◇
窓穴から出した体を折り曲げて布団を干すようにぶら下げる。
後頭部がお日様にあぶられて雑巾を絞ったように汗が噴き出る。
呼吸は荒いし、拍動は二倍速で吐きそうだ。
と、その時だった。
「ひくちっ」
――呼んだ?
横を向くと、逆さまの笑顔が僕を見つめていた。
「だぁれだ?」
――目隠しもしていないのに、聞く?
「僕の好きな人」
彼女は照れくさそうに反対側を向くと体を起こした。
僕も起き上がったら立ちくらみがして思わず床にへたり込んでしまった。
「大丈夫?」と、彼女も隣に座る。
安心したせいか、血が逆方向に回り始めたような気分だった。
「も、もう、会えないかと、思ったよ」
「ごめんね、急で」
「どこにいたの?」
「職員室で先生方にお礼を言ってきて、ロッカーから荷物を運んでたら、ものすごい勢いで飛び出していくからびっくりしちゃった」
なんだ、追い越しちゃったのか。
まぶしい夏空に湧き上がる入道雲を飛び越えちゃったんだ。
急に力が抜けていく。
僕の呼吸が整うのを待つように、彼女がぽつりぽつりと話をしてくれた。
おばあさんの介護が必要になって一緒に暮らすことになったこと、その引っ越し先のこと、看護師になる夢、その一言一言を僕は大切に記憶に刻んだ。
彼女のサマーニットの胸にペンキの粉と赤錆がついている。
「えへへ、また汚れちゃった。分かってるのにね」
僕のぐしょぐしょのワイシャツにも同じ赤錆の線がにじんでいる。
「今まで、いろいろありがとうね」と、彼女が立ち上がって胸の汚れをはたいた。
――行くな、行かないでくれ。
僕はその言葉を飲み込んだ。
そんな無責任な言葉を投げつけたところで、彼女を困らせるだけだ。
今の僕らには選択肢などないし、泣き叫んだところで現実を変えられるわけじゃない。
気持ちを伝えられただけでも感謝しないといけないんだ。
空はまぶしいだけじゃない。
僕たちを見ていてくれたんだ。
僕は立ち上がって彼女の横顔を見つめた。
「絶対忘れないから」
言えるのはそれくらいだ。
「ごめんね」と、彼女がうつむく。
そんな顔をしないでよ。
君は何も悪くないし、君のせいじゃないんだから。
「君のかわいいくしゃみも忘れないよ」
「それは忘れてよ」
「やだ」
「意外と頑固だね、テツヤ」
「知らなかった?」
彼女がうなずく。
「僕も知らなかったよ。自分がこんなに頑固だったなんて」
「まだまだ知らないことがいっぱいあるね」
君のことも、もっと知りたかった。
「そろそろ行くね」
「駅まで送って行くよ」
彼女が小さく首を振る。
「お母さんが車で待ってるの」と、学校の駐車場を指さす。「荷物持って帰らないといけないから」
そのまま新しい場所へ行ってしまうのか。
「じゃあ、ここで見てるよ」
「ありがとう」
足元を確かめるように一段ずつ階段を下りていく彼女の背中を見送りながら、僕はこらえきれずに泣いた。
赤ん坊みたいに、幼稚園児みたいに、だだをこねる子供みたいに声を上げて泣いた。
踊り場で向きを変えた彼女も泣いていた。
くしゃくしゃの泣き顔を見せないように彼女が駆け出す。
階段に反響するその足音が僕の心を揺さぶる。
窓穴から顔を出して下をのぞくと、横断歩道を渡って校門へ入る彼女の姿が見えた。
小さな車が彼女の横に止まった。
ドアノブに手をかけた彼女がその手を止めてこちらを向く。
「テーツーヤー!」
まわりの連中が飛び退いて彼女を見ている。
「あーりーがーとー!」
太陽を引きずり下ろすみたいにまっすぐに手を伸ばすと、体を左右に揺らしながら僕に向かってちぎれ飛ぶくらいに手を振っている。
何事かとこちらを見ている連中のことなんかどうでもいい。
突き上げた腕を斜めに下ろし、ピストルの形で僕を狙う。
そして、彼女の口が大きく、四回動いた。
声は出さずに、でも、はっきりとその言葉は僕に伝わった。
ずるいよ。
聞きたいよ。
君のその言葉を聞きたいよ。
だから、僕が代わりにその言葉を叫んだ。
「ぼくもーだーいーすーきーだー!」
まわりの連中が口笛で囃したてるけど、そんなのどうでもいいよ。
うらやましいだろ、ざまあみろ。
ここからでも見えるくらい顔を真っ赤にした彼女は車の中に逃げ込んでしまった。
動き出した車が校門を出たところで一時停止する。
前屈みになってフロントガラス越しに彼女が僕を見上げている。
これが最後だ。
僕は彼女に手を振った。
とびきりの笑顔を贈るつもりだったけど、彼女への思いがあふれ出してどうしても涙が止まらなかった。
車は流れに乗ってゆるいカーブを曲がり、あっという間に消えてしまった。
またどこかで会えるのか。
そんなの分かるわけがない。
そんな約束だってしていない。
僕の目の前には、真っ青な夏空の彼方に向かって伸びる二つの校舎があった。
それは僕の描きたかった風景だった。
でも、もうそこに彼女はいない。
この青空の下、遙か遠く、僕の知らない場所に君はいるけれど。
でも、それは恋の距離じゃない。
いくら探したって、すれ違う運命が遠近法の彼方で収斂する点なんかどこにもなかった。
空がまぶしくて見えなかっただけ。
だから僕は目を閉じて涙がこぼれるのをじっとこらえているしかなかったんだ。