物心ついた時から母は冷たかった。
 いつも母の腕に抱かれていたのは、ひとつ年下の妹桃子で、朧げな記憶をどんなに辿っても、どのアルバムの写真を探しても私は手を引かれることすらなくポツンと立っていた。見上げていた母の視線はいつも桃子に注がれていて、私の方を見ているものはない。
 父と母と妹だけが家族で、私は他人のようだ、そしていつしか家族写真に写り込むことも無くなった。

 私の名は母方の祖母が塔子と名付けた。そそり立つ孤高の塔、祖母は海外帰りの先進的な女性だったので私にはソリッドで独立した女性になって欲しいとの願いを込めたらしい。正直その由来は本人から何回説明を受けてもよく分からない。

 透明人間の透子。
 多分、そっちの字の方が今の私に似合ってる。この家にいると、私自身ですら、存在しているのか不安になる。だから、あまり家にいなくていいように、高校に入ってすぐバイトを始めた。土日も出来るだけ働いている。

 私にバイトを始めたのは名前をくれた母方の祖母が亡くなってからだ。それまでは、祖母の住む古い洋館に通い詰めていた。蔦が絡む煉瓦造りの屋敷には祖母の古いハープがあって、、私は毎日弾きに行っていた。母は祖母と折り合いが悪いのか、それとも父と桃子と3人で過ごす蜜月が気に入っているのか、特にこちらに関心を向けることもないようだった。

 ただ、不思議なことに妹の桃子もハープを習っていた。祖母からではなく、音楽教室にわざわざ通い、いつの間にか私立の音大附属の学校に通わせるほどに両親は教育熱心だった。

 もうずっと前になるが、私も母の気を引きたくて、もしかしたら私もハープを弾けると知ったら愛されるのではないかと思って、家にある妹のハープを両親の前で弾いたことがあった。妹は自分のものが奪われたと泣き、母には泥棒呼ばわりされた。理由が分からないことばかりの家の生活の中で、私はいつしか家族に対してはあきらめていた。

 唯一私を見てくれた祖母が亡くなった時、いよいよ私は1人になった。祖母は私に古いハープを残してくれたが、梅雨時になると1日2本は切れる。古い屋敷は湿気も多くて、あまり楽器にいい環境ではないのだろう。ハープの弦はガット弦で動物の腸で出来ていて、祖母の古いハープに使われているのは海外製なので5千円やら一万円やらする。弾き続ける為には働くしかない。

 高校3年生の今では、アルバイトを3つ掛け持ちして頑張ってきたせいか弦代を稼ぐだけではなく、貯金も出来ている。国立の大学なら入学金と一年分の授業は払えそうなくらいだ。

 桃子の通う私立の音大附属高校は富裕層の子女が多く、両親は桃子が惨めな想いをしないように学費だけでなく、服やバッグや靴ありとあらゆるものにお金をかけていた。それが親の愛というものかもしれない。私は「アルバイトをしているのに家にお金も入れない我が儘な子」「家の手伝いもせずに自分勝手に夜遅く帰る自分勝手な子」と言われていた。賄いが出るアルバイトを選んでいたので夕食を家族と食べた記憶がない。それ以前は祖母の家で食べていた為、4人で食卓を囲んでいたことは本当にないのかもしれない。

 アルバイト先の中華屋さんで皿洗いをしすぎた指は痛くて堪らなかったが、ハープを奏でていると嫌なことは全て忘れることができた。将来を考えた時に、ハープを弾くことを仕事に出来たら素敵だなあと思う。でもそうでなくても、両親から離れて一人暮らしをしてアルバイトで稼いだお金で趣味でハープを弾くのでも良かった。独学で練習するしかなかったが、基礎は祖母が手ほどきしてくれた。だが、専門的な学校に通う妹が羨ましくないといえば嘘だ。

「このペースで大学の学費貯まるかなぁ」

もう5月だ。1年もない。一人暮らしをすることを考えたら、初年度の学費だけでは貯金が心もとない。

「これ以上は物理的に働けないんだけどなぁ。」
溜息は止まらない。今日は妹の誕生日だということを思い出して、家に向かう足は一層重くなる。

 そうして帰った家のリビングには、真新しいハープが増えていた。

「いいでしょう、前から欲しかったライオンヒーリーの23号ゴールドモデルなの!N響が使ってる機種よ」

いつになく桃子は上機嫌で話しかけてきた。ふわふわした栗色の髪が揺れる。色素の薄い瞳には金色のハープが映り、頬は薔薇色に染まっている。塔子を一瞥もくれない両親も興奮気味に話し

「やっぱり一流になるにはもっと良い楽器を使わないととはずっと思っていたんだよ。才能がある娘に投資は惜しまないさ!」
「あの屋敷がもっと早く売れてたら、もっと早く買えていたんだけど。まぁ、高く売れてよかったわ」

冷水が背筋を通り抜けたかのような言葉だった。
嫌な予感がする。当たって欲しくない。

「あの屋敷ってなに…?」

母は冷たく答えた。
「おばあちゃんの家よ。無駄に広いせいで高すぎて売れるまでに2年もかかるなんてね。固定資産税も高かったのよ、ほんと」
「更地にしなきゃ駄目かと思ってたんだが、調度品ごと屋敷を引き取ってくれたから片付けも省けたなあ」

両親が宇宙人のように見える。何を言っているのか理解できない。

「…おばあちゃんは、私にくれるって…!」

やっと塔子は言葉を絞り出したが、母は嘲るように答えた。
「おばあちゃん、そんな遺言なんて書いてないわよ。全部相続したの、私よ。だって娘だもの。税金高かったのに、塔子のものなわけないでしょう」

「おばあちゃんのハープは私のものだもの!」
悲鳴に近い。こんなふうに主張するなんて初めてかもしれない。しかし、父親は酒に酔って上機嫌だった。
「お前なあ、お前のものなんて何にもないんだぞ。子供は親のものなんだ、子供のものは親のもの。だいたい弾きもしないハープなんて無駄だろう。我が家の音楽家は桃子ひとりで充分だよ」

駄目だ、こんな両親だもの。何を言っても駄目だ。分かっている。分かりきっているけれども、こんな事は受け入れがたい。唯一の居場所が無くなってしまう。私をこの世界に繋ぎ止めてる、唯一の理由である、おばあちゃんのハープが奪われてしまう。

塔子はそのまま家を飛び出していた。

雨が降り出していたけれど、傘もなく、走った。走って、走って、祖母の洋館に辿り着きうなだれた。アールヌーボー風の植物を思わせる門の扉には鎖がかけられて南京錠で閉じられている。透子の知らない鍵だ。

「なんで…!なんでよ…ッ!…」
 一目散に駆けてきた汗、降り注ぐ雨、しかし滴り落ちるそれは涙だった。理不尽には慣れてきた。物心ついた時からだから、愛されないのには慣れていた。期待も希望を抱かずに、ゆえに涙することもなかった。祖母が亡くなった時ですら、1人で生き抜かなきゃという気持ちが強く張り詰めていて泣けなかった。
 この居場所を失うということは、全てを失うと同義語で、祖母の死も愛されない絶望も未来への不安も報われない悲しみも全部同時に襲ってきたのだった。

 こんな世界で生きている意味なんてある?嗚咽が止まらない、呼吸が苦しくて、泣くことも私下手くそなのかもしれない。雨は激しく降り、私の叫びを掻き消してくれるようだ。

 突如雨が止んだ。いや、誰かが傘を持っている見覚えのない革靴から視線を上げれば黒いスーツの男性が2人立っている。少し眉が太く屈強な男性が傘を差し、塔子を雨から守っている。もう片方は秀麗な顔立ちを少し怪訝に歪め、ひざまづいて塔子に問いかけた。

「どうしたの、君は誰?」