つも下の新社会人に対して、何を言っているのだろうか。
しかし、女性にモテないことが事実とは言え、こうも稚拙なシナリオで侮ってこられては言いたいこともある。
「確かに今はネットがあるから、そちらさんの手口なんて筒抜けかもしれねぇ。だからってな。開き直ってんじゃねぇよ! 本気で人を騙したいなら、もっとこう、なんだ? 一つ一つのプロセスを大切にしろよ! 俺たちにもっと夢を見させてくれよ!」
「は、はぁ……」
俺が捲し立てると、彼女は唖然とし押し黙ってしまった。
そこで頭が冷静になり、顔が熱くなる。
コホンと取り繕うように咳払いを交えつつ、俺は続ける。
「……まぁ、とにかくだな。コッチが恋愛経験乏しそうだからって、雑なシナリオでハメようとしてくんなってことだ。何か見ず知らずの人間にまで舐められてるって思うと、スゲェ惨めな気分になるんだよ」
「はぁ……。申し訳ありません。私には羽島さんの気持ちが分かりません」
そうだろう。
むしろそう簡単に分かってたまるか、という感じだ。
「なぁ豊橋さん。さっき、こんな仕事辞めちまえって言ったけど前言撤回だ。アンタはもう少しこの仕事を続けて、人間の裏とか悪意とかを学んだ方がいい」
「で、でも、私なんかじゃとても」
「……俺が考えてやる」
「え?」
「どうすれば男を騙せるか俺が考えてやる。もちろん、アンタも考えろ。俺と一緒にモテない男どもがついつい引っ掛かっちまうような甘~いシナリオを作るんだ!」
「で、でもそれだと羽島さんまで、詐欺師になってしまいませんか?」
豊橋さんは至極当然の疑問を投げかけてくる。
だが俺はこの時、どうかしていたのだろう。
「そんな細かいこと気にすんなっ!!」
「えぇ……」
「とにかくな。これ以上騙されたくなかったら、まずは騙す側の立場になって物事を見れるようにしろ! 何でもかんでも人を信用して馬鹿を見るの、もう沢山だろ?」
俺がそう言うと、彼女は沈黙する。
そして、腹を括るようにゆっくりと言葉を紡ぎ出す。
「私……、変わりたいです!」
「分かった。全力でサポートする」
そこから、俺と彼女の最高のデート商法マニュアル作りが始まった。
世間の雰囲気も連休ボケが抜け、すっかり通常モードだ。
その日、俺は出張先から直帰でいつもより少し早めにアパートへ着いた。
5月病とも言い難いが、この時期独特の気だるさのようなものにやられ、部屋へ入るなり溜息交じりにネクタイを緩める。
スーツのポケットのスマートフォンを乱暴にベッドに投げつけ、早々と部屋着である灰色のスウェットに着替える。
夕飯はどうするか……。
今さら外に出る気にもなれない。
余った食材で適当に済まそうと、部屋の隅に設置された冷蔵庫へ手を伸ばすと、それを遮るように無機質な電子音が鳴り響いた。
渋々ベッドまで戻り、スマホの画面に目を落とすと、見慣れない番号がそこにあった。
ハァと嘆息をつきつつも、こうして自然と〝通話〟に手が伸びてしまうのは根が真面目だからだろうか。
「もしもし」
応答がない。
しばしの間待ってみるも、なしの礫だ。
今時、無言電話なんて逆に新鮮だ。
「あのー! もしもしー?」
苛立ちから自然と語気が強くなる。
「ひぃっ!」
大方察しがついてしまった。
まさか今頃になって掛かってくるとは……。
正直、自然消滅しているものと思っていたが。
それにしても、何で掛けてきたあなたが驚いてるんですかね。
「あの……、ひょっとして先日駅前でお会いした方ですか?」
この質問自体よくよく考えればおかしい。
だが彼女が何も話さない以上、こちらから仕掛けるしかない。
「は、はははいっ! あの、えっと、羽島さんの携帯でよろしかったでしょうか?」
「あ、はい。そうですね」
「そ、そうですか……」
終わってしまった。
さて、ここから彼女がどう仕掛けてくるかが見ものだ。
以前、ネットでデート商法の体験談を見つけ、読んだことがある。
そこで書かれていた大筋の流れはこうだ。
まず先日の俺のように街中で声を掛けられ、その数日後にお礼と称した電話がかかってくる。
今、俺はこのフェーズにいるわけだ。
そして、その体験談によれば、この電話で1時間以上に渡る雑談タイムが繰り広げられるらしい。
ちなみに仕事の話は一切しないようだ。
そうすることで、まずはこちらの警戒心を解こう、という算段なのだろう。
よって、彼女が切り出す話題は恐らく……。
「は、羽島さん……。ご趣味は?」
えーっと。
俺はタイムスリップでもしているのだろうか。
昭和のお見合いでも、第一声で放つ言葉ではない気もするが。
「は、はい。そうですね、映画を少々……」
「そ、そうですか……」
思わず向こうの調子に合わせて答えてしまったが、結局また沈黙してしまった。
あの、これ、何の時間ですか?
正直な話、詐欺と分かっているのだから、今すぐこの電話を切っても何ら問題ない。
そして、スグに着信拒否をして彼女とは永遠にさよならだ。
しかし、こうも不器用な彼女に、そのような不誠実を働くのはいささか気が引けてしまうというのも人情である。
いや、もちろんそういった特殊な作戦であることも、現時点では否定できないのだが。
「すみません。そろそろご用件を伺ってもよろしいでしょうか」
「ひゃいっ! す、すみませんっ!!」
俺が何か聞くたび、この調子なのだろうか。
キャリアの浅さ故のものなのか。
いや。
彼女の場合、初々しさとは少し種類が違うような気がする。
ここまでのやりとりを聞いて確信した。
善悪だとかそれ以前に、彼女はこの仕事に向いていない。
親心などというと吐き気を催すが、こうして引き合わされた縁だ。
極めて余計なお世話かもしれないが、赤の他人であり、何の責任も持たない俺が引導を渡してやることにしよう。
「あのー、ぶっちゃけこれってデート商法ですよね?」
「は、はい。そうです……。すみません」
秒速で認めちゃったよ、この子。
いや、彼女の性質を考えれば当然か。
とは言え、さすがにもう少し粘るとは思ったが。
彼女がこうして白状し謝罪してしまった以上、俺が親父臭く説教をかます筋合いはない。
「この度は本当に申し訳ありませんでした。今後二度と羽島さんには連絡を致しませんので」
そう彼女に言われた時、ふと米原が放った一言が頭を過る。
『商品さえ買わなけりゃ無料のキャバクラみてぇなモンで、結構楽しめるらしいぞ』
そうだ。
俺はまだ何も楽しめていない。
あの下衆な男の言葉を真に受けるのは癪だが、危うく詐欺に引っ掛けられそうになったのだ。
少しくらい迷惑料を貰ってもバチは当たらないだろう。
「まぁまぁ、そうお気になさらず。それより、せっかくなんでもう少しお話しませんか? そう言えば名前も聞いてませんでしたね」
「あ、はい……。豊橋 光璃と申します」
「豊橋さん、ですか。ちなみに今おいくつですか?」
「22歳、です……」
新卒か。
果たして、彼女の会社は就活サイトに掲載しても許されるものなのか。
だが、問題はそこじゃない。
「なるほど。じゃあこの前まで学生だったんですね。大変そうですね、色々と」
彼女がどういった経緯でこの仕事に辿り着いたかは知るところではない。
だから、あまり頭ごなしに否定は出来まい。
とは言え、社会人生活の第一歩としては、いささか変化球というか、何というか。
これが原因で、彼女の中にトラウマが生まれなければ良いが。
「あっ、羽島さんの方が全然先輩なんで敬語じゃなくて大丈夫ですよ。そうですね……。毎日失敗続きです……」
と、彼女は消え入りそうな声で漏らす。
自業自得な部分もあるかもしれないが、やはり不憫に感じてしまう。
それにしても、拍子抜けだ。
普通に喋れるのか……。
これまでの彼女の一連の辿々しさは、やはり人を騙しているという後ろめたさに起因しているだけなのかもしれない。
「そうか。豊橋さんは何でこの仕事を選んだんだ?」
「えぇ、実は……」
それから俺と彼女の歪な時間が始まった。
「なるほど。そりゃ大変だったな」
「はい……。ですから、今の会社を辞めたとしても、上手くいくか不安で不安で」
豊橋さんはその不器用な性格が祟り、学生時代の就職活動も上手くいっていなかった。
そんな中、今の会社から声が掛かった、というのが大筋の経緯らしい。
まぁ、何というか。
新卒でブラック企業に行き着くロールモデルそのものだ。
だが、このIT社会。
自分が志望している会社の情報くらい、事前に調べれば得られるはずだ。
彼女に全く非がないかと言えば、素直に頷きにくい。
とは言え、本人も切羽詰まっており、選り好みしている余裕はなかったのだろう。
やはり俺の懸念は当たっていた。
豊橋さんは、社会に対してトラウマが生まれつつある。
これ以上、精神的に傷を広げる様であれば長居は無用だ。
「とは言ってもな……。正直もう辞めた方がいいと思うぞ。世間体とか倫理観とかは別にして、な」
「……でも、簡単に辞められない事情があるんです」
「は?」
どうやら、豊橋さんは学生時代に所謂〝就活塾〟のような場所に勧誘されていたらしい。
入学金や授業料などかなり値が張るものの、エントリーシートの添削や面接のノウハウを記した教材の提供などのプログラムで構成されており、まさに当時の彼女のニーズにぴったりと合致したものだった。
切羽詰まっていた彼女は、文字通り藁にも縋る想いで入会を決意する。
だが入金後、待てど暮らせど続報が来ることはなかった。
まぁ要するに、彼女のように就活に苦戦している学生をターゲットにした一種の詐欺だったようだ。
彼女も後々気づいたようだが、その時には既に手遅れだった。
業者とは連絡が取れず、彼女は泣き寝入りせざるを得なくなる。
その後、彼女に残ったのは入学金や授業料と称して組まされた多額のローンだけだった。
豊橋さんは現在もその支払いに追われているため、軽はずみに仕事を辞められないと言う。
まさに泣きっ面に蜂だ。
いつの世も付け込まれるのは、弱者だ。
しかし、ここまで踏んだり蹴ったりの彼女には、同情を禁じ得ない。
「いや、何つぅか。そりゃ大変だったな」
思わず数刻前と同じセリフを吐いてしまうが、ニュアンスとしては強めである。
「はい。もう人生、八方塞がりですよ……」
ややオーバーな物言いだが、豊橋さんは社会人1年目だ。
今年まで学生だった彼女に対して、これだけの面倒ごとを消化しろという方が酷である。
しかし、だからと言って赤の他人の俺に何が出来るのか。
ましてや今回の一件は金が絡んでいる。
外野にいる身としては、彼女の負担が少しでも減るよう導いてやることしかできない。
「とは言えな。繰り返すようだが、俺は転職を勧めるぞ。もっと、何つぅか、こう……、そこよりまともな会社なんて腐るほどある」
オブラートに包み切れず、結局ストレートな表現になってしまった。
「ですよね……。でも、せっかくこんな私を拾ってくれたのに、自分から辞めるなんて言えるかどうか……」
「まぁ、多少嫌味の一つも言われるかもしれないけどな。でもな。ぶっちゃけ逃げたもん勝ちだと思うぞ。最低でも3年続けろって時代でもねぇしな。まぁアンタの会社はそれ以前の問題だとは思うが」
「うーん……」
恐らく豊橋さんは、学生時代の挫折が尾を引き、現在もその負のスパイラルから抜け出せていない。
だからこそ、次の一歩を踏み出すことを躊躇しているのだろう。
どうすれば、彼女の自信を取り戻せるのだろうか。
「まぁまた何かあったら、電話してこいよ。相談、乗るからさ」
「……本当にお優しいですね。私、羽島さんと話しているとホッとします。今度、私の会社のショールームでゆっくりお話ししましょう」
おい。
えっ。まさか看破されるまでが向こうのシナリオなの?
だとしたら、どこぞの王妃様もドン引きするレベルの悪女なんですけど。
「ご、ご、ごごめんなさい。相手が気を許したと感じたら、こう言えっていうマニュアルを思い出してしまいまして。つ、ついうっかり……」
彼女は再びぎこちない雰囲気に戻り、必死に弁明した。
どうやら悪女でも、質の悪いギャグでもなかったらしい。
心底、安心した。
まぁ悪気がないことくらいは分かる。
彼女がマニュアルだと白状したことが何よりの証拠だ。
だから、この彼女の言動についてはどうこう言うつもりはない。
ただ、一つ。
俺はどうしても解せないことがある。
「……何だよ、それ。馬鹿にしてんのか」
「す、す、す、すみませんっ!!! もう二度と羽島さんには近づきませんので、どうかお許し」
「そうじゃなくてだな! 何だよ、そのクソみたいなマニュアル! ホントに人を騙す気あるのかっ!? 色々と雑過ぎんだよ!」
「ひゃいいいっ! ぎょ、ぎょめんなさいっ!!」
俺の理不尽とも言える怒りの声に、彼女は今日一番に竦む。
「大体な! コッチは友達も彼女もいねぇから、休日は引きこもって配信動画ばっか見てんだ。だから、何つぅか……、舌が肥えちまってんだよ!」
俺は4つも下の新社会人に対して、何を言っているのだろうか。
しかし、女性にモテないことが事実とは言え、こうも稚拙なシナリオで侮ってこられては言いたいこともある。
「確かに今はネットがあるから、そちらさんの手口なんて筒抜けかもしれねぇ。だからってな。開き直ってんじゃねぇよ! 本気で人を騙したいなら、もっとこう、なんだ? 一つ一つのプロセスを大切にしろよ! 俺たちにもっと夢を見させてくれよ!」
「は、はぁ……」
俺が捲し立てると、彼女は唖然とし押し黙ってしまった。
そこで頭が冷静になり、顔が熱くなる。
コホンと取り繕うように咳払いを交えつつ、俺は続ける。
「……まぁ、とにかくだな。コッチが恋愛経験乏しそうだからって、雑なシナリオでハメようとしてくんなってことだ。何か見ず知らずの人間にまで舐められてるって思うと、スゲェ惨めな気分になるんだよ」
「はぁ……。申し訳ありません。私には羽島さんの気持ちが分かりません」
そうだろう。
むしろそう簡単に分かってたまるか、という感じだ。
「なぁ豊橋さん。さっき、こんな仕事辞めちまえって言ったけど前言撤回だ。アンタはもう少しこの仕事を続けて、人間の裏とか悪意とかを学んだ方がいい」
「で、でも、私なんかじゃとても」
「……俺が考えてやる」
「え?」
「どうすれば男を騙せるか俺が考えてやる。もちろん、アンタも考えろ。俺と一緒にモテない男どもがついつい引っ掛かっちまうような甘~いシナリオを作るんだ!」
「で、でもそれだと羽島さんまで、詐欺師になってしまいませんか?」
豊橋さんは至極当然の疑問を投げかけてくる。
だが俺はこの時、どうかしていたのだろう。
「そんな細かいこと気にすんなっ!!」
「えぇ……」
「とにかくな。これ以上騙されたくなかったら、まずは騙す側の立場になって物事を見れるようにしろ! 何でもかんでも人を信用して馬鹿を見るの、もう沢山だろ?」
俺がそう言うと、彼女は沈黙する。
そして、腹を括るようにゆっくりと言葉を紡ぎ出す。
「私……、変わりたいです!」
「分かった。全力でサポートする」
そこから、俺と彼女の最高のデート商法マニュアル作りが始まった。