糸の切れた操り人形がフッと意識を失うように訪れる、先輩の指揮からの解放。いわゆる最初のサビ(合唱では何て言うんだろう)を歌っただけで、俺の膝は僅かに震えていた。先輩の左手に文字通り掌握され、縦横無尽に蹂躙されていた呼吸は急にその主を失い、自分の体なのにふらふらとコントロールが効かない。
(…なんだこれ…合唱って…こんなに…。)
最初に聞いた燈子先輩の右手の拍だけでも圧倒されたのに、そのあとの左手だ。
拍を刻み続ける右手を尻目に、上下左右に飛び回る左手。そのたびに、肺だけでなく俺の体内のあちこちに引っかかっていた微細な空気も根こそぎ外に引きずり出され、新しい空気をドスンと腹の底まで吸わされ、また次のフレーズで全てを絞り出される。ひたすら、そんなゼロオールの繰り返しだった。
息を整えながらチラッと左を見ると、呼吸一つ乱れていない様子の翔太。もはや燈子先輩しか視界に入っていないのが丸わかりだ。だがそれは俺の「釘付け」などという陳腐な様相ではなく、先輩の指揮から振り落とされてなるものか、という強い意志を感じる目だった。
俺はようやく、パート練習が何だったのかを知る。
単に体を慣らしたり、歌詞や音を覚えておくためじゃない。この全体練習で、燈子先輩の左手から振り落とされないように、そして他パートの音に惑わされないように、体の動きと自パートの動きを徹底的に染み込ませて、無意識に燈子先輩の指揮に身を任せるため…。
実際は違うのかもしれないが、合唱に関してド素人の俺はそう解釈した。
「いい感じだったねー」
テキパキと改善点を述べ、二回目。またも俺の体内の空気が、全て絞り出されては入れ替わる。
再び歌を止め、よくなったねぇ、と先輩。いくつかの改善点と…
「ソプラノさん…三回繰り返すとこの最後、『♪風~の中か~ら』だけ音が変わるからね、伴奏が入るまではわかりづらいかもしれないけど、『か』特に注意してね」
(!!!!)
燈子先輩が、初めて歌った。
それはたった数音で。説明の合間の、単なる例え歌。
だけど俺にとっては、待ち望んでいた、燈子先輩の歌声。それは俺の想像通り、いやその想像をはるかに超えて、ただただ澄んで、美しかった。
翔太の「綺麗で透明感のある、だけど力強いソプラノ」という言葉が蘇る。
「それじゃ、続きねー」
待って。
(…なんだこれ…合唱って…こんなに…。)
最初に聞いた燈子先輩の右手の拍だけでも圧倒されたのに、そのあとの左手だ。
拍を刻み続ける右手を尻目に、上下左右に飛び回る左手。そのたびに、肺だけでなく俺の体内のあちこちに引っかかっていた微細な空気も根こそぎ外に引きずり出され、新しい空気をドスンと腹の底まで吸わされ、また次のフレーズで全てを絞り出される。ひたすら、そんなゼロオールの繰り返しだった。
息を整えながらチラッと左を見ると、呼吸一つ乱れていない様子の翔太。もはや燈子先輩しか視界に入っていないのが丸わかりだ。だがそれは俺の「釘付け」などという陳腐な様相ではなく、先輩の指揮から振り落とされてなるものか、という強い意志を感じる目だった。
俺はようやく、パート練習が何だったのかを知る。
単に体を慣らしたり、歌詞や音を覚えておくためじゃない。この全体練習で、燈子先輩の左手から振り落とされないように、そして他パートの音に惑わされないように、体の動きと自パートの動きを徹底的に染み込ませて、無意識に燈子先輩の指揮に身を任せるため…。
実際は違うのかもしれないが、合唱に関してド素人の俺はそう解釈した。
「いい感じだったねー」
テキパキと改善点を述べ、二回目。またも俺の体内の空気が、全て絞り出されては入れ替わる。
再び歌を止め、よくなったねぇ、と先輩。いくつかの改善点と…
「ソプラノさん…三回繰り返すとこの最後、『♪風~の中か~ら』だけ音が変わるからね、伴奏が入るまではわかりづらいかもしれないけど、『か』特に注意してね」
(!!!!)
燈子先輩が、初めて歌った。
それはたった数音で。説明の合間の、単なる例え歌。
だけど俺にとっては、待ち望んでいた、燈子先輩の歌声。それは俺の想像通り、いやその想像をはるかに超えて、ただただ澄んで、美しかった。
翔太の「綺麗で透明感のある、だけど力強いソプラノ」という言葉が蘇る。
「それじゃ、続きねー」
待って。