――けれど、再会は意外にも近いうちに訪れる。
少年の父が蝶乃屋を気に入ったようで、頻繁に訪れるようになったのだ。店にとってもありがたいことである。
乗り気ではなかったはずの少年も、いつも眼鏡と女物の蒔絵根付をつけて、必ず父についてきていた。そして宴の最中に抜け出しては、こっそり小春に声をかけてくれた。
「今日も忙しそうだな、小春。ちゃんと休めているのか?」
「おはじきさん!」
三度目くらいに会った時、名を尋ねられたので小春は正直に答えた。
だが少年の方は、あまり名乗りたくないようだった。
接客はあまりせず、皿洗いなどの裏方作業が中心の小春は、お客様の名前をひとりひとり把握しているわけでもない。だから彼のことを、勝手にあだ名をつけて呼んでいた。
そのあだ名に、また少年は腹を抱えて笑った。
一見すると冷たい雰囲気の彼は、小春の前ではよく笑うし感情豊かだった。
ささやかなやり取りだけだったが、ふたりはどんどん仲良くなって、おはじきさんは真剣な顔でこんなことも言ってくれた。
「こんな鬼がじきに生まれるだろう場所に、お前を置いておけない。俺がいずれ、必ず小春を改めて迎えに行く」
鬼とはあの、妖怪の類いの鬼だろうか。
おはじきさんはたまに変わった表現を使う。
母も〝心に住まう鬼〟がどうのと話していたが、彼が言うのは素行の悪いお客のことかなと、小春はひとりで解釈した。
「えっと、おはじきさんが私を迎えに来てくださるんですか?」
「ああ。だからもう少し待っていろ」
まるで告白のような言葉に、小春は胸が躍ったが、本気にはしていなかった。
彼と自分では、立場もなにもかもがつり合わない。
きっとこれは社交辞令というやつだ。でも否定するようなことも言いたくなくて、ただ笑顔で「はい」と頷いた。
そんな交流が半年ほど続いた頃。
おはじきさんは突然、ピタリと来なくなった。
(お父様の方も来ていないみたいだし……うちに飽きちゃったのかな)
厳しい話、ここ最近の蝶乃屋は、角を曲がったとこにある蜂須屋にお客を根こそぎ取られていた。
もともと同業のライバル店ではあったが、やり手の若女将が仕切るようになってから、あちらは客入りも評判も上々。こちらは下降の一途を辿っている。
そのせいで大女将の機嫌がたいそう悪く、それこそ日に日に、鬼のような形相になっていっていた。
小春が当たられることもしばしばで、昨晩も理不尽に喚かれて頬を叩かれた。
(おはじきさんに会って、元気をもらいたかったのにな……)
しょんぼり肩を落としていたところ、まるで追い打ちをかけるように「ちょっと来な、小春」と、大女将から呼び出しがかかる。
仁王立ちする大女将に、小春はまた叩かれるのかとビクビクした。
実際、叩かれる方がマシな事態ではあったのだけれど……。
「い、今すぐ荷物をまとめて出ていけって……待ってください! 私、なにか粗相でもしましたかっ?」
大女将の部屋で告げられた解雇通告に、小春は唖然とした。いくらなんでも、それは急だし横暴すぎる。
だが抗議など受け付ける間もなく、大女将は「うるさい! さっさと言うことを聞きな!」と怒鳴った。
「お前の他にも何人か辞めさせたんだ。うちにはもう、今いる従業員を雇う余裕はないんだよ! 昔馴染みの子供だからって面倒見てきたがね、こっちが限界なんだから仕方ないだろう!」
なんと、小春が想像していたよりも、蝶乃屋の経営は危うかったらしい。
それにしたって雪の夜にわざわざ放り出すのは、大女将の当てつけに違いなかった。
そうして小春はあれよあれよという間に、天涯孤独な上に働く場所も、住む場所も失くしてしまったのだった。
※
「もう、どのくらい外にいるんだろう……」
現実に戻ってきて、小春は青ざめた唇で独り言ちる。
少ない所持金では泊まれる宿もなく、適当な店に入って温まることもできない。もう一時間近くは雪降る花街の中を、ぐるぐると彷徨い歩いている。
「あっ! あの屋根の下で少し休ませ……きゃっ!」
雪をしのげそうな空き家を見つけて、反射的に走り寄ろうとしたところ、かじかんだ足が邪魔をした。
ズサッと、小春は無様にも倒れ込む。
その拍子に足首も捻ってしまったようで、じんわり鈍い痛みが襲った。
(ダメだ……起き上がることも、もう……)
ようやく休めそうなところがあったというのに、小春の方が力尽きた。助けを求めたくても、運悪く近くには人もいない。
体はどんどん、凍り付いたように温度を失っていく。
(このまま死んじゃうのかな、私)
それならもう一度、最期におはじきさんに会いたかった。
たとえ彼の言葉が本気じゃなかったとしても、小春は約束した通りに、彼が迎えに来るのを夢見て待っていたかった。
(おはじきさん……)
そこでふと、遠くから足音が聞こえた。
閉ざされかけていた小春の視界に、走ってくる誰かの姿が映り込む。
まさか死ぬ前の幻覚で、おはじきさんが迎えに来てくれたのかと、小春はなけなしの力を振り絞って顔を上げた。
「ああっ、大変だ。これは相当弱っているね」
「ど、なた……ですか……」
そこにいたのは、待ち侘びた彼ではなかった。インバネスコートを着て帽子を被った、二十代半ばくらいの若い紳士だ。優しげな面立ちは、こちらを心配そうに見つめている。
小春の問いに、紳士は答える間もなく、大きく声を張り上げる。
「盛太郎、早くこちらに来ておくれ! この子を家に運んで、まずは体を温めないと!」
紳士はコートが濡れることも厭わず、小春の体を丁寧に抱き上げてくれた。頬に張り付く髪も払ってくれ、「もう大丈夫だよ。君はどこか少し、妹の小さい頃に似ているね」と表情を和らげた。
そのどこかホッとする笑みに、小春はいよいよ全身を弛緩させて瞼を下ろす。
雪舞う夜のこの出会いが、またひとつ彼女の運命を変えるわけだが……今はただ、命あることに安堵したのだった。
少年の父が蝶乃屋を気に入ったようで、頻繁に訪れるようになったのだ。店にとってもありがたいことである。
乗り気ではなかったはずの少年も、いつも眼鏡と女物の蒔絵根付をつけて、必ず父についてきていた。そして宴の最中に抜け出しては、こっそり小春に声をかけてくれた。
「今日も忙しそうだな、小春。ちゃんと休めているのか?」
「おはじきさん!」
三度目くらいに会った時、名を尋ねられたので小春は正直に答えた。
だが少年の方は、あまり名乗りたくないようだった。
接客はあまりせず、皿洗いなどの裏方作業が中心の小春は、お客様の名前をひとりひとり把握しているわけでもない。だから彼のことを、勝手にあだ名をつけて呼んでいた。
そのあだ名に、また少年は腹を抱えて笑った。
一見すると冷たい雰囲気の彼は、小春の前ではよく笑うし感情豊かだった。
ささやかなやり取りだけだったが、ふたりはどんどん仲良くなって、おはじきさんは真剣な顔でこんなことも言ってくれた。
「こんな鬼がじきに生まれるだろう場所に、お前を置いておけない。俺がいずれ、必ず小春を改めて迎えに行く」
鬼とはあの、妖怪の類いの鬼だろうか。
おはじきさんはたまに変わった表現を使う。
母も〝心に住まう鬼〟がどうのと話していたが、彼が言うのは素行の悪いお客のことかなと、小春はひとりで解釈した。
「えっと、おはじきさんが私を迎えに来てくださるんですか?」
「ああ。だからもう少し待っていろ」
まるで告白のような言葉に、小春は胸が躍ったが、本気にはしていなかった。
彼と自分では、立場もなにもかもがつり合わない。
きっとこれは社交辞令というやつだ。でも否定するようなことも言いたくなくて、ただ笑顔で「はい」と頷いた。
そんな交流が半年ほど続いた頃。
おはじきさんは突然、ピタリと来なくなった。
(お父様の方も来ていないみたいだし……うちに飽きちゃったのかな)
厳しい話、ここ最近の蝶乃屋は、角を曲がったとこにある蜂須屋にお客を根こそぎ取られていた。
もともと同業のライバル店ではあったが、やり手の若女将が仕切るようになってから、あちらは客入りも評判も上々。こちらは下降の一途を辿っている。
そのせいで大女将の機嫌がたいそう悪く、それこそ日に日に、鬼のような形相になっていっていた。
小春が当たられることもしばしばで、昨晩も理不尽に喚かれて頬を叩かれた。
(おはじきさんに会って、元気をもらいたかったのにな……)
しょんぼり肩を落としていたところ、まるで追い打ちをかけるように「ちょっと来な、小春」と、大女将から呼び出しがかかる。
仁王立ちする大女将に、小春はまた叩かれるのかとビクビクした。
実際、叩かれる方がマシな事態ではあったのだけれど……。
「い、今すぐ荷物をまとめて出ていけって……待ってください! 私、なにか粗相でもしましたかっ?」
大女将の部屋で告げられた解雇通告に、小春は唖然とした。いくらなんでも、それは急だし横暴すぎる。
だが抗議など受け付ける間もなく、大女将は「うるさい! さっさと言うことを聞きな!」と怒鳴った。
「お前の他にも何人か辞めさせたんだ。うちにはもう、今いる従業員を雇う余裕はないんだよ! 昔馴染みの子供だからって面倒見てきたがね、こっちが限界なんだから仕方ないだろう!」
なんと、小春が想像していたよりも、蝶乃屋の経営は危うかったらしい。
それにしたって雪の夜にわざわざ放り出すのは、大女将の当てつけに違いなかった。
そうして小春はあれよあれよという間に、天涯孤独な上に働く場所も、住む場所も失くしてしまったのだった。
※
「もう、どのくらい外にいるんだろう……」
現実に戻ってきて、小春は青ざめた唇で独り言ちる。
少ない所持金では泊まれる宿もなく、適当な店に入って温まることもできない。もう一時間近くは雪降る花街の中を、ぐるぐると彷徨い歩いている。
「あっ! あの屋根の下で少し休ませ……きゃっ!」
雪をしのげそうな空き家を見つけて、反射的に走り寄ろうとしたところ、かじかんだ足が邪魔をした。
ズサッと、小春は無様にも倒れ込む。
その拍子に足首も捻ってしまったようで、じんわり鈍い痛みが襲った。
(ダメだ……起き上がることも、もう……)
ようやく休めそうなところがあったというのに、小春の方が力尽きた。助けを求めたくても、運悪く近くには人もいない。
体はどんどん、凍り付いたように温度を失っていく。
(このまま死んじゃうのかな、私)
それならもう一度、最期におはじきさんに会いたかった。
たとえ彼の言葉が本気じゃなかったとしても、小春は約束した通りに、彼が迎えに来るのを夢見て待っていたかった。
(おはじきさん……)
そこでふと、遠くから足音が聞こえた。
閉ざされかけていた小春の視界に、走ってくる誰かの姿が映り込む。
まさか死ぬ前の幻覚で、おはじきさんが迎えに来てくれたのかと、小春はなけなしの力を振り絞って顔を上げた。
「ああっ、大変だ。これは相当弱っているね」
「ど、なた……ですか……」
そこにいたのは、待ち侘びた彼ではなかった。インバネスコートを着て帽子を被った、二十代半ばくらいの若い紳士だ。優しげな面立ちは、こちらを心配そうに見つめている。
小春の問いに、紳士は答える間もなく、大きく声を張り上げる。
「盛太郎、早くこちらに来ておくれ! この子を家に運んで、まずは体を温めないと!」
紳士はコートが濡れることも厭わず、小春の体を丁寧に抱き上げてくれた。頬に張り付く髪も払ってくれ、「もう大丈夫だよ。君はどこか少し、妹の小さい頃に似ているね」と表情を和らげた。
そのどこかホッとする笑みに、小春はいよいよ全身を弛緩させて瞼を下ろす。
雪舞う夜のこの出会いが、またひとつ彼女の運命を変えるわけだが……今はただ、命あることに安堵したのだった。