◇◆

「で?? どんな感じなのよ」

 久しぶりに事務所に顔を出してみると、レオさんはこれから出かける予定らしく、イタリア製だという先の尖った靴をピカピカに磨いていた。

「ヤーンちゃん」
「……何ですか」
「俺、思い出したんだよねーっ」 

 ほんの少し嫌な予感がして、思わず眉間に力が入る。

「雫ちゃんてさ【Sleeping Beauty】の子だろ」

 ああ、やっぱり、――。
 レオさんの洞察力はあなどれない。このままばれなきゃいいのにと、黙っていたことすら見透かされていたようでいたたまれない。

 間抜けだ、――。

「だからヤンちゃんは自分が担当するって言い出したのか」
「すみません」

 目を逸らしたまま小さな声で詫びることしか出来なかった。

【Sleeping Beauty】

 あの場所は、いわゆる会員制の高級クラブらしい。大通りに面した雑居ビルのフロアをぶち抜いて、店内はそれぞれの個室に改装されている。
 白を基調としたデザインで、ベイビーブルーをキートーンにした内装。
 受付で手続きを済ませると、ひとりひとり個室へと案内され、扉を開けると女の子が出迎えてくれる。
 彼女たちが何をしてくれるのかというと、いわゆる添い寝だ。安い風俗店にある添い寝屋とは違って、ただ一晩中話をしたり、一緒に映画を観たり、そして添い寝をしてくれる、それだけのお店なのだ。
 勿論、酒も出ないし、セックスなんて論外だ。
 会員になるには紹介者が必要で、先ずそれなりの金額を預けるらしい。男性客だけではなく女性客も多く、ひと時の癒しを提供することが彼女たちの主な仕事なんだそうだ。
 萩野雫との最初の出会いは、この店だった。
 去年、――僕は軽いホームシックにかかっていた。春節に故郷に帰れなかったことが原因で睡眠障害をも併発していた。
 春節というのは日本でいう旧暦の正月。僕たち中国人にとって、最も重要とされる祝祭日だ。
 まだ日本語もあやしくて、友だちなんていなかった僕は同じような留学生とばかりつるんでいた。春節に帰国することだけを楽しみにしていたのに、チケットを共同購入するからという同じ中国人留学生に騙されて、溜めこんでいた資金のほとんどを持ち逃げされたのだ。
 何日も眠れずに痩せこけていく僕を見かねて、レオさんが連れて行ってくれた場所が【Sleeping Beauty】だった。
 日本人ってやつは、いろんな商売を思いつくんだなって。
 ただ一緒に寝るだけの仕事だなんて、ありえないだろ。
 いわゆる風俗的なサービスを受けさせてくれるんだろうと勝手に思い込んで、レオさんの心遣いにちょっぴりうんざりしていたのが本音。
 疑心暗鬼に足を踏み入れた空間は、いかがわしい想像をしていた僕の予想をはるかに裏切ってくれる場所だった。
 緊張でカチコチにになった僕を迎えてくれたのが、萩野雫。
 日本人じゃないことがばれるのが嫌で、会話なんてほとんどしなかったと思う。
 手を引かれベッドに座らせると、真っ新なパジャマを取り出しこれに着替えろと言う。
 その声は柔らかくて、優しくて。僕の緊張を穏やかに解いていく。話しかけられても黙ったまま、ただただ頷いて。一定の距離を保ったまま、僕たちはひとつのベッドに寝転がった。
 ゆっくりと照明が落とされた時、そっと瞼に温かな手のひらを感じた。

「眠たい?」

いいや、――。
僕はゆっくりと首を左右に振る。

「そっか」

そして、――。
僕の耳に聞こえてきたのは、シューベルトの子守歌。

眠れ 眠れ 母の胸に
眠れ 眠れ 母の手に
こころよき 歌声に
むすばずや 楽し夢

「煩い??」

いいや、――。

「歌、嫌い??」

いいや、――。

眠れ 眠れ 母の胸に
眠れ 眠れ 母の手に
あたたかき その袖に
つつまれて 眠れよや

眠れ 眠れ かわいわが子
一夜寝て さめてみよ
くれないの ばらの花
ひらくぞや 枕辺に

眠れ 眠れ かわいわが子
一夜寝て おきてみよ
かおりよき 百合の花
におうぞや ゆりかごに

心地よい振動を胸に、優しい歌声を耳に、――。

あの日、僕は久しぶりに熟睡した。短い時間だったけれど、自分勝手に意固地になっていた想いが、ふっと解けていったような気がしたんだ。

「おはよ」
「……おはよう」
「あ、話したくないのかと思った」
「いや、そんなわけでは……」
「君、素敵な声をしてるのね」

 これが恋だというのなら、僕はあの場で恋に落ちたんだと思う。

「もっとお話しすればよかったね」

彼女の優しい眼差しに僕はしばらく視線を外すことが出来なかった。黙ったままその瞳を見据える僕に、彼女は何も言わずただ穏やかな笑顔を浮かべていたんだ。
 それが、彼女の仕事だったとしても。

「雫ちゃんは炎彬のこと、覚えてないのか?」
「覚えてるわけないでしょう」

 彼女にとって僕は、ただの一晩の客。何か突拍子もないことがあったのならまだしも、記憶の片隅にすら留めていないだろう。

「手っ取り早く稼ぐには、アフターで付き合うのが早いんだろうけどな」
「相手は選んでるようですけどね」
「で、どうなの。宮城とは別れられそうなの?」
「はい。彼女の方はもう既に距離を置き始めています」
「まじか。またどうして」
「相手が本気になりそうだからです」

 彼女は若さゆえに勢いのまま男に貢がせているんだろう。

「引き際が肝心ってことか……」
「でしょうね」

 この見極めの絶妙さが彼女の才能でもあるんだろう。

「それでおまえと雫ちゃんはどういう感じなわけ?」
「相変わらず店員とお客ですけど」
「なんだなんだ、つまんねえな」
「でも、ちょっと……少しずつ、自分のしていることに対して罪悪感を持ち始めているような気はします」
「ほう」

 心のどこかでは、こんなことが長く続くわけがないと思っているはずだ。
 善悪を説くつもりはない。
 ただ、見ているよ、と。
 ほんの少し、心を抉るような、そんな会話を挟むだけ。

 あのコンビニエンスストアで何度も顔を合わせるうちに、表情も少しずつ読み取れるようになってきた。彼女の方から僕を探して話しかけてくれるようにもなった。

「雫っていうの」
「しずく?」
「そ、私の名前」

 人は名前を知ると途端に存在が近くなったような感覚になる。

「あなたの名前、何て読むの?」

 胸に付けたネームプレートを指さすと、雫は上目遣いに僕を見上げた。
 興味?好奇心?探求心?そんなものは何だっていい。その表情には、僕に対して今までにはなかった感情が芽生えていることは、確かだ。

 公園の向こう側、赤いコンバーチブルが停車する回数が減ったことを、僕は密かに喜んでいた。