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家に帰って小冊子を一通り復習しておいたから課題テストはまあまあうまくいった。
でも、返却された答案を見たら、『距離』という漢字の書き取りを間違えていた。
「あ、樋口君ってさ、私と同じだね」
休み時間にあらためて答えを確認していたら、いきなり声をかけられた。
振り向くと、後ろから上原さんが僕の答案をのぞき込んでいた。
「私も『距離』って、『巨』のところをいつも『臣』って書いちゃうんだよね」
アハハハと屈託なく笑う彼女につられて僕も笑ってしまった。
「よく見直しをしろって言われるんだけど、すればするほどどっちだか分からなくなっちゃってね」
「わかるわー」と、良いこと言いましたという調子で人差し指を前後に振る。
僕は中学の時の『バカチン四国』の話をしてみた。
「バカチンって」と上原さんがお腹を押さえて苦しそうに笑う。「さすがにそれはないわぁ。でもテツヤだからしょうがないのか」
笑いが収まったところで、彼女が僕の顔をのぞき込んだ。
「樋口君ってよく分からないけど、おもしろいよね」
そんなふうに言われたのは生まれて初めてだったので僕は返事ができなかった。
気の利いた返しどころか頭の中がピュアホワイトだった。
真夏の池の鯉みたいに口が勝手にパクパクする。
微妙な間が流れたところで、教室の戸口で女子が上原さんの名前を呼んだ。
「ねえ、史緒莉、先輩が呼んでるよ」
「はーい」と、彼女が手をあげる。「じゃ、またね、テツヤ!」
て、テツヤ!?
かろうじてうなずけたけど、声にならなかった。
顔が破裂しそうなほど熱い。
教室の前から出ていく瞬間、彼女はピストルのように手を突き出して僕を指さした。
――撃たれたのかな?
心臓がドキドキしている。
僕は生きている。
でも、撃たれたんだ。
女子と仲良くなったのはそれが初めてだった。
ほんの少しの勇気さえあればいつでも気持ちが触れ合えるはずだった。
でも、たぶん、――それは恋の距離ではなかった。