しかし、京はその手を離さない。
(今夜、初仕事なのよ。このくらいで緊張していてどうするの…―)
京の手が離れた瞬間、それはつばきの後頭部に移っていた。目を閉じる間もなかった。
唇が重なったとわかった時には既に顔が離れていた。

「…あ、」

触れるだけのそれは一般的にキスというのだろう。しかし、つばきにとってそれは“初めて”のものだった。異性と接吻などをしたのは生まれて初めてだった。
顔を中心に熱を感じる。

(今の私の顔は…きっと真っ赤に違いない。こんなことで顔を赤らめていたら“仕事”なんか務まるわけがないのに!)

「なんだ、そんな顔もできるんだな」
「っ」
「顔を真っ赤にして、目線も定まらない。俺のキスでこんなに動揺してくれるとは思わなかった」
「し、しておりません!別に…このくらい…」
語尾を小さくしながら、つばきは目線を落とした。
京はまるで悪戯をした子供のような顔を見せてつばきの部屋を後にした。
つばきはようやく全身を脱力させ、床に座り込んだ。
♢♢♢

「あの…だから、その、」
「あぁ、そういうことですか。今夜が初仕事だからそんなに緊張しているのね」

厨房で明日の朝食の仕込みをするみこにもじもじと両手を合わせながら耳打ちすると、彼女は「はぁ…」と息を吐いて一旦手を止めた。
既に女中たちの姿はなく、皆離れに戻ったようだ。
みこが一人でいるところを見つけすかさず話しかけたのはいいものの、上手く言葉にすることは出来ずにいた。

「もうそろそろお時間では?京様も最近は仕事で忙しいので、早めに就寝したいと思いますよ」
「そ、それはわかっております。私のような立場で相談するのもおこがましいのですが…」
「相談と言われましても、わたくしが助言できることはありませんよ。そもそも京様は女性を自宅に招いたことはございません」
「え?!そうなのですか…?」

思わず声を張り上げるつばきはすぐに自分の両手で口を塞いだ。
みこも辺りを伺うように視線を巡らせ、小声で続けた。

「ええ、本当です。“遊び”はそれなりに派手ではございますが、それは“外”で済ませておりましたので。特定のお付き合いをされている女性もおりませんでしたよ。多分、ですけどね」
「…そう、ですか」
「京様が何を求めているかはわかりませんが、そのままのつばきさんを見せたらいいのではないでしょうか。だってあなた初めてでしょう?」
「分かりますか…?初めてだって」

ええ、もちろんと言ったみこは、さっと手を洗い、離れに戻ってしまった。

一時間前に初めて湯船に浸かり、体を綺麗にした。

(本来であれば、私も離れで暮らすのが普通よね。それなのに…どうして京様は本館に私を住まわせるのだろう)

新しい浴衣に着替えたつばきは、一階の廊下を行ったり来たりして京の部屋に入ることが出来ずにいた。

(ダメよ、仕事なのだから…しっかりして!)

意を決してつばきは京のいる寝室のドアへ手を掛けた。
京とはあのキスの後から会っていない。仕事があったようで先ほど帰宅したらしい。軽く夕食を済ませた京は風呂に入った後すぐに寝室へ向かったと聞いた。
あのキスも仕事の一つだ。何の意味はない。
それなのにたった一度の触れるだけのキスを何度も脳内で再生していた。
買われた身でありながら、おかしな感情を抱えている自分に辟易する。
何度も深呼吸をしたのち、つばきはようやくドアをノックした。
どうぞ、という声が聞こえゆっくりとドアを開けた。