その日の晩、私は居間のテーブルを挟んで、両親と向かい合わせに座っていた。すぐ横のソファでは、兄がいつものように奇声をあげながら飛んだり跳ねたりの奇行を見せていた。
「ほらヒロくん。ソファには乗らないのよ」
 母がそんな兄を窘めるのに忙しいのはいつものことで、じっくり腰を据えて私に向き合えないのもまた、いつものことだ。
 それでも、いつになく真剣な様子で「話がある」と切り出した私に、両親は戸惑いを見せつつ対話の席についてくれていた。
「急にどうした? 改まって」
「お父さん、お母さん、単刀直入に聞くね」
 私は一度言葉を区切り、一拍の間を置いて再び口を開いた。
 これを聞けば、きっともう今まで通りにはいられない。けれど私の心に、迷いはなかった。
「お兄ちゃんの障害がわかっていながら、私を生んだのはどうして?」
 私の問いかけに、両親はひどく驚いた様子だった。
 なかなか口を開こうとしない両親に、私はさらに質問を重ねた。
「お兄ちゃんのための私、だった? 将来的に、お兄ちゃんの世話を任せたいって思って生んだ?」
「違う! 決してそんなつもりじゃない」
 父が即座に否定する。
 なにを聞かされても傷つかないつもりでいたけれど、『違う』の言葉はやっぱり嬉しかった。
「……そう。それなら放課後や長期休み、当たり前のように私がお兄ちゃんを見ることになっているのはどうして? 私、まともに友達と放課後に遊んだことがない。もう高校三年生だよ。こんな生活のまま、私の高校生活はもうすぐ終わる」
「待って朱音。お母さん、朱音がお友達と遊びたいなら止めないよ。行ってきていのよ」
「うん、それで帰ってきたら私はまたお兄ちゃんを見るんだね」
 答えながら、やはり母の論点は、少しズレていると思った。
「そういうわけじゃ……」
 よくも悪くも、父は家にいる時間が短い。対して母は、兄ともっとも多くの時間を過ごす。母は物事の主体が、当たり前のように兄になってしまっているのだ。
 いいとか悪いとかじゃない。これが母の日常であり、現実なのだ。
「お母さんは、私に指定校推薦で大学に行くようにしきりに勧めてたでしょう。でもね、私が本当に勉強したいこと、あそこじゃ学べない。私、叶うなら別の大学で勉強したいって思ってる」
「どうして? 朱音が希望してた学部があるじゃないの」
「学部が同じでも、大学ごとに力を入れてる分野はまちまちだよ。ゼミだってそう。……あの大学なら家から通えて、今まで通りお兄ちゃんのことを見られる。お母さんの中に、そんな思いが少しもなかったって言える? 大学生になっても社会人になっても、私はこの家でお兄ちゃんの世話をするって、それを当たり前に考えていない?」
 私のこの言葉に、母は声を詰まらせた。
「お父さん、さっき『違う』って言ってもらえたの、すごく嬉しかったよ。でもさ、現実的には私にお兄ちゃんの世話を期待しているよね。……正直に教えて欲しい。私を生むと決めた時、ふたりはどう思ってた?」
「父さんも母さんも、お前に世話をさせたいとは考えていなかった。本当だ。……ただ、きょうだいで助け合ってくれたらいいと、そう思っていた」
 聞かされた言葉は、私の胸に少しひやっとして、でも、どこか心地いい、そんな感触でスーッと染みていく。
 ……綺麗な言葉だった。でも、正しくない言葉だ。
 助け合いとは、ベクトルが双方向でもって初めて成り立つ。そのベクトルが一方方向であるならば、それはもう『助け合い』とは呼べぬものだ。
「聞かせてくれてありがとう」
 やはりふたりの根底には、私に対し何某か期待する心があった。ただ、私はもう、その事実を悲しいとは思わなかった。
 皆が皆、自分の考えでもって自分の人生を歩む。
 父と母が私に期待することも、願うことも自由だ。そして私が別の道を選ぶことも、また自由だ──。
「お父さん、お母さん、私やっぱり他の大学を受験したい。それで家を出て、ひとり暮らしをしたいの。ふたりが反対なら、学費や生活費は全部アルバイトと奨学金で──」
「馬鹿を言うな。娘の希望を反対するわけがあるか」
 父が、殊の外強い口調で私の言葉尻を割る。
「え?」
「朱音、お前には負担をかけてすまなかった。だがな、父さんも母さんもお前の幸せを願う心に嘘はないんだ。それだけはわかって欲しい」
 父の目に薄く涙の膜が浮かんでいた。その隣で母も涙を流していた。
「……うん。私を生んでくれてありがとう」
 自然と、こんな言葉が口を衝いて出ていた。そのことに、誰より自分が驚いていた。
 居間には相変わらず意味をなさない兄の奇声が響いていたけれど、昨日とは打って変わり、これっぽっちもうるさいとは感じなかった。