母がリビングを出ると、アギトはそそくさと立ち上がり頭を正面にむけたまま、流しへと進んだ。流しに立つとたまった皿とフライパンを見下ろし、腕をまくり始めた。

 「剛田、くん。何やってんの?」

 「あ? 見りゃわかんだろ。」

 アギトは例のガンを飛ばしながら黙々と皿を鍋を洗い始めた。その手つきは鮮やかで、計算し尽くされている。汚れが少ない鍋から汚れの多いフライパンへ。皿は水が落ちやすいやや下向きに立てかけて。

 「あ? なに見てんだよ。」

 「い、いや、めっちゃ手際いいなぁって思って。」

 アギトはやはりイカつい表情のまま、自分のカバンまで移動して、カシャカシャ音の鳴る四角い袋を取り出した。そのまま流しに向かう。

 「こ、今度はどうしたの?」

 「あ? ただで泊まらせてもらうわけにイカねぇだろ。おまえ、好きなお菓子は?」

 「え? クッキー、とか?」

 「とかってなんだよ? クッキーだな。オーブン借りるぞ。」

 四角い袋に入っていたのはお菓子を作るのに必要そうなものたちだった。小麦粉とバターと砂糖を取り出して、あれよあれよという間にクッキーを焼き上げてしまった。それこそ無駄な動きがひとつもない。

 「はい。」

 おまけに紅茶まで出てきた。

 「なんか言うことあんだろ? おまえそんなことも知らねぇミス米町なのかよ。」

 「あ、ありが、とう。」

 アギトが流しに立ち、お菓子を作る姿は、いつものイカつい隣町のガキ大将からは想像がつかなかった。この見た目から繰り出されるカンペキな家事にカノンの心はすっかり奪われていた。

 「…、味は? そんなマズイもん作ったか?」

 「う、うめぇ…。」

 クッキーの配合はカンペキで、カノンの口の中にはふんわりバターが香っていた。思わず素の野太い声が漏れてしまった。

 「ミス米町ってそんな言葉遣うんだな。」

 後片付けまで終えたアギトは最後に流しで手を洗い、ピシャッと水を払いながらそう言った。ズボンのポケットから出てきたハンカチで手を拭いて、食事のときに座っていた私の隣へ戻ってきた。

 カノンは心臓からのドクドクと速い鼓動を感じていた。見るのが嫌だったパーマの毛先も少し残っているヒゲも、腰のジャラジャラも、キラキラしている。
 見える世界が一変していた。

 「ア、アギトくん。」

 「あ?」

 カノンに向けられるイカつい表情も、今までと何一つ変わっていないのに、ドクドクがどんどん加速している。

 「わい、好きになってしまった…。」