もっこもこの、ふわっふわである。
その羊から生えている黄金の毛はくるっくるに回転しながら伸びている。だから、上から触ればつぷっと沈み込むような柔らかさと、その手をささやかに跳ね返そうとする麗しい弾力を指に返してくれる。
これを天上の快楽と言わずして何と呼べば良いのだろう。手で触るだけで極上なのだ。この子の毛を布団代わりにして寝た時など、自分はこんなに幸せで良いのだろうかと自問自答した。今の自分の境遇など吹っ飛んでしまうかのようだ。
「めぇ」
「ああ、お前さえいれば大丈夫だ」
潮風の吹く港で、僕は隣に佇む羊の頭を撫でた。
この黄金の羊、エーデルは僕の親友であり、パートナーだ。輝かしい金色の羊毛や、凛々しい横顔を見れば分かるように、ただの羊ではない。
魔獣、と呼ばれる存在である。
「そうね。タクト、あなたにはこの子がいるからどこに行っても大丈夫。信じているわ。エーデルも頑張るのよ」
「リーネ姉さん」
「でも、つらいことがあったらいつでも私、そして素敵な義兄様のアルゼスを頼りなさい。わかったわね」
「リーネ姉さん、羊の毛に顔を埋めながら格好いい言葉を言わないでください」
顔をもふもふの中に埋める姉の背中を引っ張る。ずぼっと現れた顔は美しい。流麗な金髪はまさにローレンディア王家の血筋を示していた。
僕には彼女以外にもたくさんの兄弟姉妹がいるものの、その中で親しいと言えるのはこのリーネ姉さんだけだ。実際、遠い海を隔てた先に旅立つ僕を見送りに来たのは彼女と、彼女の夫でありガレアード聖王国の王子、アルゼス義兄さんの二人だけであった。
「タクトくん。心情的にも、立場的にも、きみがいなくなると寂しい。本当はきみをこのまま連れて帰りたいくらいなんだが」
リーネ姉さんの隣にいる黒髪の青年、アルゼス義兄さんが苦しげに呟いた。
「無理はしないでください。僕は相当な高値で開拓団に売られたようです。良く言えば高く評価されてる訳でして、そうひどい扱いはされないでしょう。労働環境も悪くないと思いますよ」
「だといいのだが……」
「それに、僕が義兄さんの国に亡命してしまえば何かとしこりが出るでしょう。行くとしてもほとぼりが冷めて身の回りの整理がついてからの話ですよ。エーデルさえいればどこでだって生活はできますから」
「めぇめぇ」
エーデルが、そうだそうだとばかりに相槌を打ってくれる。
「……わかった。頑張ってくれタクトくん。応援しているよ」
アルゼス義兄さんと僕は、握手を交わした。
再会を誓う握手だ。
僕はローレンディア王国の王子として、そしてアルゼス義兄さんはガレアード聖王国の王子として、様々な交渉を重ねてきた。お互いに戦争をする国同士でありながら、いや、戦争をする国同士だからこそ、話し合いや交渉は大事になる。
そしてローレンディアもガレアードも武を尊ぶお国柄だ。話し合いよりも戦い。利益よりも名誉。敗北より勝利。それはそれで立派なのだが、おかげで外交官は閑職だ。仕事量や責任の重さに比べて、待遇は良いとは言えない。
交渉の場だというのに我を忘れて剣を抜く人間や自分の腹を切ろうとする人間がゴロゴロいる中で、僕がアルゼス義兄さんのような人と出会えたのは、まさに僥倖であった。
「感情はさておいて話し合いの席に着くことができる」、「自分の要求を主張し、損害を訴え、落としどころを探る」という交渉ができる人と巡り会えたことはまさに神様からのプレゼントであり、そしてアルゼス義兄さんもまた僕と同じことを思った様子であった。
僕らは自然と友になった。
もっとも、リーネ姉さんに彼のことを褒めまくったら「じゃあ私、アルゼスのところに嫁ぐわ」と言い出すのは流石に予想外だったけれど。
今では僕などそっちのけでおしどり夫婦だ。友と姉を取られたようでちょっと悔しくもあるが、幸せな二人の顔に免じて許そうと思う。
「でも本当に名残惜しいわね」
「姉さんは弟よりも羊を惜しんでますね?」
「仕方ないじゃない。成人の儀式でこんなに可愛い魔獣と契約したのはあなたくらいなんだから」
「まったくその通りですがね」
「お父様も、まったく器が小さいったらありゃしないわ。たかだか〝戦いに向かない魔獣と契約した〟なんてことで怒って追放するなんて」
呆れたとばかりに、リーネ姉さんは肩をすくめた。
僕ら、ローレンディア王国の王子や王女は、十三歳となった日に成人の儀式に挑む。
それは王家の人間だけが入れる伝説の迷宮『獣王迷宮』に潜り、自分のパートナーとなる魔獣を探し出すものである。
ローレンディア王族は初代から、魔獣と契約することができる【テイマー】と呼ばれるクラスを輩出してきた一族だ。
そして先祖代々、強力な魔獣と契約してこの大陸に覇を唱えてきた。
父上、つまり今のローレンディア王が契約する魔獣は屈強な獅子の魔獣、ライトニングレオだ。鋼鉄を砕く牙と爪、あらゆる攻撃を跳ね返す黄金のたてがみを持つ、魔獣の中でも最強格であり、ローレンディア王国の版図は父上の手腕によって三倍になった。
とはいえ戦後の統治は戦争とはまた違う困難があり文官は死にそうになったし、僕が八歳になった時点で文書能力や算術の素養があると分かるとすぐさま外交の場に引っ張り出されてしまったが。僕がいなくなって彼らが過労死しないかが心配だ。他の王子や王女は文武において「武」に偏りすぎている。どうなることやら。
「それだけじゃないよ。色々と父上の地雷を踏んでたんだ。もう少し剣の腕を磨くなり戦闘訓練なりすれば話は変わってたと思う」
しかしまあ、もう心配しても仕方のないことだ。
僕は追放され、リーネ姉さんは嫁いでしまったのだから。
「ともかく、なるようになるさ。見送りに来てくれてありがとう」
僕の言葉に、リーネ姉さんとアルゼス義兄さんはようやく諦めたように微笑んだ。
「……達者でな。また会える日を楽しみにしている」
「頑張るのよ」
僕はアルゼス義兄さんとリーネ姉さんとハグを交わした。
向かう先は船、そして大海原。
僕はこうして、二つ目の故郷に別れを告げた。
その羊から生えている黄金の毛はくるっくるに回転しながら伸びている。だから、上から触ればつぷっと沈み込むような柔らかさと、その手をささやかに跳ね返そうとする麗しい弾力を指に返してくれる。
これを天上の快楽と言わずして何と呼べば良いのだろう。手で触るだけで極上なのだ。この子の毛を布団代わりにして寝た時など、自分はこんなに幸せで良いのだろうかと自問自答した。今の自分の境遇など吹っ飛んでしまうかのようだ。
「めぇ」
「ああ、お前さえいれば大丈夫だ」
潮風の吹く港で、僕は隣に佇む羊の頭を撫でた。
この黄金の羊、エーデルは僕の親友であり、パートナーだ。輝かしい金色の羊毛や、凛々しい横顔を見れば分かるように、ただの羊ではない。
魔獣、と呼ばれる存在である。
「そうね。タクト、あなたにはこの子がいるからどこに行っても大丈夫。信じているわ。エーデルも頑張るのよ」
「リーネ姉さん」
「でも、つらいことがあったらいつでも私、そして素敵な義兄様のアルゼスを頼りなさい。わかったわね」
「リーネ姉さん、羊の毛に顔を埋めながら格好いい言葉を言わないでください」
顔をもふもふの中に埋める姉の背中を引っ張る。ずぼっと現れた顔は美しい。流麗な金髪はまさにローレンディア王家の血筋を示していた。
僕には彼女以外にもたくさんの兄弟姉妹がいるものの、その中で親しいと言えるのはこのリーネ姉さんだけだ。実際、遠い海を隔てた先に旅立つ僕を見送りに来たのは彼女と、彼女の夫でありガレアード聖王国の王子、アルゼス義兄さんの二人だけであった。
「タクトくん。心情的にも、立場的にも、きみがいなくなると寂しい。本当はきみをこのまま連れて帰りたいくらいなんだが」
リーネ姉さんの隣にいる黒髪の青年、アルゼス義兄さんが苦しげに呟いた。
「無理はしないでください。僕は相当な高値で開拓団に売られたようです。良く言えば高く評価されてる訳でして、そうひどい扱いはされないでしょう。労働環境も悪くないと思いますよ」
「だといいのだが……」
「それに、僕が義兄さんの国に亡命してしまえば何かとしこりが出るでしょう。行くとしてもほとぼりが冷めて身の回りの整理がついてからの話ですよ。エーデルさえいればどこでだって生活はできますから」
「めぇめぇ」
エーデルが、そうだそうだとばかりに相槌を打ってくれる。
「……わかった。頑張ってくれタクトくん。応援しているよ」
アルゼス義兄さんと僕は、握手を交わした。
再会を誓う握手だ。
僕はローレンディア王国の王子として、そしてアルゼス義兄さんはガレアード聖王国の王子として、様々な交渉を重ねてきた。お互いに戦争をする国同士でありながら、いや、戦争をする国同士だからこそ、話し合いや交渉は大事になる。
そしてローレンディアもガレアードも武を尊ぶお国柄だ。話し合いよりも戦い。利益よりも名誉。敗北より勝利。それはそれで立派なのだが、おかげで外交官は閑職だ。仕事量や責任の重さに比べて、待遇は良いとは言えない。
交渉の場だというのに我を忘れて剣を抜く人間や自分の腹を切ろうとする人間がゴロゴロいる中で、僕がアルゼス義兄さんのような人と出会えたのは、まさに僥倖であった。
「感情はさておいて話し合いの席に着くことができる」、「自分の要求を主張し、損害を訴え、落としどころを探る」という交渉ができる人と巡り会えたことはまさに神様からのプレゼントであり、そしてアルゼス義兄さんもまた僕と同じことを思った様子であった。
僕らは自然と友になった。
もっとも、リーネ姉さんに彼のことを褒めまくったら「じゃあ私、アルゼスのところに嫁ぐわ」と言い出すのは流石に予想外だったけれど。
今では僕などそっちのけでおしどり夫婦だ。友と姉を取られたようでちょっと悔しくもあるが、幸せな二人の顔に免じて許そうと思う。
「でも本当に名残惜しいわね」
「姉さんは弟よりも羊を惜しんでますね?」
「仕方ないじゃない。成人の儀式でこんなに可愛い魔獣と契約したのはあなたくらいなんだから」
「まったくその通りですがね」
「お父様も、まったく器が小さいったらありゃしないわ。たかだか〝戦いに向かない魔獣と契約した〟なんてことで怒って追放するなんて」
呆れたとばかりに、リーネ姉さんは肩をすくめた。
僕ら、ローレンディア王国の王子や王女は、十三歳となった日に成人の儀式に挑む。
それは王家の人間だけが入れる伝説の迷宮『獣王迷宮』に潜り、自分のパートナーとなる魔獣を探し出すものである。
ローレンディア王族は初代から、魔獣と契約することができる【テイマー】と呼ばれるクラスを輩出してきた一族だ。
そして先祖代々、強力な魔獣と契約してこの大陸に覇を唱えてきた。
父上、つまり今のローレンディア王が契約する魔獣は屈強な獅子の魔獣、ライトニングレオだ。鋼鉄を砕く牙と爪、あらゆる攻撃を跳ね返す黄金のたてがみを持つ、魔獣の中でも最強格であり、ローレンディア王国の版図は父上の手腕によって三倍になった。
とはいえ戦後の統治は戦争とはまた違う困難があり文官は死にそうになったし、僕が八歳になった時点で文書能力や算術の素養があると分かるとすぐさま外交の場に引っ張り出されてしまったが。僕がいなくなって彼らが過労死しないかが心配だ。他の王子や王女は文武において「武」に偏りすぎている。どうなることやら。
「それだけじゃないよ。色々と父上の地雷を踏んでたんだ。もう少し剣の腕を磨くなり戦闘訓練なりすれば話は変わってたと思う」
しかしまあ、もう心配しても仕方のないことだ。
僕は追放され、リーネ姉さんは嫁いでしまったのだから。
「ともかく、なるようになるさ。見送りに来てくれてありがとう」
僕の言葉に、リーネ姉さんとアルゼス義兄さんはようやく諦めたように微笑んだ。
「……達者でな。また会える日を楽しみにしている」
「頑張るのよ」
僕はアルゼス義兄さんとリーネ姉さんとハグを交わした。
向かう先は船、そして大海原。
僕はこうして、二つ目の故郷に別れを告げた。