ゴールデンウィークが開けたわたしは、ちょっとした危機に陥っていた。
(どうやって葉山くんにおちくぼ姫を読み終わったって伝えよう……?)
登校してすぐに図書室に寄って、おちくぼ姫を返却した。古典コーナーは充実しているものの、あまり手に取る人はいない。すぐに借りられることもないから、気づいたときに取ってくれることを祈るのもひとつの手ではあった。
それでも。
葉山くんには一刻も早く、おちくぼ姫を手に取ってほしかった。わたしを経た言葉の歴史に触れてほしかったこともあるし、『どうして教室で古典を読まないのか』という問いに答えられなかったことに対する罪滅ぼしも兼ねて。
メモ用紙に書いて机に入れようか? ──ダメだ、運動部朝練後の一軍がいる。男子も女子も両方数人いるから、ラブレターだとかで意図しない盛り上がりをさせてしまう。
それじゃあ、葉山くんが登校してきたら声をかける? ──わたしと葉山くんに、特別な接点はない。あとから詮索されても困る。タイミングによっては作歌ちゃんや綾子ちゃんから根掘り葉掘り聞かれてしまうかもしれない。彼女たちはそうするようなタイプではないと思うが、念のため。
妙に早く登校してしまったのに、手持ち無沙汰にそわそわすることしかできなかった。案は出てくるけれど、人目を気にしている限りなにも達成できない。
もういいや、今日にでもチェックしてくれるだろう。
諦めて、鞄から本を取り出す。流行りの本ではなく、日本の古典。とはずがたりだ。
葉山くんから言われたことがどうしても引っかかって、今日勇気を出して教室で好きな本を読むことにした。
もうわたしたちは高校生。読んでいる本ごときでとやかく言われるような環境ではないと信じたい。
それに、葉山くんもいる。古典をわたしか、それ以上に熱く愛していて、人にどう思われても飄々としている彼が。
ページをめくると、分厚くつやつやした紙に昔は頻繁に使われていた色の名前が載ってある。作中で着物の色などを思い描くにはどうしても必要な知識だからだ。
昔は現代よりもたくさんの言葉を通して四季を見ていたのかな。この初夏を、鎌倉時代の彼女はどういった言葉で表現するのだろう。
色の表を見ているだけで、うっとりとした気分に浸れる。教室の世界から古典の世界に、すとん、と落とされたような感覚を抱いた。
夢心地のままページをめくると、訳者である佐々木和歌子さんの文章が書いてあった。この文章が読む前からわたしを『とはずがたり』の空間へ誘う。心が、脳の細胞ひとつひとつが、後深草院二条の存在を欲する。
待ちきれなくなってもうひとつめくると、とうとうとはずがたりの本文が始まり──。
「おはよう。それ読んでるってことは『おちくぼ姫』は返却したってこと?」
凛とした声が上から降ってきた。声のするほうを見ると、予想通り葉山くんの端正な顔がこちらを向いている。
「うん。譲ってくれてありがとう」
「別に、順番が左右するくらいどうってことないよ」
とくり、とくり。心臓がいつもより大袈裟に振る舞う。
ふっと口角を上げてみせると、葉山くんは自分の席へ座った。しかし椅子の角度を変えて、顔はそのままわたしを向いたままだ。
「水月、とはずがたり好きなんだ。けっこう読んでる感じだから」
「中学生のときこれに出会ってね。それから時々読み返してるよ。おこがましいかもしれないけど、後深草院二条に自分を重ねたりしながら」
「二条に自分を重ねるのか」
葉山くんは興味深そうに身体を乗り出した。鎌倉時代から運んできたようなかぐわしい匂いが鼻腔をつつく。
周りの女子はシトラスの匂いがどうだとか、石鹸の匂いがどうだとか言っているが、わたしはこういったお香のような匂いが好きだった。
「周りの環境に翻弄されるところとか、それでも強かに生きるところとか。どんな環境でも用意されてしまったなら、結局は生きていくしかないんだなって」
「なるほど、そういった受け取りかたもあるのか」
彼は違ったらしいが、包み込むようにわたしの考えも受け入れてくれた。筆舌に尽くし難い幸福感を覚える。
もっと話したい。葉山くんはどのような受け取りかたをしたのか。二条の生き様についても、鎌倉時代と現在の共通点なんかも。
もっと、もっと。
「葉山くんはとはずがたりを読んでどう思ったの?」
「そうだな──」
口が勝手に動く。こんなことはいつぶりだろう。いつもは受け取り手が傷つけないか、不快に思わないか考えてから言葉を発していたのに。
葉山くんの口が開く。その口からはどんな感情が紡ぎ出されるのだろう。
「あれ、二人ってそんな仲だったっけー?」
高いだけの声が葉山くんの言葉を遮った。首を締めてやろうか、なんて物騒な考えが一瞬だけ頭をよぎる。
殺意を抑えて、「ただ本の話をしてただけだよ」と笑う。彼女は準一軍の宇野山だ。機嫌を損ねるとすぐにあることないことを含めた悪口を拡散されるから、繊細に考えて対応する。
「えぇー? けっこう仲良さそうだったけど。葉山くんなんて、見たことないくらい上機嫌だったし」
「そりゃあ、愉快になるようなことが普段ないからだけど」
下手に刺激するんじゃない。
葉山くんは応戦上等だと言い返す。ピシリ、と空気が凍った。
「へぇ、それなのに水月さんの前では楽しそうにするんだぁ。付き合ってるの?」
「お前にはどうでもいいことだろ。邪魔だ」
宇野山さんは葉山くんの冷たい物言いにムッとして去っていったが、その先ではひそひそ声の応酬が繰り広げられている。怒りが向かった先は葉山くんなのか、それともわたしなのか。
きっとわたしなのだろう。葉山くんはクラスでいちばんイケメンで、読書ばかりしていることもミステリアスや理知的だと好印象になっている。
わたしはそんなイケメンをたぶらかした悪い女だ。
「それで、とはずがたりだけど」
「おはよう、つづりちゃんー」
葉山くんが再度わたしに話をしたとき、ちょうど綾子ちゃんが登校してきた。こちらは悪意がないので許せる。葉山くんも諦めたのか、すっと椅子の角度を戻して本を読み始めた。ここからでは何を読んでいるのかわからない。
「あれっ、それ何読んでるの? えらく表紙がシンプルだけど……『とはずがたり』?」
「ああ、それ日本の古典。鎌倉時代の後深草院二条さんが書いた作品だよ」
条件反射で流れるように説明してから、はっとする。綾子ちゃんは怪訝な表情でわたしを見ていた。
「古典? つづりちゃんって、そんなに難しい本読むの?」
「ええっと……志望大学の過去問にこれが出てたから読んでるの。現代語訳だとけっこう読みやすいよ」
「ふぅん、そっか。色々考えてるんだ」
つっかえながらもそれらしきものを言えてホッとする。──それも束の間、とんでもないミスをしてしまったことに気がついた。
葉山くんが椅子を手前に引く。わたしと彼との距離が、また離れてしまった。
綾子ちゃんだけが新刊の女性向けライトノベルを取り出して、楽しそうにしている。イケメン王子をたぶらかそうとした悪役令嬢が処刑される話だ。その表情が乾いていることは、絶対に指摘しない。
(どうやって葉山くんにおちくぼ姫を読み終わったって伝えよう……?)
登校してすぐに図書室に寄って、おちくぼ姫を返却した。古典コーナーは充実しているものの、あまり手に取る人はいない。すぐに借りられることもないから、気づいたときに取ってくれることを祈るのもひとつの手ではあった。
それでも。
葉山くんには一刻も早く、おちくぼ姫を手に取ってほしかった。わたしを経た言葉の歴史に触れてほしかったこともあるし、『どうして教室で古典を読まないのか』という問いに答えられなかったことに対する罪滅ぼしも兼ねて。
メモ用紙に書いて机に入れようか? ──ダメだ、運動部朝練後の一軍がいる。男子も女子も両方数人いるから、ラブレターだとかで意図しない盛り上がりをさせてしまう。
それじゃあ、葉山くんが登校してきたら声をかける? ──わたしと葉山くんに、特別な接点はない。あとから詮索されても困る。タイミングによっては作歌ちゃんや綾子ちゃんから根掘り葉掘り聞かれてしまうかもしれない。彼女たちはそうするようなタイプではないと思うが、念のため。
妙に早く登校してしまったのに、手持ち無沙汰にそわそわすることしかできなかった。案は出てくるけれど、人目を気にしている限りなにも達成できない。
もういいや、今日にでもチェックしてくれるだろう。
諦めて、鞄から本を取り出す。流行りの本ではなく、日本の古典。とはずがたりだ。
葉山くんから言われたことがどうしても引っかかって、今日勇気を出して教室で好きな本を読むことにした。
もうわたしたちは高校生。読んでいる本ごときでとやかく言われるような環境ではないと信じたい。
それに、葉山くんもいる。古典をわたしか、それ以上に熱く愛していて、人にどう思われても飄々としている彼が。
ページをめくると、分厚くつやつやした紙に昔は頻繁に使われていた色の名前が載ってある。作中で着物の色などを思い描くにはどうしても必要な知識だからだ。
昔は現代よりもたくさんの言葉を通して四季を見ていたのかな。この初夏を、鎌倉時代の彼女はどういった言葉で表現するのだろう。
色の表を見ているだけで、うっとりとした気分に浸れる。教室の世界から古典の世界に、すとん、と落とされたような感覚を抱いた。
夢心地のままページをめくると、訳者である佐々木和歌子さんの文章が書いてあった。この文章が読む前からわたしを『とはずがたり』の空間へ誘う。心が、脳の細胞ひとつひとつが、後深草院二条の存在を欲する。
待ちきれなくなってもうひとつめくると、とうとうとはずがたりの本文が始まり──。
「おはよう。それ読んでるってことは『おちくぼ姫』は返却したってこと?」
凛とした声が上から降ってきた。声のするほうを見ると、予想通り葉山くんの端正な顔がこちらを向いている。
「うん。譲ってくれてありがとう」
「別に、順番が左右するくらいどうってことないよ」
とくり、とくり。心臓がいつもより大袈裟に振る舞う。
ふっと口角を上げてみせると、葉山くんは自分の席へ座った。しかし椅子の角度を変えて、顔はそのままわたしを向いたままだ。
「水月、とはずがたり好きなんだ。けっこう読んでる感じだから」
「中学生のときこれに出会ってね。それから時々読み返してるよ。おこがましいかもしれないけど、後深草院二条に自分を重ねたりしながら」
「二条に自分を重ねるのか」
葉山くんは興味深そうに身体を乗り出した。鎌倉時代から運んできたようなかぐわしい匂いが鼻腔をつつく。
周りの女子はシトラスの匂いがどうだとか、石鹸の匂いがどうだとか言っているが、わたしはこういったお香のような匂いが好きだった。
「周りの環境に翻弄されるところとか、それでも強かに生きるところとか。どんな環境でも用意されてしまったなら、結局は生きていくしかないんだなって」
「なるほど、そういった受け取りかたもあるのか」
彼は違ったらしいが、包み込むようにわたしの考えも受け入れてくれた。筆舌に尽くし難い幸福感を覚える。
もっと話したい。葉山くんはどのような受け取りかたをしたのか。二条の生き様についても、鎌倉時代と現在の共通点なんかも。
もっと、もっと。
「葉山くんはとはずがたりを読んでどう思ったの?」
「そうだな──」
口が勝手に動く。こんなことはいつぶりだろう。いつもは受け取り手が傷つけないか、不快に思わないか考えてから言葉を発していたのに。
葉山くんの口が開く。その口からはどんな感情が紡ぎ出されるのだろう。
「あれ、二人ってそんな仲だったっけー?」
高いだけの声が葉山くんの言葉を遮った。首を締めてやろうか、なんて物騒な考えが一瞬だけ頭をよぎる。
殺意を抑えて、「ただ本の話をしてただけだよ」と笑う。彼女は準一軍の宇野山だ。機嫌を損ねるとすぐにあることないことを含めた悪口を拡散されるから、繊細に考えて対応する。
「えぇー? けっこう仲良さそうだったけど。葉山くんなんて、見たことないくらい上機嫌だったし」
「そりゃあ、愉快になるようなことが普段ないからだけど」
下手に刺激するんじゃない。
葉山くんは応戦上等だと言い返す。ピシリ、と空気が凍った。
「へぇ、それなのに水月さんの前では楽しそうにするんだぁ。付き合ってるの?」
「お前にはどうでもいいことだろ。邪魔だ」
宇野山さんは葉山くんの冷たい物言いにムッとして去っていったが、その先ではひそひそ声の応酬が繰り広げられている。怒りが向かった先は葉山くんなのか、それともわたしなのか。
きっとわたしなのだろう。葉山くんはクラスでいちばんイケメンで、読書ばかりしていることもミステリアスや理知的だと好印象になっている。
わたしはそんなイケメンをたぶらかした悪い女だ。
「それで、とはずがたりだけど」
「おはよう、つづりちゃんー」
葉山くんが再度わたしに話をしたとき、ちょうど綾子ちゃんが登校してきた。こちらは悪意がないので許せる。葉山くんも諦めたのか、すっと椅子の角度を戻して本を読み始めた。ここからでは何を読んでいるのかわからない。
「あれっ、それ何読んでるの? えらく表紙がシンプルだけど……『とはずがたり』?」
「ああ、それ日本の古典。鎌倉時代の後深草院二条さんが書いた作品だよ」
条件反射で流れるように説明してから、はっとする。綾子ちゃんは怪訝な表情でわたしを見ていた。
「古典? つづりちゃんって、そんなに難しい本読むの?」
「ええっと……志望大学の過去問にこれが出てたから読んでるの。現代語訳だとけっこう読みやすいよ」
「ふぅん、そっか。色々考えてるんだ」
つっかえながらもそれらしきものを言えてホッとする。──それも束の間、とんでもないミスをしてしまったことに気がついた。
葉山くんが椅子を手前に引く。わたしと彼との距離が、また離れてしまった。
綾子ちゃんだけが新刊の女性向けライトノベルを取り出して、楽しそうにしている。イケメン王子をたぶらかそうとした悪役令嬢が処刑される話だ。その表情が乾いていることは、絶対に指摘しない。