入るよう言われて戸を開ければ、ひとりの少女が鏡台の前に座っていた。「おはよう、小春。呼びつけてごめんなさいね」と控え目に微笑む様は、清らかなハナミズキの花のようだ。
ハナミズキは大正の初め頃、日本が米国に桜を寄贈した返礼に、米国から贈られたという歴史がある。
小春はいそいそと入室した後、彼女の顔色を確認する。
「今日は起きていても大丈夫なんですか? お体の調子よさそうですね」
「ええ。薬が効いたのか、気分がよくて……久方ぶりに学校にも行こうと思うの。髪を小春に結ってほしくて」
「かしこまりました! お友達に負けないくらい可愛くします!」
明子は生まれつき病弱で、通っている女学校も休みがちだ。だけど成績のよい才女であり、体調のいい時は小春に読み書きなども教えてくれた。
小春は櫛を取り、明子の長い髪を梳いていく。
「ふふっ……いっそ小春が、私の替わりに通ってくれてもいいのよ? 顔立ちが似ているのだから、入れ替わっても誰も気付かないんじゃないかしら」
「な、なにを言っているんですか!」
とんでもない提案に、小春は手にしたリボンを落としかける。
ふたりは顔の造りも体格も、有文が評するように似通っていた。どちらも丸顔で瞳が大きく、美人とまではいかないが可憐な愛嬌がある。
だが当然、細かい違いは多く、そもそもたおやかで儚げな明子と、雑草根性丸出しのたくましい小春とでは、印象に大きな差があるだろう。
しかしながら、明子はバレない自信があるようだ。
「小春が私の真似をすれば、きっと問題なくできるわ。あなたは器用な上に頭もいいもの。私が教えたこと、全部すぐに覚えたでしょう」
「それは明子様の教え方が上手いから……」
「小春は謙虚ね。お友達は騙せなくとも、私をあまり知らない同級生や先生なら騙せそう……本当に私のふりして行ってみる?」
「か、勘弁してください……!」
全力で拒否する小春に、明子は口許に手を添えてクスクスと笑う。
彼女は大袈裟な反応をする小春が面白いらしく、時折こういう冗談でからかってくるのだ。
そんなやり取りをしているうちに、明子の髪は整った。三つ編みを折りたたんで幅広のリボンをつけた束髪は、流行のマガレイトだ。上品な小豆色のリボンは明子にとても似合っている。
「さすが小春ね。佳代より上手いわ」
体を傾けて鏡で確認し、明子も満足げに頷いた。佳代はなにかと大雑把なので、こういった作業には向かないのだ。
ふと小春は思いついて、先ほどのからかいのささやかな仕返しに、「実近さんに見せたら可愛いって褒めてくれますよ」と囁いた。途端、明子の頬にサッと朱が差す。
実近は、明子が昔から世話になっている医者の家で、書生をしている二十一歳の青年だ。
帝大で医学を学んでおり、将来有望な上に真面目で人当たりもいい。医者と共に珠小路子爵家にも何度か訪れていて、明子と惹かれ合っていることは小春にもすぐに察せられた。
「お、おかしなことを言うのはよしさない、小春!」
「おかしくないですよ、絶対に褒めてくれますもん」
体は弱くとも心は凛としている明子が、彼の話題になるとたちまちただの乙女になる。そんな明子が可愛らしく、小春はニコニコしてしまう。
(おふたりの恋が叶うといいなあ)
片や華族のご令嬢、片や一学生。
立場の違いから成就は困難で、しがらみや障害ばかりであろう。それでもふたりが結ばれるようにと、小春は願わざるを得ない。
そして色恋の話になると、どうしても頭をよぎるのは金色の瞳だ。
(おはじきさん……元気かな。今はどこでなにをしていらっしゃるのだろう)
それこそ明子と実近よりも身分違いだったかもしれない、小春の淡い初恋の相手。今でも時折彼のことを想っては、小春の胸はきゅっと締めつけられる。
料亭の下働き娘など忘れて、良家の綺麗なお嫁さんをもらって幸せでいてくれたら……。
だけどその考えに反して、一生小春のことを忘れないでほしいとも願う。
少なくとも小春の方はこの先も一生、忘れることなどできそうにないのだから。
(私の分も、明子様には幸せになってほしい……)
身形も完璧に仕上げた明子を前に、小春は感傷を隠して笑う。
明子は青い矢絣の銘仙に海老茶袴を穿き、髪は小春が整えたマガレイトで、巷であふれる女学生らしい格好になった。
そのまま部屋から出る彼女を、小春も見送ろう……としたのだが、先に戸の向こうで「明子はいるかい?」と声がする。
早朝には仕事に出たはずの有文の声に、明子と小春は驚いて顔を見合わせた。
「お兄様、どうなされたの? お仕事で問題でも?」
「いや、そういうわけではないんだが……」
戸を開けてやれば、有文は硬い顔をして立っていた。煮えきらない態度で口をまごつかせている。
「その、もしかして、これから学校だったかい?」
「ええ、久方ぶりに……」
「そうか。早く伝えた方がいいかと、仕事を抜けてきたんだけれど……明子が学校から帰ってきてからにしようか」
「いいえ、今聞かせてくださいまし。気になって勉学も身に入りませんわ」
「……お前がいいなら、今ここで話そう」
明子は部屋に有文を招き、向かい合って腰を下ろす。
小春は退出するべきか悩んだが、明子が不安そうに小春の着物の袖を掴んでおり、有文も出ていくよう言わなかったため、気配を消して同席することにした。
ひっそりと、小春は明子の後ろに控える。
一呼吸おいて、有文は意を決したように口を開いた。
「――明子に縁談が来た」
ハナミズキは大正の初め頃、日本が米国に桜を寄贈した返礼に、米国から贈られたという歴史がある。
小春はいそいそと入室した後、彼女の顔色を確認する。
「今日は起きていても大丈夫なんですか? お体の調子よさそうですね」
「ええ。薬が効いたのか、気分がよくて……久方ぶりに学校にも行こうと思うの。髪を小春に結ってほしくて」
「かしこまりました! お友達に負けないくらい可愛くします!」
明子は生まれつき病弱で、通っている女学校も休みがちだ。だけど成績のよい才女であり、体調のいい時は小春に読み書きなども教えてくれた。
小春は櫛を取り、明子の長い髪を梳いていく。
「ふふっ……いっそ小春が、私の替わりに通ってくれてもいいのよ? 顔立ちが似ているのだから、入れ替わっても誰も気付かないんじゃないかしら」
「な、なにを言っているんですか!」
とんでもない提案に、小春は手にしたリボンを落としかける。
ふたりは顔の造りも体格も、有文が評するように似通っていた。どちらも丸顔で瞳が大きく、美人とまではいかないが可憐な愛嬌がある。
だが当然、細かい違いは多く、そもそもたおやかで儚げな明子と、雑草根性丸出しのたくましい小春とでは、印象に大きな差があるだろう。
しかしながら、明子はバレない自信があるようだ。
「小春が私の真似をすれば、きっと問題なくできるわ。あなたは器用な上に頭もいいもの。私が教えたこと、全部すぐに覚えたでしょう」
「それは明子様の教え方が上手いから……」
「小春は謙虚ね。お友達は騙せなくとも、私をあまり知らない同級生や先生なら騙せそう……本当に私のふりして行ってみる?」
「か、勘弁してください……!」
全力で拒否する小春に、明子は口許に手を添えてクスクスと笑う。
彼女は大袈裟な反応をする小春が面白いらしく、時折こういう冗談でからかってくるのだ。
そんなやり取りをしているうちに、明子の髪は整った。三つ編みを折りたたんで幅広のリボンをつけた束髪は、流行のマガレイトだ。上品な小豆色のリボンは明子にとても似合っている。
「さすが小春ね。佳代より上手いわ」
体を傾けて鏡で確認し、明子も満足げに頷いた。佳代はなにかと大雑把なので、こういった作業には向かないのだ。
ふと小春は思いついて、先ほどのからかいのささやかな仕返しに、「実近さんに見せたら可愛いって褒めてくれますよ」と囁いた。途端、明子の頬にサッと朱が差す。
実近は、明子が昔から世話になっている医者の家で、書生をしている二十一歳の青年だ。
帝大で医学を学んでおり、将来有望な上に真面目で人当たりもいい。医者と共に珠小路子爵家にも何度か訪れていて、明子と惹かれ合っていることは小春にもすぐに察せられた。
「お、おかしなことを言うのはよしさない、小春!」
「おかしくないですよ、絶対に褒めてくれますもん」
体は弱くとも心は凛としている明子が、彼の話題になるとたちまちただの乙女になる。そんな明子が可愛らしく、小春はニコニコしてしまう。
(おふたりの恋が叶うといいなあ)
片や華族のご令嬢、片や一学生。
立場の違いから成就は困難で、しがらみや障害ばかりであろう。それでもふたりが結ばれるようにと、小春は願わざるを得ない。
そして色恋の話になると、どうしても頭をよぎるのは金色の瞳だ。
(おはじきさん……元気かな。今はどこでなにをしていらっしゃるのだろう)
それこそ明子と実近よりも身分違いだったかもしれない、小春の淡い初恋の相手。今でも時折彼のことを想っては、小春の胸はきゅっと締めつけられる。
料亭の下働き娘など忘れて、良家の綺麗なお嫁さんをもらって幸せでいてくれたら……。
だけどその考えに反して、一生小春のことを忘れないでほしいとも願う。
少なくとも小春の方はこの先も一生、忘れることなどできそうにないのだから。
(私の分も、明子様には幸せになってほしい……)
身形も完璧に仕上げた明子を前に、小春は感傷を隠して笑う。
明子は青い矢絣の銘仙に海老茶袴を穿き、髪は小春が整えたマガレイトで、巷であふれる女学生らしい格好になった。
そのまま部屋から出る彼女を、小春も見送ろう……としたのだが、先に戸の向こうで「明子はいるかい?」と声がする。
早朝には仕事に出たはずの有文の声に、明子と小春は驚いて顔を見合わせた。
「お兄様、どうなされたの? お仕事で問題でも?」
「いや、そういうわけではないんだが……」
戸を開けてやれば、有文は硬い顔をして立っていた。煮えきらない態度で口をまごつかせている。
「その、もしかして、これから学校だったかい?」
「ええ、久方ぶりに……」
「そうか。早く伝えた方がいいかと、仕事を抜けてきたんだけれど……明子が学校から帰ってきてからにしようか」
「いいえ、今聞かせてくださいまし。気になって勉学も身に入りませんわ」
「……お前がいいなら、今ここで話そう」
明子は部屋に有文を招き、向かい合って腰を下ろす。
小春は退出するべきか悩んだが、明子が不安そうに小春の着物の袖を掴んでおり、有文も出ていくよう言わなかったため、気配を消して同席することにした。
ひっそりと、小春は明子の後ろに控える。
一呼吸おいて、有文は意を決したように口を開いた。
「――明子に縁談が来た」