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 高校の授業が本格的に始まって、週一回の美術の時間がやってきた。
 初回の授業時に年間計画のレジュメが配られた。
 それは驚くほど単純で、課題は各学期ごとに一つずつしか指定されていなかった。
 あまりのゆるさにみんな唖然としていた。
 なにしろ、四月から七月までの一学期の課題は『学校を描く』だ。
 油絵を一枚描いて提出すればいい、ただそれだけだ。
 しかも、提出すれば最低でも五段階で三の評価がもらえるらしい。
 音楽や書道では絶対に三なんかもらえなかっただろうから、僕にとっては、もうそれだけでありがたい話だった。
 そして、もう一つ。
 学校だったら、どこで何を描いてもいい。
 校内で描いてもいいし、外から校舎を描いてもいい。
 しかも、学校の敷地の外に出てもいいというのだからゆるすぎというものだ。
 美術の授業は午後の二時間つなぎで、他の科目だと昼食でお腹が満たされて睡魔と戦わなければならないところだけど、絵を描くのなら、眠くなったら寝ちゃってもいい。
 どうせ見回りなんて来ないのだ。
「技術的な相談事があったら、私は美術室にいるから、なんでも聞きに来ていいからね」なんて、先生自身が明言してるくらいだ。
 さらに、これだけじゃない。
 自己申告で出欠確認を済ませてしまえば、昼休みから出かけちゃってても構わないんです――と、もうテレビ通販なみに豪華なおまけ盛りだくさんの授業だった。
 実際、ほとんどの生徒は昼休みになると、美術室に顔を出してイーゼルとキャンバスを持ち出し、お弁当を食べに校内へ散っていった。
 もう完全にピクニックだ。
 絵を描いている生徒の後ろを通りかかった校長先生が「お、なかなかいいセンスしてるね」なんてのんきに声をかけていく。
「大丈夫なのか、この学校」と思うけど、信頼と実績に基づく伝統とはこういうものらしい。
 そんなゆるいというかぬるい美術の授業なのに、僕は困り果てていた。
 どこで何を描くか決めかねていたのだ。
 お得意の遠近法でさっさと仕上げてしまおうと、校舎内の廊下の端っこに陣取って下絵を描いていたら、休み時間になった瞬間、他のクラスの連中が教室からあふれ出してきて、みんなが僕のキャンバスをのぞき込んで失笑していくのだ。
 即、退散するしかなかった。
 かといって校庭に出てみれば、陸上トラックも中庭も、体育館の裏側まで、いたるところでピクニックを楽しんでいて、いくら歩き回ってみてもやつらの視界から逃れられるようなボッチ男子に都合の良い居場所なんかどこにもなかった。
 僕はイーゼルを引きずりながら校門を出た。
 うちの学校の東側には小高い丘があり、その斜面には昭和の団地が建っている。
 同じ形の四角いコンクリート四階建てが、雛壇に造成された敷地に仲良く南向きに並んでいる。
 道路を渡って、その丘へ続くゆるい坂道を上がっていく。
 途中で振り向くと、ちょうどいい具合に高校全体が見渡せそうだった。
 僕は一番近い建物の学校側に面した階段をのぼって四階の廊下まで上がってみた。
 ――へえ。
 三階建ての校舎が二つ、プールの飛び込み台みたいに青空に向かって突き出している。
 僕の得意な遠近感が強調された風景だ。
 昭和の団地はもう住む人がいないのか、ペンキがはげて剥き出しのコンクリートのあちこちがボロボロになっていて、ひどい所は内部の鉄筋が露出して錆が垂れている。
 ここなら誰にも迷惑はかからないし、邪魔も入りそうにない。
 僕は道具を広げてさっそく下書きを始めた。
 四月中旬なのに夏日だとニュースになっていた。
 西側に面した階段だけど、壁と屋根があって日陰だから居心地が良い。
 階段の壁に開けられた窓穴から差し込む日差しがコンクリートの床にくっきりと平行四辺形をかたどっている。
 周囲の影は焦げついたように静かだ。
 こんなにいい場所はないなと思った瞬間、僕は飽きてしまった。
 そんなに飽きっぽい性格というわけではないんだけど、誰も見てないところでせっせと絵を描くほど真面目でもない。
 なにしろ、週一回の授業とはいえ、まだ何ヶ月もあるのだ。
 僕は階段隅に立って周囲を見渡してみた。
 こんないい天気なのに、絵なんか描いてる場合じゃないよ。
 いや、こういうときこそ描けよ。
 そんなツッコミは青空の彼方へ飛び去ってしまう。
 北校舎と南校舎の屋上を見下ろしながら、僕は布団を干すみたいに自分の体を折り曲げてコンクリートの壁から外にぶら下げた。
 頭に血が回ってくらくらする。
 なんだか笑ってしまう。
 授業中なんだよな、いちおう。
 頭を上げて今度は腰に手を当てて背中を反らす。
 左上にまぶしい太陽が目に入る。
 なんだか久しぶりだ。
 最近、空なんて見上げたことがない。
 いつもうつむいてばかりいるからか、青空を見上げただけで首がグキッて音を立てるような非モテボッチ男子だ。
 僕は思いっきり腕を突き上げ、口を大きく開けてあくびをした。
 と、そこで学校からチャイムの音が流れてきた。
 おっと、もう終わりの時間か。
 結局、下書きも終わらなかった。
 まあいいや、場所は見つけたんだから、来週からでいいさ。
 何も知らないというのはこわいもので、苦労が待ち受けているなんて考えもしない。
 こんなゆるい課題、どうにでもなると、その時の僕は思っていた。