赤裸々に自分のことを綴る古典にだって、わたしより惨めな人は存在しないだろう。
 そう思ってしまうほど、今のわたしはダメ人間そのものだった。

 みんなが学校へ行き勉強しているあいだ、わたしは好きな本を読む。本を読む気力すら湧かないとユーチューブの動画を見漁る。視聴する動画を選ぶことすら面倒になったら、テレビの適当な番組をつけ、いつの間にか眠る。
 何もなさないまま、ただ飯だけを食らう。数日前の自分からは想像できないほど光の差さない暮らしだ。

 ダラダラテレビを見ながら、ふと考える。もしかしたら今部屋の隅には監視カメラがあって、教室のみんなはわたしの自堕落な様子を見てゲラゲラ笑っているんじゃないかと。

 もちろんありえないことだとわかってはいる。わたしが学校へ行っていたとき、そんな悪趣味なイベントが開かれたことはないのだから。

 だけど──。

 宇野山さんが「ざまあみろ」と嘲笑っている。綾子も作歌も「あんなやつ、もう友達じゃないよね」とわたしを切り捨てて、ふたりだけで本屋に行ったり。

 葉山くんだって、「こんなやつに話しかけたのは間違いだった」と思っているのではないか──?

 脳裏にはありありと、最悪の想像が明瞭に描き出される。これは本当の記憶で、実際にショックを受けたから、わたしは今こうやって学校にも行かず青白い顔で引きこもっているのではないか。

 イメージがイメージを呼び、頭がぐちゃぐちゃになる。テレビの内容なんてこれっぽっちも頭に入っていなかった。

「つづりー、葉山くんって子が授業のプリント届けてくれたよー」

 何かこの思考の連鎖を止めてくれるものはないものか。
 そう願ったとき、お母さんの声が届く。少なくとも葉山くんはわたしを見捨てていなかったんだ、と安心できた。

 お母さんからプリントを受け取ると、「ああ、そうそう」と前置きしてから言われる。
「葉山くん、体調がよければ、少しつづりと話したいことがあるらしいから。気分転換に話してみない?」

 表情は笑っているが、切実な様子が見てとれた。わたしが不登校に陥りかけていることに気づいているのだろう。
 休ませてくれたお母さんの厚意を無下にはできないし、何より葉山くんともう一度言葉を交わしたかった。拒絶するようなことを言ってしまってごめんって、今度こそちゃんと謝りたい。

「わかった、すぐ着替えて行くね。そう伝えておいて」

 わたしが言うと、お母さんは顔を輝かせて玄関へ向かう。机の上にあるとはずがたりが、息をしたように思えた。

   ◆

 扉を開けると、いつもと変わらない飄々とした葉山くんが立っていた。わたしがいてもいなくても変わらないじゃないか、とも思うけれど安心が勝つ。

「学校お疲れさま。こんなところまで来てくれてありがとう。駅からちょっと遠いし。たぶん、このあたりに住んでるわけじゃないよね?」
「ああ。駅は逆方向だし、何なら途中道に迷った」
「そんなことないよって言えないかなぁ?」

 まったく忖度ということを知らない葉山くんの言葉に、笑い声が溢れる。彼はこてんと首を傾げていた。

「……あのとき無視されてて辛いよなって、寄り添えてたら水月は学校に行ってたんじゃないかって。そう思ったら何もしないのが居心地悪くてな。道に迷っても心の迷いはなかったよ」

 急にしゅんとして、声も萎れる。そういえば葉山くんはこんなふうに感情豊かな人だった。
 わたしの気持ちをわかっていないわけではない。

「もしかしたら今日、二度と来ないでほしいって言われるんじゃないかと思ってたんだ。だからこうやって出てきてくれただけでも嬉しい」

 ふっと笑う。風が吹いたように思えた。
 そんなふうに言われたら、わたしも本心をさらけ出して喋るしかないじゃないか。

「わたしも、葉山くんに嫌われたかもしれないって不安になってた。自分の感情だけで拒絶したみたいになって。だから遠くから家に来てくれただけでも嬉しいよ」
「よかった。水月本人とか親御さんじゃなく、先生に住所聞いて来たから『キモっ』って思われるかもと」

 顔を少し下に向けて頭を掻く葉山くんが、何だか愛おしく感じた。大丈夫だと伝わるように、わたしにできる最大限の柔らかい笑みを彼に向ける。

「そんなことないよ。心配しすぎ」
「お互いさまだろ」

 お互いさま。その言葉にハッとする。

 わたしが葉山くんに失望されてないか、面倒臭いなんて思われていないか心配していたこと。それと葉山くんがわたしに嫌われてないか心配してたことが同じなら、杞憂以外の何物でもない。

「……葉山くんは、どうして無視が辛くないって言えたの?」
 彼がビクリとしたので、慌てて「気になっただけで、責めるつもりはなかったの」と付け足す。
 すると葉山くんは表情を柔らかくして答えた。

「愛してくれる人がいるから」

 短い言葉を放つと、彼は笑って「ごめん、ちょっとクサくなったな」と照れながら語り出した。

「おちくぼ姫を思い返してみてほしい。落ち窪んだ部屋で毎日針仕事をしている彼女にだって、気にかけてくれる人がいただろ? 王朝懶夢譚だって、あやかしが向こうからやってきて色んな世界を見せてくれる。環境は悪いのかもしれないけど、愛してくれる人はいるんだよ」

 王朝懶夢譚は人じゃなかったな、と苦笑する。今まで接していた古典の世界が、その色を変えたような気がした。

「俺、とはずがたりは愛の物語だと思うんだ。愛されているがゆえに不運な目に遭ったり、誰かを愛す幸運に巡り合ったり」

 そういえば前に『葉山くんはどうとはずがたりを受け取ったのか』と聞いたことがあった、とすぐにピンときた。ずっと聞きたかったのかもしれない。
 しかし、愛の物語ときたか。

「古典に出会って、無視がささいなことに思えたんだ。誰かに愛されてるし、別にいいやって。その考えに辿り着いた瞬間、教室が小さな箱庭に変わったんだ」
「箱庭?」
「うん。俺も昔無視されたりとか悪口言われたりしてたんだよ。そのときは世界の終わりだって絶望してたけど、これは世界でも何でもないって気づいたんだ。ただの箱っていう表現が近いかな」

 どこか飄々としているのは、この達観した思考から来ているのだろうか。
 同じ文章を読んだはずなのに、ここまで感想が違うと文学の可能性を感じる。もしかしたら他にもわたしを驚かせるような感想が世界には眠っているのかもしれない。それこそ、箱のような教室では見つけられないような。

「葉山くんのそういう考えかた、好きだな」

 心の奥底から湧き出た言葉を呟く。『好き』という言葉を口にした途端、じぃんと心が熱を帯びる。

 葉山くんの顔も熱を帯びているようだった。この勢いのまま、かわいい、と口にしたら怒られるだろうか。

「俺も水月のことが好き。誰かを好きになることが、こんなにも素晴らしいことだとは思わなかった」

 彼の唇が動く。清涼な低い声から紡ぎ出される言葉に、心をきゅんと掴まれた。

「わたしは考えかたって言っただけだけど……好き」
 そうだ、わたしは葉山くんのことが好き。

 言葉にして初めて実感した。『愛してくれる人がいるから無視はどうとも思わない』という葉山くんの主張が、すっと心に溶け込んだ。何も怖くないと思える。

「これからわたしに色んな世界を見せてくれると嬉しいな」

 伝えると、葉山くんは喜びに満ちた表情を浮かべた。

「ああ。色んな世界を一緒に見よう」