ヒュッと、明子が息を呑む。
 小春も大いに動揺したが、もとより十分あり得ることだ。明子は平静を取り繕い、「どなたからですか」と問いかけた。

「お相手は、貿易商を営む樋上商会の御子息だ」
「樋上商会ってあの……? 貿易の他にも手広く事業をされていて、成功を収めていらっしゃる……」
「ああ。もとより大きな会社だが、ここ数年でさらに勢いをつけているね。社長は派手好きの遊び人だと噂されているが、経営の腕は確かだ。ひとり息子がいて、ぜひに……とお話をいただいた」

 明子に読み書きを習ったおかげで、最近では新聞も少し目を通すようになった小春は、一応その樋上商会の名前は知っていた。どうやら明子のお相手は大企業の御曹司らしい。
 現時点では、話自体はそう悪くなさそうに聞こえる。
 だが有文の顔つきは相変わらず硬い。

「この縁談には、実は先方の特殊な事情があってね……すぐに結婚を進めるというわけではないんだ。むしろ、成立しない可能性の方が高いかもしれない」
「おっしゃっている意味がよく……?」

 うろたえる明子に、有文は順を追って説明する。
 まず樋上社長の方は、息子を華族の令嬢と体よく結婚させて、箔をつけたいという目論見があるようだ。

 言ってしまえば、華族であるなら誰でもいい。相手側も写真でくらいしか、明子のことを知らないだろう。地位や名誉を手に入れんと、華族との繋がりを求める縁談は珍しいものでもなかった。
 しかし当の御子息が、結婚に乗り気ではないという。

「この話を私のところに持ってきたのは、その御子息の専属秘書を名乗る男でね。御子息は頑なに縁談を跳ね除けていて、すでに何件か破談になっているそうだ。そこで困り果てた樋上社長が、息子と交渉した上で、お試しの結婚期間を設けることになったんだよ」
「お試しの結婚期間? どういうことですか」
「こちらはただ、樋上の家に三ヶ月ほど住んで、御子息とそれらしく過ごしてくれたらいいと。要は疑似結婚で、籍を入れる必要もない。樋上社長としては、そうすれば息子も相手に情が移って、さすがに折れるだろうとの見立てだが……」

 強引に結婚させてしまわないあたり、社長はその息子に強く出られないと見た。小春はふわっと、親に甘やかされたお坊ちゃんを想像する。

 それにしたって、とんでもない話だ。

「つまり先方のワガママに、私がお付き合いしろと? そんな話、聞いたこともありませんわ」

 普段は穏やかな明子の声に、明らかな険がこもる。
 それもそうだろう。由緒正しき華族のご令嬢に対して、なんとも失礼な申し出だ。その秘書いわく、『我が主には簡単に結婚できない、切実な理由があるのですよ』とのことだが、それはこちらが考慮すべきことではない。

(でも、結婚できない切実な理由ってなんだろう……?)

 密かに疑問に思う小春の横で、明子は「お断りはできないの?」と不愉快そうに尋ねる。

「それが……私たちの父が……」

 気まずそうに言いかける有文。
 その言葉で、ハッと明子は勘づいたようだ。

「……まさかお父様、樋上社長にも借金をされていたの」