「奥様は、えっと、本物の奥様にはなられたりはしないのですか……?」
「本物というと?」
「高良様と、正式な婚姻を交わされるおつもりなどは……」
「……そうね。今はお試しだけれど、高良さんのお心次第かしら」
(なんて、私はもちろん、あちらもその気には絶対にならないだろうけど……!)
小春の内心に反して、千津は「私は奥様になら、ずっといてほしいです」といじらしいことを言ってくれる。
「高良様は一見すると冷たくて、ちょっと怖いところは確かにございます。ですが結婚相手としては、きっと理想的ですよ! お仕事もできるし美形ですし! それに根はすごくお優しい方なんです!」
「彼が優しい?」
「はい! 私たち使用人のことを大事にしてくれます!」
一階はすべて見終わったので、また二階へと戻る。その途中で、千津は嬉々として高良のことを語った。
「新人の私を覚えて名前で呼んでくださいますし、無理な労働もさせません。お給料もお休みもしっかりいただけています。それに私がこうしてここで働けているのは、高良様に花街で助けてもらったからなんです」
なんでも千津は、お遣いの途中で掏摸に店の財布を盗られ、怒った店主に店先でひどい折檻を受けていたという。もとより店での扱われ方はひどく、まさしく蝶乃屋での小春とどっこいどっこいだったようだ。
だがそこでたまたま、その掏摸を捕まえた高良が店の財布を返しに来た。彼も狙われたようだが、一枚上手だったのだ。
そして財布を返すだけでなく、ボロボロの千津を見て眉をひそめ、『ちょうど女中がひとり辞めて足りないんだが、うちで働くか』と救い出してくれたという。
「それは……まるで王子様のようね」
「西洋の物語ですよね! まさしくその通りで! どうですか、夫としては理想的な殿方ではありませんか?」
小春の前向きな返答を期待して、千津は飼い主を見上げる子犬のように、円らな目を輝かせている。
しかし、小春はちゃんと重要な点に気付いていた。
「お優しいところがあるのはわかったわ。先ほども気遣ってくださったし……。けれどね、花街に行かれているということは、そちらに馴染みの女性でもいるのではなくて?」
「あっ!」
千津はしまったという顔をする。嘘がつけない性分の彼女は下手にごまかすこともなく、その点についても知っている情報を吐いてくれた。
「実は……あくまで使用人間での噂ですが、高良様は花街にずっと探している方がいるそうなのです」
「花街で、といったら……」
「高良様が焦がれる相手ですし、かなり器量よしの芸者では……と、もっぱら囁かれております」
「なるほど、芸者ね」
高良が頑なに結婚を拒む理由に、小春は納得がいった。すでに想い人がいるのだ、彼には。
(これで万が一、私が気に入られて本物の花嫁に……って流れは、さらになくなったよね)
小春的には願ったり叶ったりではあったのだが、千津はあわあわと謝罪する。
「すみません、奥様にこんな話……! 仮にもご結婚されるかもしれない方に、想い人なんてご不快ですよね。でも本当に、あくまで噂ですので! あまり真に受けないでください!」
「わかったわ、ただの噂ということにしておくから」
そうこうしているうちに、小春用にあてがわれた部屋へと到着した。
二階の一番右奥。広さは十二畳ほどで、鏡台や長椅子、天蓋つきの寝台などが置かれている。掃除は行き届いているが使われている痕跡はなく、長年放置されていた部屋のようだ。
慣れない洋室に、小春はきょろきょろと室内を見回したい気持ちを、千津の手前グッと我慢する。
「気に入っていただけました?」
「ええ」
「よかったです! また後ほどお茶を持って参りますね!」
にこにこと笑って、千津は一度場を後にした。
ひとりきりになった小春は、ご令嬢の皮をいったん脱ぎ去り、ふかふかの寝台にボフンッと腰掛ける。
「はあ……どっと疲れたな」
明子の御召を着ていなかったら、このまま倒れ込んでいただろう。
しばらくなにをするでもなく、気を抜いて座り込んでいたが、ふと思い立って着物の袖からポケットチーフを取り出す。
小春の手帛は女中頭が回収していったが、こちらは渡すのを忘れていたのだ。
「樋上高良さん……」
想像していたよりは、ひどい人物ではなさそうだ。
むしろ好感の持てる相手かもしれない。
「それにちょっと……おはじきさんに似ていたかも」
小春が素で礼を述べた時、驚いたあの無防備な顔は、どことなく重なるものがあった。
しかし小春の中のおはじきさんは、高良のようなしっかりした体躯の男前ではない。少女と間違う線の細さの、美少年であったと記憶している。彼がかけていた眼鏡も高良にはないし、高良の目はおそらく普通に黒だ。
おはじきさんの名の由来になった、時折金に輝くあの不思議な瞳。
あれがない。
三年という月日を挟んだとしても、やっぱり結びつかないなと、小春はすぐに考えを改めた。
(おはじきさんだったら、運命の再会だったのに……って、あり得ないよね。たとえそうだとしても、正体は明かせないし)
今の小春は、料亭の下働きをしていた吉野小春ではなく、珠小路明子なのだから。
「奥様、失礼いたします。お茶をお持ちしました!」
戻ってきた千津は、ちゃんとノックをしていた。真白の注意は彼女に効いていたらしい。
小春はこのチーフも千津に渡しておこうと、丁寧に折り畳み直す。
それから入るよう、扉の向こうの千津に声をかけた。
――樋上邸での身代わり婚生活は、こうして幕を開けたのだった。
「本物というと?」
「高良様と、正式な婚姻を交わされるおつもりなどは……」
「……そうね。今はお試しだけれど、高良さんのお心次第かしら」
(なんて、私はもちろん、あちらもその気には絶対にならないだろうけど……!)
小春の内心に反して、千津は「私は奥様になら、ずっといてほしいです」といじらしいことを言ってくれる。
「高良様は一見すると冷たくて、ちょっと怖いところは確かにございます。ですが結婚相手としては、きっと理想的ですよ! お仕事もできるし美形ですし! それに根はすごくお優しい方なんです!」
「彼が優しい?」
「はい! 私たち使用人のことを大事にしてくれます!」
一階はすべて見終わったので、また二階へと戻る。その途中で、千津は嬉々として高良のことを語った。
「新人の私を覚えて名前で呼んでくださいますし、無理な労働もさせません。お給料もお休みもしっかりいただけています。それに私がこうしてここで働けているのは、高良様に花街で助けてもらったからなんです」
なんでも千津は、お遣いの途中で掏摸に店の財布を盗られ、怒った店主に店先でひどい折檻を受けていたという。もとより店での扱われ方はひどく、まさしく蝶乃屋での小春とどっこいどっこいだったようだ。
だがそこでたまたま、その掏摸を捕まえた高良が店の財布を返しに来た。彼も狙われたようだが、一枚上手だったのだ。
そして財布を返すだけでなく、ボロボロの千津を見て眉をひそめ、『ちょうど女中がひとり辞めて足りないんだが、うちで働くか』と救い出してくれたという。
「それは……まるで王子様のようね」
「西洋の物語ですよね! まさしくその通りで! どうですか、夫としては理想的な殿方ではありませんか?」
小春の前向きな返答を期待して、千津は飼い主を見上げる子犬のように、円らな目を輝かせている。
しかし、小春はちゃんと重要な点に気付いていた。
「お優しいところがあるのはわかったわ。先ほども気遣ってくださったし……。けれどね、花街に行かれているということは、そちらに馴染みの女性でもいるのではなくて?」
「あっ!」
千津はしまったという顔をする。嘘がつけない性分の彼女は下手にごまかすこともなく、その点についても知っている情報を吐いてくれた。
「実は……あくまで使用人間での噂ですが、高良様は花街にずっと探している方がいるそうなのです」
「花街で、といったら……」
「高良様が焦がれる相手ですし、かなり器量よしの芸者では……と、もっぱら囁かれております」
「なるほど、芸者ね」
高良が頑なに結婚を拒む理由に、小春は納得がいった。すでに想い人がいるのだ、彼には。
(これで万が一、私が気に入られて本物の花嫁に……って流れは、さらになくなったよね)
小春的には願ったり叶ったりではあったのだが、千津はあわあわと謝罪する。
「すみません、奥様にこんな話……! 仮にもご結婚されるかもしれない方に、想い人なんてご不快ですよね。でも本当に、あくまで噂ですので! あまり真に受けないでください!」
「わかったわ、ただの噂ということにしておくから」
そうこうしているうちに、小春用にあてがわれた部屋へと到着した。
二階の一番右奥。広さは十二畳ほどで、鏡台や長椅子、天蓋つきの寝台などが置かれている。掃除は行き届いているが使われている痕跡はなく、長年放置されていた部屋のようだ。
慣れない洋室に、小春はきょろきょろと室内を見回したい気持ちを、千津の手前グッと我慢する。
「気に入っていただけました?」
「ええ」
「よかったです! また後ほどお茶を持って参りますね!」
にこにこと笑って、千津は一度場を後にした。
ひとりきりになった小春は、ご令嬢の皮をいったん脱ぎ去り、ふかふかの寝台にボフンッと腰掛ける。
「はあ……どっと疲れたな」
明子の御召を着ていなかったら、このまま倒れ込んでいただろう。
しばらくなにをするでもなく、気を抜いて座り込んでいたが、ふと思い立って着物の袖からポケットチーフを取り出す。
小春の手帛は女中頭が回収していったが、こちらは渡すのを忘れていたのだ。
「樋上高良さん……」
想像していたよりは、ひどい人物ではなさそうだ。
むしろ好感の持てる相手かもしれない。
「それにちょっと……おはじきさんに似ていたかも」
小春が素で礼を述べた時、驚いたあの無防備な顔は、どことなく重なるものがあった。
しかし小春の中のおはじきさんは、高良のようなしっかりした体躯の男前ではない。少女と間違う線の細さの、美少年であったと記憶している。彼がかけていた眼鏡も高良にはないし、高良の目はおそらく普通に黒だ。
おはじきさんの名の由来になった、時折金に輝くあの不思議な瞳。
あれがない。
三年という月日を挟んだとしても、やっぱり結びつかないなと、小春はすぐに考えを改めた。
(おはじきさんだったら、運命の再会だったのに……って、あり得ないよね。たとえそうだとしても、正体は明かせないし)
今の小春は、料亭の下働きをしていた吉野小春ではなく、珠小路明子なのだから。
「奥様、失礼いたします。お茶をお持ちしました!」
戻ってきた千津は、ちゃんとノックをしていた。真白の注意は彼女に効いていたらしい。
小春はこのチーフも千津に渡しておこうと、丁寧に折り畳み直す。
それから入るよう、扉の向こうの千津に声をかけた。
――樋上邸での身代わり婚生活は、こうして幕を開けたのだった。