少しも感情を顔に出すこともせずに、彼は続けた。

「お前の名前等は既に調べである。つばき、というそうだな。元は西園寺家で暮らしていた」
「…そうです」

どういうことか、つばきの髪も体も泥や埃で汚れていたのに綺麗になっていた。
今までの酷い扱いに比べると雲泥の差だった。

―この人は、悪い人ではないかもしれない

「で、呪われた瞳のせいで監禁に近い生活を強いられてきた、と」
「…はい、その通りです」

顎に添えられた手が、すっとつばきの頬を撫でた。
頬についた無数の傷を優しく撫でる男につばきはどういう顔をしていいのか分からなかった。
恐怖でもない、緊張でもない、複雑な感情を表現できない。
すると、突然ドアがノックする音が聞こえた。その音と同時に男の手がつばきから離れた。

「失礼いたします。そちらの女性の食事が出来ました」

すっとドアから顔を出したのは、色柄の着物を着た女性だった。前掛けをしていて、この家に仕えている人だとすぐに理解した。切れ長の瞳は男にも似ている雰囲気を醸し出している。

「分かった。ここに運んでくれ」
「かしこまりました、京様、」

その女性はつばきを一瞥した後、男に何か言いたげな目を向けた。それを察したように男は口を開く。

「紹介がまだだった。彼女はつばきという。今日からここで暮らす」
「…失礼ですが、暮らすというのは…奥様ではございませんよね?」
「そうだ。が、女中にするつもりはない」
「では…彼女はどのような…―」
「夜伽としてつばきをこの家に住まわせる」
「京様がそういうのであれば反論はありません、しかし…―そのような相手はもっと他にも、」
「何が言いたい」
「…いえ、お食事をお持ちいたします」

女性は俯き、そっとドアの外へ消えていく。
ドアが閉まると一瞬静寂に包まれた。よほど恵まれた環境で育ったのだろう、この家を見れば華族ということくらいはすぐに分かった。

「自己紹介がまだだった。俺の名前は一条京という。貿易会社を営んでいる」
「一条…公爵の…」

つばきは一気に全身の力を抜いた。
いや、抜けたのかもしれない。一条という名を聞いたことはもちろんあった。

西園寺家も名家であることには変わりないが、一条家とはおそらく比べ物にならないだろう。土地含めた財産が違う。着ているものから今いるこの部屋の家具を見てもそれをヒシヒシと感じる。
そのような“相手”だとは知らなかったつばきは拳を作り一条京を見据えた。
(無理だわ、警護を考えてもすぐにこの屋敷を出ることは出来ない…いつかきっかけを作って逃げるしかない)
「何だ、急に怖くなったのか?」
「いえ、そのようなことはございません」
「そうか、お前の両親は既に他界しているようだな」
「…」

この短時間でどこまで調べたのか不明だが、ある程度は知っているようだ。
つばきは眉間に皺を作る。

「つまり、つばきには帰る場所はない。そうだろう」
「その通りです」

感情を殺すようにしてそう言った。両親がいないつばきには味方は誰もいなかった。
“呪われた瞳”のせいで西園寺家からも良くは思われていない。
既に死んだと思われているのかもしれない。清菜の顔が浮かんだ。彼女は援助という名目のもと、つばきを辛い目に合せることを楽しんでいたように思った。

「だからこれからはここがお前の帰るところだ」
「え…―」
「自ら死を選ぶことは許さない。お前の命は俺が買ったんだ。それを忘れるな」

つばきは口を半開きにして目を見開いた。
京は「とにかく今日は出されたものを食べてその布団で寝ろ。明日以降はお前にも部屋を与える」そう言って一度部屋を出ていった。
恐らくはこの部屋は京の寝室だろう。待ってください、という間もなく部屋を出ていった彼の背中を見ながらいったい彼は何を考えているのだろうと考えた。