燈子先輩の存在それ自体が歌うモチベーションになっている俺と、本人がいなくても音楽性を愛し続けることのできる翔太。どちらの愛が深いのかと言われても、俺にはわからなかった。
 翔太はいつも、俺より先にいる。俺の知らない感情や理屈を知っていたとしても、不思議じゃない。
 それでも…今の俺が感じてる心の動きは、俺にとっては普通の恋だ。たぶん。それが翔太には、そんなに理解できないものなのか…。
 認めたばかりの俺の気持ちは、直後に難航した。

 翌日、棘と気まずさを抱えたまま練習に行くと、翔太は来ていなかった。
 風邪気味だという。昨日の雨に打たれた喉を守ったのだろう。
 珍しく帰途が一人になってしまうな、と思いつつ、昨日の今日で何を話しながら帰れる気もしなかったので、俺は少しだけ安堵した。
 翔太のいない練習。ふとした音に何度も迷いが生じて、俺は思っていたより隣の翔太の歌声に頼っていたことを実感させられた。

 金曜だし、クラスの連絡プリントぐらい翔太に送っておくか。
 携帯を眺めながらダラダラと駐輪場まで歩いていると、パートリーダーたちとの打ち合わせを終えて出てきた燈子先輩に追いつかれてしまった。
「あ、達樹くん。お疲れ様」
 OFFモードの、起伏の無い声。俺は昨日までその声を無条件に慕っていたのに…昨日の翔太の「薄っぺらい」という言葉が、濁った水のように先輩への思いを薄暗く汚した。
「…お疲れ様です」
 燈子先輩はそのままスッと俺を追い抜いて、駐輪場へ入っていこうとする。
 特に雑談などしない姿勢。それも、いつも通りのOFFモードの先輩だったが、今日の俺はどうしても、翔太の「薄っぺらい」に苛立って仕方がなかった。
「…あの、燈子先輩」
 追い抜かれざま、考えるより先に飛び出す声。
「少し。話せますか」

 変な感じだ。
 毎日翔太と帰っている川沿いの道を、俺は今日、燈子先輩と帰っている…。
 こんな状況、昨日までなら翔太に罪悪感というか、抜け駆けみたいで申し訳なさを味わうところだが、今や翔太の燈子先輩に対する感情はそういう類のもんではないと分かったので、遠慮なく先輩を独り占めさせていただくことにした。
「良かった。達樹くん、やっぱり大会出ません! とか言いにきたじゃないかと思って…心配した」
 燈子先輩は軽く笑う。
 本当に、指揮のときの0.2%くらいしか感情が見えない。練習中は、喜び、悲しみ、怒り、絶望、解放…全ての細胞を使って誰よりも豊かに表現し、俺たちの心と呼吸を散々に振り回すのに。こうして近くで話していると、まるで別人のようだ。
「い、言わないですよそんなこと! 燈子先輩の指揮、かっこよくて、ずっと見てたいです…引退なんて」
 晩夏の風が、夏の間に生い茂った川原の草むらをザラザラと揺らす。
「…してほしくないです」
 俺は最後の言葉を絞り出した。
 燈子先輩は、またも少しだけ笑う。
「ふふ、ありがとう、達樹くん。合唱と全然違う分野からだったのに、そこまであたしの指揮を見てくれて」
 夕暮れの風はさらに強まり、草むらを駆け登って燈子先輩の黒い髪を巻き上げた。
 大きな入道雲が遠くに光る。
「燈子先輩。本当に、引退するんですか」
 話を逸らされた苛立ちを隠せず、俺は問いかけた。
「三年生でも、大会出てる先輩いましたよね。燈子先輩もソプラノとして、来年の大会に出たり…」
 自分の発した言葉を自分で聞きながら、なんて現実味のない話だ、と心の中で両手をあげる。
「…しないんですか」
 語尾が自然と覇気を無くした。いくら起伏がなくても…目の前の燈子先輩がなぜ話を逸らしたのか、その表情から推し量れないほど、俺は燈子先輩のことを知らないわけじゃないだろうに。
「あー。受験のレッスン、本格的になるからね。出たいのはヤマヤマなんだけど」
 ほとんど抑揚のない文章だったが、恐らく最後のは嘘だろう。
「部活も本当は先生たちによく思われてないけど。指揮の実践練習になるってことで説得して、ギリ自分が指揮者の間だけ許されてるんだよねー」
「歌は実戦練習にならないんですか。歌だってレッスンがあるって、翔太が…」
 レッスン、のあたりで、燈子先輩はほんの少し目を細める。食い下がる俺の言葉から、何かを思い出したようだった。
 夏の間ずっと聞きたくて、聞けなかったことを、俺は知ることになる。
「あたしねぇ。自分が歌うことには、興味がないんだよね」
 ずっとレッスンのせいにして隠されていた燈子先輩の本音は、耳を疑うような、拒絶の言葉として突然現れた。
「興味が…ない?」