◇◆
「ヤン」
甘えたように僕の名前を呼ぶ雫の声に振り返る。雫にとって最も忙しい日になるんだろう。
ブランド物の高級チョコレートの紙袋を手に三つ。それなのに陳列したばかりの棚から八個も取り出したその姿に、溢れんばかりのバイタリティーを感じて、思わず口元が緩んでしまう。
レオさんがくれた薔薇の花はカウンターの棚の奥にそっと隠してある。流石に薔薇を渡して告白なんて、出来るわけがない。そうじゃなくても、中国で赤い薔薇を一本送ることは、愛の告白と取られてしまうのだから。
どうしよう。
いつがタイミングなのかわからない。
プレゼントなんて貰い慣れている雫に、コンビニのチョコレートってどうなんだろうか。
いやいやいや、だからそんなガチで渡すわけじゃないんだ。あああもう……レオさんが余計なことを言うから……。
「……っ」
もたもたしながら会計を済まし、八個のチョコレートを入れた袋を雫へと手渡した。
「ありがとうございました」
話しかけるきっかけすら見つからなくて、やけっぱちにそう口にした時だった。
「ヤーン」
つるんと艶やかな赤い唇が僕の名前を呼ぶ。
「これどうぞ」
受け取った袋の中からチョコレートを一つ取り出すと、雫は少し真面目な顔をして僕にそれを突き出した。
「あげる」
「……僕に? 何でですか」
「友チョコだよ」
「友チョコ?」
「知らないの? 日本語の勉強するなら日本の文化も知っておかないと」
「……日本の文化」
ったく、――。まさか雫にきっかけを与えられるとは思いもしなかった。
「とは言っても、私も誰かに友チョコなんてあげるの、初めてなんだけど。だいたい友達なんていたことないし」
「友達、いないんですか」
「うるさいな、ほらっ」
そんな高飛車な態度で渡されたって、どうしたらいいのかわからない。でもそんな姿すら可愛いと思ってしまった僕が負けなんだと思う。
「えっと、ちょっと待って」
雫が選んだチョコレートと同じもの、まさか彼女がそれを選ぶなんて思いもしなかったけれど。
自分で購入してレジ棚の奥深くに隠し入れていたものを、ずずっと指で引っ張り出す。
「これは僕からのバレンタインのプレゼントです」
「えっ?」
にやけそうになる頬にぐっと力を込め、まん丸の目で見つめる雫を見返した。
「私に??」
平常心を必死に保とうと、太ももの辺りをぎゅっと掴んでみるものの、どうして余計に力が抜けていくのだろう。
「まさか同じものを選ぶとは思いませんでしたが」
「何で……」
そうだよね。そうくると思ってたよ。
「友チョコです。今日はバレンタインですから」
君が呆然とした表情で僕を見入るから、澄ました顔で雫の手にチョコレートを渡すことが出来たんだ。
「いいの?」
「勿論です。雫に用意したのだから」
「……ありがとう。嬉しいよ、ヤン」
「どういたしまして」
ここにきて、初めて雫のことが愛おしいと思った。
「雫に友達がいないのなら、僕がなってあげますよ」
「もう、うるさいなあ」
「友達にはいつまでも幸せでいてほしいのです。雫は笑うと可愛いから」
ゆっくりと弧を描く視線が細くなって、雫は楽し気に笑う。
『萩野雫には幸せになってもらいたい』
もうずっと前から、思っていたことだ。初めて声を交わしたあの日からずっと。
「ヤンも最初、ぶっきらぼうだなあって思っていたけど。笑うと優しいの、知っちゃったもんな。誰よりも私に優しいのかもね」
「いつも大荷物で転びそうだから心配なんですよ。ほら、時間大丈夫なんですか」
「あ、ほんとだ」
雫はチョコレートの袋を手に、そそくさと店内を後にする。外はいつの間にか牡丹雪に変わっていた。
カウンターから出ると、雑誌のコーナーを整理する振りをして、小さな身体をひょこひょこさせて歩く姿を見送った。公園の向こう、今日もまた違う車が雫を迎えに停まっている。
せめてコンビニの駐車場まで迎えに来てもらえばいいものを。
彼女にとって、ここがリアルと仮想の境界線なのだろうか。僕は少しでもそのリアルに近づくことが出来たのだろうか
「さむ……」
あっという間に、真白の雪が雫の頭に降り積もっていく。
これが、最後、になるのかな。
大きな紙袋をいくつも肩に掛けて、コンビニに立ち寄っては温かなココアを買っていく。冷たくなった手のひらを温めるように、ふうっと息を吐く雫の姿が目に浮かんだ。
そんな姿をもう見れなくなるなんて、――。
「雫」
気が付いたら追いかけていた。
「雫っ!!」
振り返った彼女の頬が、案の定ピンクに染まっているのを見て、何故だかホッとしている自分がいた。
「待って」
ふわふわと降り積もる雪と、雫の着ている真っ白なコートが同化して、白の世界に溶けこんでしまったかのように見える。
ああ、雫はやっぱり雪うさぎみたいだ。
「これを渡すのを忘れていました。雫の手は冷た過ぎる」
思わず抱きしめてしまいたい衝動を、どうにかこうにか抑え込む。
「手袋?」
「バッグとか靴とか貰う前に、その冷えた手を何とかしてくれる彼氏はいないんですか」
「……いない、かも」
「でしょうね」
頭に積もった雪を払いのけてあげると、されるがままの雫がくすくすと笑いだす。
「ヤンって雪が似合うね」
「僕がですか?」
「うん。初めて会った時から思ってた」
雫が思う初めては、いったいいつの僕なんだろうな。
「雫の方が雪が似合いますよ」
「え?私?」
きっと、あの日、――。すれ違った時だ。
雫の視界に、僕が初めて入り込んだ日。
「僕も雫は雪が似合うと思っていました」
「ほんと?」
「はい、雪うさぎのようです」
「……うさぎ」
ゆっくりと、弧を描いていく口角。そんな笑顔を間近で見れて、僕はたまらなく嬉しくなった。
「僕はちょっといなくなります」
「えっ」
「うさぎは寂しいと弱ってしまうから心配です」
「……えっと……」
「少ししたらまた戻ってきますので、僕のうさぎがまたにこにこしてくれたら嬉しいです」
「……ヤン?」
「また会えますか」
その透き通るような白い肌をピンクに染めたのは、きっと寒さのせいだけじゃないと信じたい。
少しぐらい思い上がったって……いいよね??
僕を見入ったまま動けなくなってしまった雫のコートのポケットに、隠していた薔薇を差し込んで。
「……ヤン??」
そのピンクの両頬をゆっくりと手のひらで覆ってみせた。
「自国の文化が全てだなんて思わないでくださいね」
なんて、――。さっきレオさんに聞いたばかりのバレンタインの逸話を頭の中で復唱する。
赤い1本の薔薇は、愛の告白。そんなこと、雫が気付くわけもないだろう。
「さあ、いってらっしゃい」
気付いたところで何かが変わるわけでもない。
「あ、うん。もう行かないと。……お花、ありがとう」
「いえいえ。では」
何か言いたげな雫から、そっと距離を空ける。背中に視線を感じながらも、振り返ることなく僕は店へと歩き出す。
今はいい。
このままで、いい。
だけど、――。ホワイトデーに繋がる何かが生まれたんじゃないかって。
ちょっとくらい期待したって……いいよね。
中国に帰ったら、雫に似合うマフラーを探そう。コンビニの手袋じゃなくて、ちゃんとしたものを贈ろう。これって僕も貢いでることになるのかな。
まあ、いっか。
フォーチューンクッキーをお土産に、二人の運勢を占えたらいいなって。そんな夢を描いた僕はやっぱり、バレンタインに舞い上がっているだけなのかもしれない。
ねえ、雫、――。
僕がいなくなったら少しは寂しいと思ってくれるかな。
ホワイトデーまでにはもう一度、日本に戻ってくるから……さ。
その時はまた、僕の名前を呼んでくれる?
僕のうさぎがずっと、白くふわふわのままでありますように。
今は交わる運命じゃないとしても、いつか どこかで、雫とならまた近い未来に、巡り合うような気がするんだよ。
fin