静の呼吸音を合図にポロロンと鍵盤を叩く。お互いの呼吸を合わせて流れるように指を動かす。演奏中、普段は触れない相手の手を掠めるということが今日は何度もあった。

「山名、今日どうかした?」

「ごめん、なんか調子悪いみたい。練習不足かも」

俯いて手を握る春花に、静は怪訝な顔をする。もうすぐコンクールだというのに、こんな初歩的なミスを何度も犯す春花はどこかおかしい。

「なんか、あった?今日、元気ない」

音楽室に入ってきたときから感じていた春花の違和感。気のせいかと思っていた静だったが、この様子ではやはり気のせいではないらしい。

「……うん」

口数少なく春花は小さく頷くと、やがて深いため息とは裏腹に、静に笑顔を見せた。

「桐谷くんごめん。私、音大受験できなくなっちゃってさ」

「えっ?」

「両親が離婚したんだ。仕方ないよね、音大ってすごく高いんだもん。お母さんに負担かけたくないし。だから保育の専門学校を受験することにしたの。保育士ってピアノ使うじゃない?だからいいかなーって。まあなんていうか、ピアノ触れるだけ嬉しいっていうか……」

捲し立てるように早口で言う春花はずっとニコニコしていてそれが逆に静の胸を苦しくする。

「桐谷くんは音大頑張ってよね!さ、もう一回練習しよっ!」

春花は明るく振る舞いながら鍵盤に手を置く。いつでも準備万端とばかりにその時を待つが、静は一向に始めようとしない。

春花の手は静によって鍵盤から下ろされた。掴まれた手首は思いのほか力が強く、春花は驚いて静を見る。

「無理すんな。本当は行きたかったんだろ、音大」

「……そんなことないよ」

「俺の前で強がったりするな!」

「桐谷くん……」

「そんな泣きそうな顔して何言ってるんだ。泣けよ。泣けばいいだろ」

「……ううっ」

体の奥の方から溢れてくる気持ちはどんどんと膨れ上がって、やがて春花の視界をぼかす。

「本当は、桐谷くんと一緒に音大に行きたかった……」

グスグスと泣きながら自分の気持ちを吐露すると余計に涙が溢れ出た。しゃくり上げながら泣きじゃくる春花を、静は抱きしめたい衝動に駆られた。けれど静にそんな勇気はなく、ただ隣で静かに見守ることしかできなかった。