少しも感情を顔に出すこともせずに、彼は続けた。
「お前の名前等は既に調べである。つばき、というそうだな。元は西園寺家で暮らしていた」
「…そうです」
どういうことか、つばきの髪も体も泥や埃で汚れていたのに綺麗になっていた。
今までの酷い扱いに比べると雲泥の差だった。
―この人は、悪い人ではないかもしれない
「で、呪われた瞳のせいで監禁に近い生活を強いられてきた、と」
「…はい、その通りです」
顎に添えられた手が、すっとつばきの頬を撫でた。
頬についた無数の傷を優しく撫でる男につばきはどういう顔をしていいのか分からなかった。
恐怖でもない、緊張でもない、複雑な感情を表現できない。
すると、突然ドアがノックする音が聞こえた。その音と同時に男の手がつばきから離れた。
「失礼いたします。そちらの女性の食事が出来ました」
すっとドアから顔を出したのは、色柄の着物を着た女性だった。前掛けをしていて、この家に仕えている人だとすぐに理解した。切れ長の瞳は男にも似ている雰囲気を醸し出している。
「分かった。ここに運んでくれ」
「かしこまりました、京様、」
その女性はつばきを一瞥した後、男に何か言いたげな目を向けた。それを察したように男は口を開く。
「紹介がまだだった。彼女はつばきという。今日からここで暮らす」
「…失礼ですが、暮らすというのは…奥様ではございませんよね?」
「そうだ。が、女中にするつもりはない」
「では…彼女はどのような…―」
「夜伽としてつばきをこの家に住まわせる」
「京様がそういうのであれば反論はありません、しかし…―そのような相手はもっと他にも、」
「何が言いたい」
「…いえ、お食事をお持ちいたします」
女性は俯き、そっとドアの外へ消えていく。
ドアが閉まると一瞬静寂に包まれた。よほど恵まれた環境で育ったのだろう、この家を見れば華族ということくらいはすぐに分かった。
「自己紹介がまだだった。俺の名前は一条京という。貿易会社を営んでいる」
「一条…公爵の…」
つばきは一気に全身の力を抜いた。
いや、抜けたのかもしれない。一条という名を聞いたことはもちろんあった。
西園寺家も名家であることには変わりないが、一条家とはおそらく比べ物にならないだろう。土地含めた財産が違う。着ているものから今いるこの部屋の家具を見てもそれをヒシヒシと感じる。
そのような“相手”だとは知らなかったつばきは拳を作り一条京を見据えた。
(無理だわ、警護を考えてもすぐにこの屋敷を出ることは出来ない…いつかきっかけを作って逃げるしかない)
「何だ、急に怖くなったのか?」
「いえ、そのようなことはございません」
「そうか、お前の両親は既に他界しているようだな」
「…」
この短時間でどこまで調べたのか不明だが、ある程度は知っているようだ。
つばきは眉間に皺を作る。
「つまり、つばきには帰る場所はない。そうだろう」
「その通りです」
感情を殺すようにしてそう言った。両親がいないつばきには味方は誰もいなかった。
“呪われた瞳”のせいで西園寺家からも良くは思われていない。
既に死んだと思われているのかもしれない。清菜の顔が浮かんだ。彼女は援助という名目のもと、つばきを辛い目に合せることを楽しんでいたように思った。
「だからこれからはここがお前の帰るところだ」
「え…―」
「自ら死を選ぶことは許さない。お前の命は俺が買ったんだ。それを忘れるな」
つばきは口を半開きにして目を見開いた。
京は「とにかく今日は出されたものを食べてその布団で寝ろ。明日以降はお前にも部屋を与える」そう言って一度部屋を出ていった。
恐らくはこの部屋は京の寝室だろう。待ってください、という間もなく部屋を出ていった彼の背中を見ながらいったい彼は何を考えているのだろうと考えた。
「失礼します」
数分後、お盆を持った女中が部屋に入ってきた。
先ほどと同じ女性だった。
「自己紹介が遅れました、わたくし女中頭のみこと申します。基本的に京様のお食事を担当しております。この屋敷では他にも役割ごとに女中がおります」
まだ上流階級にしか流通していないソファの目の前にあるテーブルの上にそれを音もなく置くとつばきに挨拶をした。
彼女の雰囲気はやはり京に似ていると思った。
淡々としながらも何かを秘めたような感情を時折見せる。
「ありがとうございます。私はつばきと言います」
彼女たちは呪われた瞳の件は知らないようだった。
その方がいいと思った。この目は呪われてはいないが、その噂が流れればきっと女中たちは嫌な思いをするだろう。いや、それ以上の感情を抱くことは安易に想定できる。
みこは伏し目がちに「京様は…」と言った。
「京様は一条家の長男です。しかし、自ら貿易を営み更に巨額の富を得ている。一般人が近づくことは不可能なのです。“普通”は」
「…はい、」
「夜伽など今までおりませんでした。わかりますよね、意味は」
「…」
「京様にはいくつもの縁談の話がございました。しかしあの人は一度も頷きませんでした。まぁまだ若いという理由で周囲も強制することはしていないのです」
これほどまでにいい家に生まれた京に縁談の話がないわけがない。
変わり者なのか、他に想い人がいるのか分からないが、つばきにとってはどうでもいいことだった。どうにかしてここから逃げて自ら死を選ぶ、それしか選択はない。
もちろん、今すぐには不可能だがきっと逃げるチャンスはあるはずだ。
「わたくしは、ここに仕えて10年になります。京様の幸せを一番に考えております」
「はい」
それだけ言うと彼女はすっと部屋を出ていった。
白い湯気が立つ土鍋に入った中身は想像できた。
しばらく固形の食事をとっていなかったことはつばきの体を見ればすぐに分かる。
みこはおそらくつばきの体調等に気を遣い粥を作ってくれたのだと思った。
「きっと、悪い人じゃない…」
そう呟いてそれを食べ始めたつばきは何かを食べられるだけで幸せだった。
涙が頬を伝った。
本当にひどいことをする気ならばこんな綺麗な浴衣を着せて、食事を取らせたりはしない。京が悪い人ではないこともわかっていた。
暫くすると、部屋に京が戻ってきた。
京は部屋に戻ってきてすぐにつばきが食事をとったことを確認する。
全て食べ終えているのを見ると、安堵したように笑った。
つばきは頭を下げてお礼を言った。もう死にたいと、死なせてほしいと願っているのにこうやって食べ物を与えられて涙を流すほどに幸せを感じる自分に矛盾を感じながら。
「手首と足首を見せてみろ」
「…あ、はい」
部屋の中心で立ち尽くすつばきにそう言った。つばきは先ほどまで寝ていた布団の上に移動した。
今夜はこの部屋でこの布団で眠るのだろうか。
突然不安が押し寄せた。“夜伽”の意味を知らないわけではないからだ。
急におろおろと黒目を宙に移動して、動揺している様子を見て京がふっと笑う。
膝を折って正座したつばきの正面に胡坐をかいて座ると、つばきの手首を掴み目線をやる。
赤黒くなったそこは長い間縛られていたせいだろう。
同じようにして足を崩すように言われたつばきは、足首を見せた。
そこも同じように赤黒く変色していた。
「相当ひどい生活をしていたようだな」
「…」
京はつばきの足首を撫でる。別に痛みなどはない。いや、感じない。
これくらいならば幾らでも我慢が出来た。
「平気です」
その言葉は嘘でも強がりでもない。
「平気、か。お前は随分と強い女だな」
「…」
「だが、その強さは本来必要ないものだ。意味がわかるか?」
つばきは首を横に振った。
「今までは一人で頑張ってきたかもしれないが、これからは俺やみこたちを頼っていい」
「…」
どうして、という言葉を呑み込んだ。
今日出会ったばかりの死にそうな女を助けここまでしてくれる。
もちろん夜伽という役割はあるが、買われたはずならば普通はもっとひどい扱いをされるはずだ。
「今日はここで寝ろ。明日以降は部屋を与えるが、俺が呼ぶ夜はここに来い」
「…はい、わかりました」
つばきの長い髪を掻き分けるようにして指を通し、頬に手を当て顔を上げさせる。
京の力強い瞳がつばきをしっかりと映していた。
不思議だった。どうしてか、京に見つめられると心臓が激しく動き出す。
俺に頼れといってくれたその言葉を信じたいと思ってしまっていた。
「この浴衣もありがとうございます」
「そんなことはどうだっていい。それより今日は早く寝ることだ。ちなみに体を拭いたのは女中だから安心しろ」
「っ」
「おやすみ」
京は口角を上げてそういうと少し離れたところにあるベッドに移動した。
夜伽として買われたはずなのに、彼は優しかった。
目を覚ましたのは、誰かがつばきを呼ぶ声が聞こえたからだ。
昨夜は京と同じ部屋に寝かされていたこともあり、寝付けないかと思いきや久しぶりの食事にふかふかの布団のお陰ですぐに眠ってしまった。
上半身を勢いよく起こすと、真横に正座をしながらおはようございますと挨拶するみこがいた。
みこは昨夜とは違う柄の着物を着ていた。
辺りを見渡す。既に京はここにはいないようだ。今何時かと問うと10時過ぎだと伝えられた。
「朝食の準備が出来ております。京様は既に仕事へ向かいましたのでおりません。京様から朝も昼もしっかり食べさせるように、と言いつけられておりますので」
「わ、わかりました。すみませんすぐに起きるはずが…」
「いえ、ぐっすり眠ってもらえた方が都合がいいです」
都合?と聞き返すと、すっと唇を引き上げたみこは続けた。
「私たちが眠っている間に逃げられると困りますで。京様からもしっかり見張るよう言われております」
「…」
女中頭であるみこにつばきの考えていることは筒抜けなのかもしれないと思い頬を引きつらせた。
ということは、京にも逃げようとしていることはバレているのかもしれない。
「さぁ、食事にしましょう。ご案内いたします」
みこにそう言われ、つばきは立ち上がった。
初めてこの家の中をじっくりと見た。
洋館と思っていたが、そうではないようだ。長く続く廊下や壁は洋風だったが、いくつかの部屋は和室だった。
和洋折衷というイメージだ。控え目に視線をやりながら食堂へ案内された。
そこには2人の女中がいた。
「おはようございます。つばき様ですね、京様から簡単にではございますがうかがっております。なつきと申します」
「お、おはようございます。つばきと申します」
「私は最近こちらで働かせてもらっております、雪と申します!」
「はい、よろしくお願いいたします…あの、私も何かお仕事を…」
「それはなりませんよ。京様からは女中の仕事をさせることは許さないと言いつけられておりますので」
「…そうですか」
みこが二人の女中の間からぴしゃりとそう言って会話は終了した。なつきはみこと同様に髪を簪で結っているが、雪の髪型は両サイドに軽くウェーブがかかっていてボブほどの髪の長さだった。
なつきは20代後半だろうか。雪はなつきよりも若く見えた。つばきと同じくらいの年齢ではないだろうかと推測した。
彼女たちを見ると、やはり緋色の目の話は伝わっていないようだ。
食事を済ませると、この屋敷の説明を受けた。外観は西洋館そのものだったが中は和を意識した空間も多くあった。
「庭園もございます、案内いたしますね」
「わかりました」
庭園は池があり、鯉が泳いでいた。周辺には園路が巡り、つばきは何て落ち着く空間だろうかと感嘆の息を漏らしていた。
石灯篭や鹿威しもありつい立ち尽くしてしまう。
「あとでつばきさんのお部屋もご案内いたしますが、少しこちらでゆっくりなさってください」
「え、でも…―」
「あと、お着替えもした方がよろしいかと思いますので、お部屋の案内の際にそれも説明します」
そう言ってみこはどこかへ行ってしまう。
一人取り残されたつばきはボーっとしながら縁側に座った。
大きな柱に頭をこてんとつけ、眩しい日差しを浴びながらこれが夢なのではないかと思っていた。
うつらうつらとしていると、背後から気配がした。
みこかと思い、ゆっくり振り返るとそこには何故か京がいた。
「あっ…、も、申し訳ありません!」
すぐに立ち上がろうと膝を立てると、バランスを崩してしまった。
が、京がつばきの体を支えていたおかげで倒れずに済む。
つばきはすっぽりとスーツ姿の京の胸の中にいた。まるで、“あの日”のように。
「…あの、離していただけると…助かるのですが」
「今倒れそうになったお前を助けたというのに離してもらった方が助かるというのは傷つくのだが」
「違います。そのような意味ではなく…」
口籠りながらつばきは必死に胸の鼓動を抑えようとしていた。まずは色々と感謝を伝えねばならないのに、京の胸の中にいると何も考えられなくなっていた。
「今日は早めに帰宅してきた。後でまた家を出るかもしれないが」
「そう…ですか」
「つばきが逃げていないか心配だった」
「…」
(やっぱり逃げようとしていたことはバレバレだったのね…)
ようやくつばきを離すと、京はつばきに着替えるように言った。
「明日には他にも着るものを用意できるはずだ」
「いえ、いりません。だって私は…」
京が先に立ち上がった。つばきに手をさし出し、自分のそれを重ねた。
見上げるほどに高い身長の京はつばきの瞳を覗き込む。
「遠慮はいらない。あぁ、そうだ。先に言っておこう。今日の夜、寝室に来い」
「え…―」
つばきは瞬きを繰り返した後、わかりましたと静かに答えた。
(そうだった、私がこの人に買われたのは“夜伽”という役目のためだった。女中の仕事を手伝わせてもらえないのは“必要”がないからだわ)
買われた以上、つばきに拒否権はない。
もちろん男性と経験などない。通常は男を悦ばせる仕事だ。
それが自分につとまるのか不安になった。
それに…―。
「そんなに泣きそうな顔をするな。別に嫌がることはしない」
つばきははっとして自分の頬を両手で包んだ。
そして首を横に振った。
「嫌がってなどおりません。私は…買われた身です」
「ふぅん、そうか。分かった。それじゃあ、お前の部屋を案内しようか」
つばきは頷き、京に続くようにして足を進めた。
京に案内され、つばきは二階へいく。
「女中たちは離れで暮らしている。二階には使っていない部屋がいくつかあるからそこを使ってもらう」
はい、と返事をしながら京についてゆく。二階にも重厚感のある家具がある。
二階の西側の部屋は和室だった。襖をあけると既に布団に鏡台、机も用意してあった。
全て新品に見えた。
「私なんかにわざわざ部屋まで用意してくださりありがとうございます」
「気にするな。箪笥二竿に衣服はしまってある」
京が箪笥に近づき、そこを開けるとつばきは目を見開いて固まった。
そこにはやはり夜伽として買われたつばきに用意されたとは思えないほど高価な生地の着物が並んでいる。
それだけではない、洋装のワンピースも二着あった。
ワンピースは着たことはなかった。
清菜はよく高価なワンピースも着ていたことを思い出し、つばきはつい顔を顰めてしまった。それを見た京がつばきの頬に手をやり無理やり顔を上げさせる。
絡まる視線に言葉が詰まった。
「あ…っ」
「急に気分でも悪くなったか」
「いえ!違います。あ、あまりに私には不釣り合いな着物やワンピースですので…これは流石に着ることは出来ません」
「なんだ、そんなことか。俺が手配させたんだ、お前が着なければ捨てるだけになる」
「しかし…―」
「いいから、黙って言うことを聞け」
「…」
「お前にぴったりだと思ったんだ」
(どうしてだろう。この人の瞳に見つめられると途端に何も喋られなくなる。何も考えられなくなる…。私はどうかしてしまったの?)
京の手の温度がひんやりと冷たい。
煩い鼓動を抑えるようにゆっくりと深呼吸をしようとするが、まだ触れられている頬のせいでそれは収まるところか加速する。
「ありがとう…ございます」
「唇が震えている。俺に触れられるのは嫌か」
無意識に震えていたようだ。嫌ではない、だが、緊張しているのだ。
真一文字に唇を結び、首を振った。
しかし、京はその手を離さない。
(今夜、初仕事なのよ。このくらいで緊張していてどうするの…―)
京の手が離れた瞬間、それはつばきの後頭部に移っていた。目を閉じる間もなかった。
唇が重なったとわかった時には既に顔が離れていた。
「…あ、」
触れるだけのそれは一般的にキスというのだろう。しかし、つばきにとってそれは“初めて”のものだった。異性と接吻などをしたのは生まれて初めてだった。
顔を中心に熱を感じる。
(今の私の顔は…きっと真っ赤に違いない。こんなことで顔を赤らめていたら“仕事”なんか務まるわけがないのに!)
「なんだ、そんな顔もできるんだな」
「っ」
「顔を真っ赤にして、目線も定まらない。俺のキスでこんなに動揺してくれるとは思わなかった」
「し、しておりません!別に…このくらい…」
語尾を小さくしながら、つばきは目線を落とした。
京はまるで悪戯をした子供のような顔を見せてつばきの部屋を後にした。
つばきはようやく全身を脱力させ、床に座り込んだ。
♢♢♢
「あの…だから、その、」
「あぁ、そういうことですか。今夜が初仕事だからそんなに緊張しているのね」
厨房で明日の朝食の仕込みをするみこにもじもじと両手を合わせながら耳打ちすると、彼女は「はぁ…」と息を吐いて一旦手を止めた。
既に女中たちの姿はなく、皆離れに戻ったようだ。
みこが一人でいるところを見つけすかさず話しかけたのはいいものの、上手く言葉にすることは出来ずにいた。
「もうそろそろお時間では?京様も最近は仕事で忙しいので、早めに就寝したいと思いますよ」
「そ、それはわかっております。私のような立場で相談するのもおこがましいのですが…」
「相談と言われましても、わたくしが助言できることはありませんよ。そもそも京様は女性を自宅に招いたことはございません」
「え?!そうなのですか…?」
思わず声を張り上げるつばきはすぐに自分の両手で口を塞いだ。
みこも辺りを伺うように視線を巡らせ、小声で続けた。
「ええ、本当です。“遊び”はそれなりに派手ではございますが、それは“外”で済ませておりましたので。特定のお付き合いをされている女性もおりませんでしたよ。多分、ですけどね」
「…そう、ですか」
「京様が何を求めているかはわかりませんが、そのままのつばきさんを見せたらいいのではないでしょうか。だってあなた初めてでしょう?」
「分かりますか…?初めてだって」
ええ、もちろんと言ったみこは、さっと手を洗い、離れに戻ってしまった。
一時間前に初めて湯船に浸かり、体を綺麗にした。
(本来であれば、私も離れで暮らすのが普通よね。それなのに…どうして京様は本館に私を住まわせるのだろう)
新しい浴衣に着替えたつばきは、一階の廊下を行ったり来たりして京の部屋に入ることが出来ずにいた。
(ダメよ、仕事なのだから…しっかりして!)
意を決してつばきは京のいる寝室のドアへ手を掛けた。
京とはあのキスの後から会っていない。仕事があったようで先ほど帰宅したらしい。軽く夕食を済ませた京は風呂に入った後すぐに寝室へ向かったと聞いた。
あのキスも仕事の一つだ。何の意味はない。
それなのにたった一度の触れるだけのキスを何度も脳内で再生していた。
買われた身でありながら、おかしな感情を抱えている自分に辟易する。
何度も深呼吸をしたのち、つばきはようやくドアをノックした。
どうぞ、という声が聞こえゆっくりとドアを開けた。
行為中に支障が出ないよう、長い髪の毛は三つ編みにして纏めていた、
行為中、どのように京を悦ばせたらいいのか異性と夜を共にしたことのないつばきにはわからなかった。
「失礼いたします。今夜はよろしくお願いいたします」
部屋に入るとすぐに膝を折り、正座をして頭を床に擦りつける。徐々に顔を上げると、目の前に京がいた。彼も膝をついてつばきと同じ目線だった。
平常心を保とうと必死だったのに、やっぱり京と顔を合わせるとそれは不可能だった。
パクパクと口を開け、泣きそうに顔を歪めた。
「そんなに嫌だったか?目が赤い」
「い、いえ!違いますっ…私は夜伽として買われたのですから、嫌だとかそういう感情は関係ありません」
「関係ある。嫌がるお前を抱くつもりはない。今日は俺の隣で寝てくれればいい。何もしないよ」
「それは、どういう、」
「そのままだ。まぁ、いずれ俺のものになってもらう予定だ。今はここへきて一日しか経っていないのだから」
分からなかった。つばきを買ったといった京はどうしてこうも自分の体調を気遣うのか。ただの夜伽ならば関係ないはずだ。無理にでも抱いたっていいはずなのに。
京がつばきを立たせた。覚束ない足取りのつばきをベッドに寝かせた。
人形のように京にされるがままなのは”何もしない”という彼の言葉を信じてしまったからだ。
初めてベッドに体を預けたつばきは緊張とほんの少しの好奇心で感情が忙しい。
京の着流し姿はどこか隙があるようで色気があった。そのせいで胸が高鳴っているのだと自分に言い聞かせる。
ベッドの中に体を沈める。
京も同じようにしてつばきの隣に体を預けた。
異性と同じベッドで眠るなど経験はない。キスだって初めてだったのだから当然だ。
「聞きたいことがある」
「…はい」
静まり返る寝室で、京が正面を向いた状態で言った。
「呪われた緋色の目の話だ」
「っ…」
「その目の件も側近に調べさせた。お前の生い立ちについてもそれなりには調べたがあまり情報が上がってこない。西園寺家が絡んでいるからだとは思うがそれが本当ならば緋色の目の件も本当になる。だが…―」
つばきは京が何を言いたいのか理解できなかった。それなりに自分のことを調べていることは知っていた。だが、自分の何を知りたいのか分からない。
生い立ちもそれなりに知ることが出来れば十分なはずだ。たかが夜伽なのだから、別にどうだっていいはずだ。
「俺はお前の瞳が呪われているというのは嘘だと思っている」
思わず小さな声を上げていた。動揺を表に出さなぬよう、「どうしてそう思うのでしょうか」と訊く。しかし語尾が震えていた。
「こっちを向け」
「…はい」
つばきはゆっくりと体を彼の方へ向けた。至近距離で同じ布団の中にいる。
心臓が早鐘を打つ。
「本当に呪い殺す力があるのであればもう俺は死んでいたっていいはずだ。他にもお前を監禁していた奴らだってそうだ。わざわざ逃げなくとも、全員をその目で呪い殺せばいいだけだ。そもそも今までその隙が全くなかったことも不思議だ。その目が人を呪い殺す力はないと俺は思っている」
つばきは何と言って説明したらよいか考えた。
確かにそのような力はない。京の言う通りだ。
(私には呪い殺す力はない。でも…未来を見る力はある)
本当のことを彼に言うという選択はなかった。
無言のつばきの態度は京の発言を“肯定”する。
「今は言わなくていい。ただ俺はそう思っているということをお前に伝えておく」
分かりました、と返す。
無理に聞き出そうとせずつばきに任せる姿勢に益々京の考えがわからないでいた。
まるで、大切にされているようだと思った。そんなはずはないのに。
「何か聞きたいことはないか」
「聞きたいこと?」
「今日はつばきのことを知ろうとここへ呼んだのだが…無理に訊かれるのも嫌だろう」
「そんなことは…ありませんが、」
ただ、と言って眉を顰めた。
「私は今まで西園寺家でお世話になっていました。その後、この目のこともあり追い出されました。母は体が弱く…私を養うために無理をさせてしまっていました。思い返せば、ずっと生きていることに後ろめたさがありました。母に無理をさせてきたのも事実ですから。だから正直に言いますと、あの日…私が橋から飛び降りようとしたとき、京様が引き留めてくださいましたが…―今も生きていていいのかわからないでおります」
「それは絶対に許さない」
「っ…」
突然、抑えた声と同時につばきの肩を掴む京にビクッと肩を揺らした。
「死ぬことは俺が許さない。分かったか、それだけはダメだ」
「…で、でもっ…私は…」
「前にも話した通り、お前の命は俺が買った。つばき一人の命ではない」
真っ直ぐな瞳の中にはしっかりとつばきが映っていた。
(あぁ、どうしてこの人はここまで真っ直ぐに私を見るのだろうか)
胸の奥がヒリヒリと熱く焦がれていく。
「安心しろ、俺はお前を手放したりはしない」
「……」
そっと肩に置かれた手がつばきの頬へ移る。ぞわぞわと鳥肌が立つような感覚があるのにそれが嫌ではない。むしろもっと、そう求めてしまいそうになる。
(私は…どうかしてしまったの?)
自身の感情に振り回されながら、無意識に枕の端を握っていた。
「何もしないといったが、キスくらいはいいか?」
頬を撫でていた指がつばきの唇に触れた。
「もちろんです。私は…夜伽としてここにおります」
そう言うと、京はつばきに顔を近づけた。
目を閉じると同時に唇が触れる。今日二度目のキスに全身を強張らせた。
嫌ではない、違う、むしろ逆だが慣れない行為はそうさせるのだ。
触れるだけのキスだと思った。しかし、それはいつまでも止まらない。
「…ぅ、んっ…」
いつの間にか後頭部に移動した手のせいで、顔を離すことが出来ない。
(私は買われた身なのだから…キスを拒むような素振りは見せてはダメ。でも…これ以上は…)
京が体勢を変えた。つばきに覆いかぶさると彼の舌が口内を犯していく。