ガレアード聖王国。

 恐ろしき魔獣を使役するローレンディア王国に敗北し、従属を強いられた国だ。

 ガレアードと似たような属国は少なくない。ローレンディア国王カーネージは版図の拡大を推し進める一方で、土地の一方的な接収をせず、管理そのものはもともとの国にそのまま任せることも多かった。

 それは決して温情などではない。

 純粋に、内政を重視していないからだ。(いたずら)に管理するべき土地を増やしても内乱を誘発するだけであるとわかっていた。

 もちろん土地を増やさなければ、功績を上げた家臣や王子に配るべきものがなくなってしまう。そこでローレンディア王国は、ガレアード聖王国のような属国に「周辺の野蛮な国々から属国を守る」という名目で、過大な防衛費を取り立てた。

 当然、取り立てられる側……ガレアード聖王国などの属国はたまったものではないが、不満を持つ者はそれ以外にもいた。

 それは、ローレンディア王国の文官や外交官たちであった。

「期限までに防衛費を納められないのであれば、再侵攻も辞さぬというお心です」

 その言葉の強さとは裏腹に、ローレンディアの外交官キルシュは青ざめていた。

 この三十絡みの優男は、王の要求がいったい何を意味するのかよく理解しているからだ。

「……タクトが追放され、歯止めが効かなくなったか」

 ここはガレアード聖王国の王宮の一室だ。

 アルゼス王子はローレンディアの外交官の話を聞き、(うめ)くように言葉を漏らした。

「属国だからといってあまりにも無体な要求はできぬと進言した者はおりました、が……」

「降ろされたか」

「はい」

 キルシュが、絞り出すようにうなずいた。

「……わかってはいた。カーネージ王はガレアードを……いや、属国どころか己の土地を治め、平らかにするつもりなどはないと。そしてキルシュ殿は、この俺が王の命に唯々諾々とうなずくわけにはいかぬことも承知であろう」

 猛々(たけだけ)しい風貌のアルゼスの口から絞り出される苦悶(くもん)の声は、怒りに震える獅子のように恐ろしい。漆黒の髪は怒髪天(どはつてん)を衝き、黄金の瞳からは覇気が迸る。

 そのアルゼスの肩に、たおやかな手がそっと添えられた。

「だめよあなた。外交官を怖がらせても何にもならないわ」

 その手の主はアルゼスの妻であり、タクトの姉、リーネであった。

 高貴でありながら見る者を安心させる穏やかな顔つき。編み込んだ金色の髪は細くしなやかで、可憐な花のような佇まいをしている。

 そのリーネは今、アルゼスに寄り添うようにつらい表情を浮かべていた。

 タクトを送り出した時の茶目っ気は、まるでない。

「リーネ、すまない。ここまで来たら、事を起こすしかあるまい」

「私のことは構わないのよ。ここに嫁いでから、ローレンディアに未練はありません。父もいずれ罰を受けるだろうと思っていました。私はただアルゼスの命が心配なのです」

「心配ないさ。心は決まった。そろそろ鳩は帰ってきたのだろう?」

 その言葉に、リーネはハッとして表情を変えた。

 アルゼスの顔も、苦悶に彩られていながらも口元には小さな笑みを浮かべている。

「ええ。あなたのおっしゃる通り。ではことを進めましょう」

「頼んだ。リーネ」

 外交官キルシュだけが困惑していた。

「キルシュ殿よ。貴方が悲しむのは俺がカーネージ王に殺され、そしてこの地が蹂躙(じゅうりん)されることを予想してのことだろう。そのために貴方は必死にタクトと共にカーネージ王を押し留めてくれた。感謝する」

「別に、アルゼス様のためというわけではありません。これ以上ローレンディアが強硬に出れば出るほど戦後の統治はうまくいかなくなる。今は良くとも次の代か、次の次の代では滅びさえもある。それを避けたいだけです」

「それはローレンディアの勝利を疑っていないからだ」

「ええ……。カーネージ王、そして第一王子たちはあまりにも強い……」

「良いか。これからは貴方自身の命を心配するべきだ。俺たちには勝算があるのだからな」

「勝算? よもや……他の属国と友誼を? いやしかし、力を合わせたところであの王に勝てるかどうか」

「勝てるともさ」

 アルゼスはそう言って、部屋の片隅にある鳥かごを静かに持ち、テーブルの上に置いた。

 鳥かごを開けると、そこには一羽の白い鳩がいる。

 逃げ出さないようにアルゼスは優しい手つきで抱え、その足にある筒のようなものを外す。

 つまりこれは、伝書鳩であった。

 重要な書類を持ち運ぶため、リーネが育て上げた秘蔵の鳩だ。

 リーネは強力な鳥の魔獣を使役している。誰もがその空を飛び頭上から攻撃する強さや移動速度を称賛するが、それはこの「伝書鳩」の強さを隠蔽することにも一役買っていた。

 彼女が鍛え上げた伝書鳩は、決して迷わず、落ちず、そして誰かに察知されることはない。魔法によって出された信号を敏感に察知し、数百キロ、あるいは千キロを超える場所であっても正確無比に辿り着いて、手紙を運ぶ。

「こ、これはもしや……!」

「頼れる義弟だ。この時のために策を練っていてくれたのだからな」

 アルゼスたちは牙を研いでいた。

 表向きはローレンディアに従属し、屈辱に耐え、水面下で様々な陰謀を巡らせ、そして牙を研いでいた。

 タクトもそれに気づき、ある決意をしてした。

 ローレンディアが「戦乱の地を平らかにする」という意志がないままに大陸を支配する悪夢が訪れようとするならば、アルゼスたちを支援しようと。

 そしてタクトがもたらしたものとは彼のスキル【調停者:和睦】を完成させるための、契約書であった。

 アルゼスは、伝書鳩の足に折りたたまれていた契約書を丁寧に開いていく。

 魔法で編み上げられた紙であるためか、相当小さく窮屈におられていたのに、開かれた瞬間に折り目が綺麗さっぱりと消えた。純白で静謐な、大きな紙がその場に現れた。

 アルゼスは紙の一番下の、空白の欄に記名した。アルゼス以外の記名されるべき名はすでに全て記されている。

 アルゼスが最後の調印者であった。

 記名して完成した契約書を、リーネが静かに、そしてはっきりと読み上げた。

「ガレアード聖王国第一王子アルゼス。大燕帝国第一皇子燕火眼(えんかがん)。ヴェスピオ連合国盟主ゴルドバン、サグメナ公国首相ルイード、魔導王国ヴェラード女王ヴィネシャム。聖なる誓いの羊皮紙に調印したその時、契約の神が大いなる加護を与える。これまで燃やし焚べてきた憎悪と血を贄とし、それに倍する力を与えん。ローレンディアを退けるその日までを契約期間とし、その間の調印者同士の戦闘行為のすべてを禁ずる」

 その瞬間、アルゼスの体から白い光が溢れ出した。